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倫理学という学問分野について

 倫理学という学問分野があります。ウィキで調べたら別名”道徳哲学”ともあり、哲学の1分野を構成しているように見えますが、道徳と哲学は相いれないようなことはないでしょうか。ニーチェが"道徳とは..."と語ったら批判的な言葉が出てきそうです。  一方で倫理という言葉は日常語的に解釈すると、医療従事者の倫理とか技術者倫理などのように”専門家は誠実でなければならない”とか割と当たり前のようなものにもなりそうです。”正しいことをしよう”、というような印象になって”でも人間は私利私欲にまみれて必ずしも正しいことをしない。しかし、社会のために誠実に正しいことをしなくてはならない”というような既に認知されているので眠くなるようなことになり、逆にカント哲学のような面まで掘り起こしてそこから到達した結論なのかと思うと眩暈がしそうなぐらい難しいことなのか、など捉えどころが分かりません。ときどきネットで”人として許しがたい”とかいう言説も見られますが、人としてどうあるべきかということなのでしょうか。倫理学は総じてどういう学問なのか知りたいのですが。 ※ニーチェ、カントなど書きましたが、内容は全然知りません。そんな風らしいという程度のことです。

みんなの回答

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.5

No3、もしかして質問者さんは、 仏教哲学の領域にも同時並行で踏み込んでるのでは? …そうなると事は複雑です。 仏教での倫理や哲学は、釈迦の悟りを通して死後や天上の世界まで理解しようとするものであり、 そこで表現される言葉は時に仏教用語として、下世話の者が用いるのと同じ言葉を用いながら意味は全く違う場合も多々あります。 …その理解は常人世界とは似て非なるものと解釈せざるをえません。 その道の専門家である筈のお坊様が説教するのを聞いていても、下々の者が理解できる話で喩えるのにも翻訳の苦心が見えたりします。 そこまで至ってしまうと、私のような素人が一般的な倫理や哲学に説明を加えようとしても、混乱や誤解を招くばかりかと思います。 もしも通常の倫理や哲学に仏教の教えを持ち込もうとしてるのなら、仏教用語では言葉の意味が逆転してる場合も有るので、混乱を避けるためには仏陀が遺した説教まで理解する必要があるかと思います。 …仏教哲学で解説される用語には通常社会とは全く違う意味が込められてる場合が多いです。 それはそれで仏教的な言葉の意味として理解ができてからでなければ、一般的な倫理や哲学とは別に捉えておくほうが良いだろうと思います。 以上、私の思い違いかもしれませんが、 仏教哲学的な解釈の混同が有るような印象を受けたので、参考まで補足回答させてもらいました。

skmsk1941093
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私は全くの素人ながら自分が志向している方向は東洋・仏教方面とは異なっています。 例えば、ニーチェはキリスト教とか神とか僧侶などを否定的に捉えていたということになっているようですが、私は額面通りに受け取っているわけではありませんが、その方向(西洋)に照らして考えてみようとは思っています。 例えば、哲学者カントは”全人類が滅亡しても善は行われるべきだ”と言ったそうです。しかし、現代の技術者倫理で人間が生きることを否定する可能性がある言葉が出てくるはずはないわけで、倫理=道徳”哲学”など言われると混乱してしまいそうです。そこで倫理って何なんだ?という疑問に至りました。 ちなみに私の仏教体験としては臨済宗の禅寺での1週間程度の参禅ぐらいですが、その時は哲学的な志向がゼロでした。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12512)
回答No.4

以下のとおりお答えします。 >倫理学は総じてどういう学問なのか知りたいのですが。 ⇒なるほど、「倫理学」の別名は「道徳哲学」ですか。しかし、こう言い換えてもらっても、「分からなさ」には大差ないように思います。そこで他力本願の私は文献を探してみました。本棚の片隅でホコリだらけになっている『哲学事典』(平凡社)を引っぱり出してみました。 以下は、この文献の1485ページ以下からの抜粋です。 ①倫理学は、昔から哲学の基本的な部門とみなされてきた。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、「(倫理学は)後天的な習慣によって獲得すべき良い行為(徳)の原理の探求がその主題である」としている。 ②時代の転換期に見られる新旧思想の衝突は、しばしば倫理やモラルの問題をめぐって起こってくる。このような場合、当の倫理学は生きた道徳意識やその理論化・体系化問題として現われてくる。 ③道徳の規範や目標を考えるとき、まず2つの対立した見方があることを知る。すなわち、道徳を《永遠・不動・絶対のもの》と見るか(先験主義・絶対主義)、あるいは《歴史的・発展的・相対的なもの》と見るか(経験主義・自然主義)である。 ④第1の見方は、道徳律(善)が「人間に備わっている純粋直観・実践理性・道徳的感覚などによって」捕えられるものとし、人間の個人的経験によって左右されない絶対的な道徳観をかかげる。プラトンやカントの立場がこれであった。 ⑤第2の見方は、道徳を、孤立的な現象として絶対化せず、「人間社会の他の諸側面(政治・経済・法律など)とのつながりにおいて発展的・相対的に」理解しようとする。ロック、マルクス、マンデヴィル、ベンサムなど多様な哲人がこの部類に属する。 ⑥絶対主義・先天主義の立場は、道徳的関心を経済問題などから引き離し、抽象的な人間性だけを問題とする観念論的個人主義である。ドイツ観念論哲学がその代表である。 ⑦これに対し、18世紀以降の英仏の倫理学は、道徳の経験的な性質を認めて、社会の成立における倫理の役割を分析しようとする。現代でもこの学派の考え方が主流になっていると見ることができる。 まとめ: 倫理学の定義とその研究史を要約すればこうなる。 「(倫理学は)社会的存在としての、人間の間での共存の規範原理を考究する学問である。倫理の原理に関しては大きく2つの立場がある。1つは、これをア・プリオリな永遠不変のものと見る立場で、上で見たとおりプラトンやカントがその代表。もう1つは、これを社会的合意による歴史的・発展的なのと見る立場で、アリストテレスや近現代の英米系の倫理思想の多くがこれに属する」(以上、『広辞苑』参照)。

skmsk1941093
質問者

お礼

回答ありがとうございました。視点をずっと後方に戻すのですが、少なくとも哲学の1つの分野ということは確定できそうです。そうすると、哲学の持っている射程の長さと同じ程の視野を持つと思われます。 しかし、社会一般の認識としては困っている人を助けるとか、約束を守るとかかなり近視眼的なところに収まっているように思います(哲学はそういうことに関する論考はあまりしないようです)。技術者倫理ということで言えば、スペースシャトルの事故のときに技術的に予見可能だった場合、打ち上げを止めることをしなかった云々ということの倫理的な是非論となります。その辺との折り合いがまだ付いていないところです。

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.3

お礼コメント見ました。 難しい回答を理解してくれて有り難うございます。 やはり思った通り、森の入り口で同じように見える木でも違いが有るかもしれない事に勘づいていたのですね。 ウィキの内容には、個人の見解が検証されないまま載ってる場合も有るので、疑問に感じる事は自分なりに確認してみる必要があります。 「倫理」と「道徳哲学」の関連は、具体的知識が無く学問的な説明は不可能ですが、 『倫理』とは …集団社会の中で他者との関わりを「風習」や「人格」の観点から、 『互いの尊厳を損ねない「理(ことわり)」を説くもの』 と解釈すれば良いかと思います。 『道徳哲学』とは …「人」としての習慣や行動について、 『善悪や正邪判断を基点に「深く考察(哲学)」する学問分野』 という解釈で良いだろうと思います。 …以上、入り口判断の参考まで。

skmsk1941093
質問者

お礼

回答有難うございます。 --- 『倫理』とは集団社会の中で他者との関わりを「風習」や「人格」の観点から、『互いの尊厳を損ねない「理(ことわり)」を説くもの』 --- 集団社会(大衆という言い方になるときもある?)と個人の関係というのは昔からいろんな論考が積み上げられてきているように思います。 この定義によると、全人類滅亡し、自分自身が一人生き残ったとき、倫理という問題は解消してしまうということになるでしょうか。 --- 『道徳哲学』とは「人」としての習慣や行動について、 『善悪や正邪判断を基点に「深く考察(哲学)」する学問分野』 --- 哲学の根本は”知を愛する”ことであり、真善美を信奉するわけですが、善悪(正邪)の彼岸にまで射程を取るのではないかと思ったりします。”彼岸”とは無関係な境地ということなのですが。深く哲学する、ということですが、大森荘蔵(だったか?)は”真理は表層の宿る”って言ったとか言わなかったとかです。 私の偏ったヘンな予備知識が邪魔をしているのかもですが。

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.2

「ウィキ」「ニーチェ」「カント」 …誰かが言えば、それが正しいという前提なのかな? なにか、 解釈に混乱か混同でも有るのかな? 個別専門領域の解説に領域の重複は有っても矛盾にはならない筈なんだけど、だからといって全ての一致が求められるものでもない。 重複領域の存在も認めながら個別専門領域を認識しなければ、 領域を越えて画一的な解釈を加えても矛盾と疑問と誤解と混乱を生むばかりでしかない。 個別の対象には個別適切な解釈で領域の範囲を認識しながら、 重複領域の存在をも認知し双方に合致する解釈、個別領域には個別解釈の適用で、分野による違いというものを認識しなければならない。 個別領域の解釈は個別に行うべきであり、領域の混同からは混乱と誤解しか生まれない。 …先ずは「ウィキ」「ニーチェ」「カント」の、 それぞれを別個に捉えながら、合致点を見つけてから相違を認識するのが良いかな。 「森を見て木を見ず」「木を見て森を見ず」では、入り口から入っても中で迷ってウロウロするだけだから。

skmsk1941093
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >…誰かが言えば、それが正しいという前提なのかな? まだ、正しさとか間違っているというような判断の段階まで至っておらず、”倫理”という言葉に対する全体的な見通しを付けたいと思いました。 >なにか、解釈に混乱か混同でも有るのかな? このままだと混乱するな、と感じたので質問しました。 倫理=道徳哲学ということで、この言葉の中の”哲学”は社会の安寧とは一線を画するもののようですが、技術者・医療従事者の倫理は社会のためによいことをなす、ということが前提のように見えて出だしのところから混乱しそうに思いました。 ”技術者・医療従事者の倫理と道徳哲学としての倫理は無関係である”と宣言されると割と私程度だとスッキリしそうです。 ---- 個別専門領域の解説に領域の重複は有っても矛盾にはならない筈なんだけど、だからといって全ての一致が求められるものでもない。 --- 高度な読解を要するように思いました。そういうことなのだろうと思います。言葉のあやとか反語とか比喩とかのレトリック(って言うんでしょうか)に惑わされて真意を曲解することもありそうです。

  • f272
  • ベストアンサー率46% (8467/18126)
回答No.1

倫理学は総じて規範の根拠について考える学問です。 規範とは,規則、ルール、金言、法律、道徳などのことを言いますが,その規範がどうしてそうなっているかを考える学問です。その理由,根拠を他の人にも理解できる言葉で表すことが目標です。

skmsk1941093
質問者

お礼

回答ありがとうございます。規範の根拠を与える学問ということですね。理由や根拠を問うという行為はその規範の是非について検討するという視点を開かせる面があるので 否定という結論もアリということになるでしょうか。 また、規範というと例えば、赤信号で止まり青信号で進むというルールの理由ということを考えると、それは社会の安寧もありますが、自分自身が目的地に到達するために最も都合のいい方法だから、すなわち自分の利益のため、と言えるように思います。 一方で、根拠はないが、なすべき義務があるとカントは定言明法で語っているということではないでしょうか(聞きかじり)。 〇〇倫理、倫理〇〇のように”倫理”という言葉が含まれているものがいくつもありますが、それらは本家の”倫理”とは異なる(あるいは無関係という)ことになるでしょうか。

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