• ベストアンサー

道徳の起源について

道徳を「利他的行動(自己を犠牲にして他者の利益を図る行動)を行おうとする性質」とします。 有史以来、戦争や飢餓を繰り返す中で、歴史に学んだ結果の智慧として現れたのでしょうか? あるいは有史以前、人が集団生活を始めたときに社会を安定させるための技術として生まれたのでしょうか? さらにはヒトが進化していく中で、利他的行動をとるようプログラムされた本能なのでしょうか? 他に、はじめから神によって規定されているという考えもあると思います。 ご意見や参考となる本などをご存知ならよろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • freulein
  • ベストアンサー率39% (94/237)
回答No.3

その群れに役立つ行動でときには自己犠牲をも含むものを道徳と捉えるならば、群れて暮らす生き物には必ず道徳らしきものがありますしあるはずです。サル・犬・ハチ・アリをも含むでしょう。 群れて暮らすことを選ぶ者に課せられる規則が道徳で、その群れの役に立つ(道徳を持つ・道徳に服従する)ことを選ぶあるいは選んでいる振りをすることが参加への必要な条件です。大切なことですが、群れから離れて暮す個体(山で独り暮す人間・サル)には道徳が追いかけてくることはありません。シートンや戸川幸夫らの動物文学には詳しいですね。ハチやアリの外敵防御における自己犠牲は大きなものです。彼らに死が近づくと巣に帰りたがる傾向が認められるようですが、群れへの帰属意識も強いようです。群れへの奉仕(道徳)とはかなり原始的な契約と考えるべきでしょうか。

newcivilization
質問者

お礼

ありがとうございます。 私の定義だと動物にも道徳が存在するというご指摘は、確かにそうですね。 群れのなかでも役割分担を持つような群れ、つまり社会性を持つ生物に特有の現象なのでしょうか。 シートンや戸川幸夫は読んだことがなく、参考にさせていただきまます。

その他の回答 (3)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

Ano.2です。 >「「利他的」のなかに、自己犠牲を伴わない行為を含めるのは、少し本来の意味からずれると思います。」 「ウィンウィン」という関係をご存知でしょうか。一方的な自己犠牲を利他というのは、道徳の名に値するか >「仮にそうだとしても、利他的行動の結果、明らかに自分も直接的利益を得るのであれば(繰り返しますがそれは「利他的」とは言えません)、善人から犯罪者まで誰でも当然そうするのであって、疑問の余地はありません。道徳をどう定義するにせよ、少なくともそれは道徳の定義になりません。 だからこの問いには、自分が不利益を被ってでも=自己を犠牲にして=(厳密な意味での)利他的、という条件が必要なのです。」 ・・・「利他的行動の結果、明らかに自分も直接的利益を得るのであれば(繰り返しますがそれは「利他的」とは言えません)」??? サッパリ全然、意味が判りません。 >「(厳密な意味での)利他的」 アナタが勝手に頑張ってください。

newcivilization
質問者

お礼

度々ありがとうございます。 あなたはwin-win関係は利他的関係である、つまり利他的関係とはwin-winであるべきであり、それこそが道徳的である、と考えているのでしょうか。 俯瞰したとき、どちらかの一方的犠牲があればそれは道徳的ではないと。そうかもしれませんね。 それを行えば見返りが期待できるという事を、予め知った上での言動は、理解しやすいです。自分も得する訳ですから。しかしそれは、それなら犯罪者(つまり不道徳者)でも実行すると先に書いたように、果たして道徳的でしょうか?その意味でwin-win関係は利己的動機による、結果論としての利他的関係に過ぎないのです。 恐らく、道徳の定義に対する考え方が違うために意図をうまく伝えられなかったと思います。 私は、各個人の中にある一見非合理的な自己犠牲の衝動はどこから来るのか?を考えています。 例えば、田舎によくある無人の野菜売り場で野菜を買った後、誰も見ていないのにお金をちゃんと入れていく行為はどうでしょうか?生物は経済合理的に動くという本質を持ち、社会的動物である人間でさえもその原則によって社会性を進化させてきたという観点から見れば、一見非合理的です。しかし、長期的に見ればwin-win関係に誘導されるという事である程度説明できそうです。このあたりは囚人のジレンマや社会的ジレンマでいう、繰り返しゲームにおいては協調行動が最も”得”となる、という話に通じると思います。 では無神論者(来世の見返りを期待していない)が、その行為が死後賞賛される見込みもない(死後の名誉を期待してない)場合でさえ、命を投げ出して、肉親でもない人を救う行為はどうでしょうか?つまりこれが自己犠牲です。そうしない方が明らかに経済合理的であるにもかかわらず、なぜそうするのか? この問題が難しいと思われるからこそ、宗教が入り込む余地があるのでしょう。しかし決して、「お天道様が見ているから」「地獄に落ちるから」に象徴されるような宗教的な拘束が全てではないと思うのです。この点は、実質無宗教である現代日本人は実感しやすいのではないでしょうか。 先ほどの野菜売り場の例にしても、協調行動に誘導される事を各個人が理解して行動している訳ではありません。お金を入れずに立ち去ろうかと思った時、なんとなく感じる「やましさ」はどこから来るのか?が私の知りたい事です。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

>「道徳を「利他的行動(自己を犠牲にして他者の利益を図る行動)を行おうとする性質」とします」 全然違うと思います。 >「利他的行動(自己を犠牲にして他者の利益を図る行動)を行おうとする性質」 もっと何か別の言い方があるか、もしくは「自己を犠牲にして」の部分が「余計」です。 >「利他的行動(他者の利益を図る行動)を行おうとする性質」 で、ようやく「奉仕活動」とか、それくらいかと

newcivilization
質問者

お礼

ありがとうございます。 「利他的」のなかに、自己犠牲を伴わない行為を含めるのは、少し本来の意味からずれると思います。 仮にそうだとしても、利他的行動の結果、明らかに自分も直接的利益を得るのであれば(繰り返しますがそれは「利他的」とは言えません)、善人から犯罪者まで誰でも当然そうするのであって、疑問の余地はありません。道徳をどう定義するにせよ、少なくともそれは道徳の定義になりません。 だからこの問いには、自分が不利益を被ってでも=自己を犠牲にして=(厳密な意味での)利他的、という条件が必要なのです。

noname#194996
noname#194996
回答No.1

>有史以前、人が集団生活を始めたときに社会を安定させるための技術として生まれたのでしょうか? これが近いと思います。 進化論的にいえば、人間社会が進化して効率をあげていく過程で必然的に発生したその一要素であり傾向であるように思われます。本来的にいえば、世界中に現れた多くの社会が競合し合っていくあいだでこういったここの社会のこの性質もその淘汰の要因になるのでしょうが、そうなるまでにグローバル化が急速に進展してきましたので、結局、モラルが人類そのものの絶滅にブレーキをかけられるかどうかという瀬戸際に来ているような気がします。

newcivilization
質問者

お礼

ありがとうございます。 人間の社会形成の過程で磨かれてきたということでしょうか。 グローバリゼーションをはじめとした現代社会の急激な変化による危機に対して、有史以来ゆっくりと熟成してきた道徳がその防波堤と成りうるか、という点については、それが絶滅的危機になればなるほと、道徳もまた大きく変化して対応するのではないかと考えます。