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カントの道徳規準

正確な記憶ではありませんが,カントが道徳の一つの規準として次のようなことをいっていると本で読んだことがあります. "ある行為を一人の人が行っても大したことにならなくても,多くの人が行えば,社会全体にとってよくないあるいは害になるような行為は,個人の行為としてもよくないと考える". 例えば,道路にゴミを捨てる行為は,,一人の人の行為としては,大したことにならなくても,多くの人が行えば社会的に害になるから,一人の行為としても認めるべきではない. このような意味であったと記憶しています. このようなことはカントのどの本に書かれているのでしょうか.

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回答No.1

カントの道徳律の定言命法というのだろ? 「君の道徳の格率が、同時に万人の普遍的律法の原理に一致するように行為せよ」とか「他人を手段として考えるのではなく、目的として考えよ」というやつ。 なぜ命法というかと言えば、内的な義務感に基づいて、行為することだから、いわば命令だ。 つまり外的な一切の条件や状況を顧慮することなく、単におのれの義務感に基づいて、善いことは善い、悪いことは悪いというもの。 だからカントの道徳律は形式的だと言われる。 だけど自分一人の道徳の規準である格率が、普遍的な道徳律に一致していることをどうやったら知ることができるのか、その辺があいまいだ。 そこから、あなたのような質問が出てくるのは必然だと言える。 たとえば戦前のナチスで社会全体が戦争をするのが善いことだと考えていた場合、それに合わせることが善いことなのかどうか、難しいな。 だから「ある行為を一人が行なっても大したことがないのに多くの人が行えば、社会全体にとって善くない、あるいは害になるような行為は個人としても善くないと考える」ということが実際にできるかどうか疑問だな。 あんたにそれができるか? 社会全体が戦争をしていて、戦争を善いことだと考えていた場合、個人としてそれを悪い行為だと言えないだろうし、悪い行為だというのには勇気を必要とする。 だから、社会全体がそれを善いことだと言っていても、それが個人にとって善いことだとは限らない。 いいかえれば社会全体は善いことの基準にはなりえない。 みんながやっているから、自分もやろう、みんながやっていることが善で、自分のやっていることも善だとは言えない。 あんたの言っていることはカントの道徳律のもう一つの仮言命法だと思う。 定言命法が「文句なく無条件に」ということだとしたら、あなたの言っていることは条件つきだ。 仮言命法とは、みんながそれをやっているから、それは善いことなのだろうと判断して自分も行為するというものだ。 あなたの例えでいえば、「多くの人がゴミを捨てれば、社会的に害になるから、自分一人でも、それをすべきではないと判断してそれを行なわない」ということだから、それは仮言命法になり、カントの定言命法とは違うことになる。 普遍的律法に一致するように行為せよ、というカントの道徳律が実際には何を意味しているのか、それがあいまいだから、あなたのようにそれを仮言命法と同一視することも出てくる。 カントの道徳律を知りたかったら、「道徳形而上学の基礎付け」とか「実践理性批判」を読むしかないな。

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質問者

お礼

早速のご回答有り難うございました. 道徳律そのものを問題にしているのではなく,どの本に出ているかを尋ねたわけですが,ご指摘の本を調べてみます.