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ヴィパッサナー冥想とは 痴愚主義のグローバル化か?
- ヴィパッサナー冥想とは、日本テーラワーダ仏教協会が勧める冥想の一種であり、痴愚神礼賛のグローバリゼーションではないかと問われている。
- ヴィパッサナー冥想の実践には、スローモーション、実況生中継、感覚の変化を感じ取るという三つの原則がある。
- ヴィパッサナー冥想は、日常生活の中でも気づきを実践できるようになる簡単な動作で行われる。歩く冥想は集中力の向上や心と体の調和を促す効果があるとされている。
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こんばんは。 ☆日本テーラワーダ仏教協会の勧めるヰパッサナー冥想とは 痴愚神礼賛のグローバリゼーションではないか? ◇まぁ~、テーラワーダですから(笑い)。 「テーラワーダですから」の一語に尽きます。 Wikipediaの記述の方がいいですよ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3 ここに書いてある、 方法なんかが参考になるかと思います。 で、 自身の体が腐敗し、ウジなんかが湧き、朽ちていくさまを観想するのとか、 自分の体が骨でつながっているのを思い描き、観想するのとか、 色々あるみたいですよ。 イメージしやすいように、 死体が腐敗してゆくさまを実際に見たりもしたらしい。 さすがに今はこんな遺体が腐敗するさまを実際に見たりはしないと思いますけれども、 それでも、 読んだ本によりますと、 今現在でも、タイあたりでは、警察の遺体置き場(?)などに僧侶が行って、色々な遺体を見たりできるらしいです。中には、腐敗している遺体などもあるのかもしれませんね。 まぁ、イメージ療法、イメージによるショック療法ですかね。 自身の体はこんなにもバッチイんだ、 こんなバッチイものは、執著の対象になるものではないし、執著の対象にすべきでもない、 と心の底から思い込ます。 そうすれば、自身の肉体や異性に対する執著が断てるに違いない・・・。 スッタニパータのマーガンディヤにある「(女の体なんて)足の裏でも触りたくない」みたいな感覚・・・。 仏伝の伝えるところによりますと、 中には、自身の体を恥じて自殺しちゃった出家修行者もいたらしいです。 なので、戒律によって、自殺が禁じられている。 テーラワーダなんで、どうでもいいな~♪ 弁護するつもりは、さらさらありません(ニコニコ)。
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- NemurinekoNya
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実修を伴う毘鉢舎那について、詳しくないので、 何ともお答えようがないのですが、 いわゆる毘鉢舎那というのは、 ヨーガをしているときに、観察の対象を心の中で作り、それをよく観察する、という感じのもの。 古代インドでは、 ヨーガ中に、心中(?)に現出させた対象の方が現実の対象よりもより真実に近い、と考えるので、 こうした瞑想法・観察法が生まれた。 そして、これは、仏教の専売特許でもない。 よく知らんがためにヨーガをする。 精神集中や精神安定のためにヨーガをするわけではない。 現出という言葉を使いましたけれども、ひょっとしたら、非思考・非経験領域の話なのかもしれません。 ですから、 日本テーラワーダ協会の毘鉢舎那はかなり異質。 少なくとも、わたしが知る毘鉢舎那とはかなり異なっている。 劣化版(?)、あるいは、一般の誰でも、容易に、手軽に毘鉢舎那(?)ができるようにしたもの。 ですから、 「日本テーラワーダ仏教協会の勧めるヰパッサナー冥想とは 痴愚神礼賛のグローバリゼーションではないか?」 ですわね~。 だから、世界中に広がっているんでしょうけれど・・・。
お礼
つづきましてです。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ 「日本テーラワーダ仏教協会の勧めるヰパッサナー冥想とは 痴愚神礼賛のグローバリゼーションではないか?」 ですわね~。 だから、世界中に広がっているんでしょうけれど・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ん? 世界中の人びとが こぞって――かんたんに出来るから――痴愚神礼賛の波に寄って来る。ですか。 いくらか ムラカミハルキ・ワールドに似ている。おもしろいけれど 中身がない。《人間》がいない。モヤモヤ・ワールドの中に入り浸った人びとがいる。 あっ。わたしは 世界的に有名な日本人作家をけなしている。 それは テーラワーダのオシエがおかしいと思ったその内容にちなんでである。 わたしは この批判をするときに 内心 怒っている。 こんな幼稚な内容が 世界中をかけまわるということに憤りを感じている。 また そのような現象を前にして 必ずしも認識しようとせず したがってしっかりとした批判をしようとしないほかのブディストたちの態度 これにも 怒りをおぼえている。 そう言えば 『怒らない』とかいうタイトルの本を スマナサーラ氏は出しているとか。 あっ。わたしは 怒りをおぼえている。そうとう激震である。うんぬんと実況中継する。その心のウゴキをラべリングする。・・・こうすると 心が開かれて成長するらしい。・・・ 以上 わがヰパッサナー瞑想 おわり。
- NemurinekoNya
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「教えて!」に回答を送るのが、うまくいきません。 回答を送ったのに、質問の下に回答が表示されません。 送った回答が反映されません。 ですから、ひょっとしたら、この回答の前に、別の回答が届いているかもしれません。 そのことをお断りして、まず、お断りして。 ☆ 《ラべリングと実況中継》なる《気づき》とは 違うように思えるのですが?・・・ ◇ラベリングをするのは、マハーシ系のTheravada(?)のみです。 マハーシ・サヤド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%A4%E3%83%89%E3%83%BC ほいで、 日本テーラワーダ協会は、このマハーシ系です。 この協会の毘鉢舎那が仏教の毘鉢舎那だと考えるのは、ハッキリ言って、間違いです。 この協会の毘鉢舎那は、独特なんでさ~。 ですから、 わたしは、この協会の毘鉢舎那について、何も知りません。 もともと、観法とかについてよく知りませんし、わたし(ポリポリ)。
お礼
回答No.3およびNo.4とも きちんと登録されています。これは No.5になります。 ◇ この協会の毘鉢舎那が仏教の毘鉢舎那だと考えるのは、ハッキリ言って、間違いです。 / この協会の毘鉢舎那は、独特なんでさ~。 ☆ 同じヰパッサナーと言っていても 違うものだということですか。 だったら その違いを明確にし 相違点をめぐって 何が妥当であるのか。これを議論しておかねばならないでしょうね。
- NemurinekoNya
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ひょっとしたら、おなじ内容の回答が届いているかもしれませんが、 回答の送信に失敗したようなので、 再送信します。 ☆☆☆☆☆☆ 日本テーラワーダ協会は、マハシ系なんで、かなり独特なんですよ。 マハーシ・サヤード http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%82%B7%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%A4%E3%83%89 ラベリングは、マハシ系の瞑想の特徴。 起源が古ければいいというものではありませんが、仏教系新興宗教なのかもしれない・・・。
お礼
つづきましてです。 ◇◇ (回答No.3) 日本テーラワーダ協会は、・・・ひょっとしたら、Theravadaじゃないかもしれない・・・。 ☆ ヰパッサナーは 初めからあったが その内容としての《ラべリング》などの要素が あたらしい。つまり むかしにはなかった。・・・? まぁ 日本のブディズムも 中身が大幅に違うものになったとしても ブディストであると言っている。・・・ アメリカでも それなりの人口が このヰパッサナーに集まって来ているとか。・・・
- NemurinekoNya
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日本テーラワーダ協会は、マハシ系なんで、かなり独特なんですよ。 これは、ひょっとしたら、Theravadaじゃないかもしれない・・・。 マハーシ・サヤード http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%82%B7%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%A4%E3%83%89 ラベリングは、マハシ系の瞑想の特徴。 起源が古ければいいというものではありませんが、仏教系新興宗教なのかもしれない・・・。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▽ (ヰキぺ:ヴィパッサナー瞑想) ~~~~~~~~~ § 概説 ヴィパッサナー(巴: vi-passanā)とは「よく観る」「物事をあるがままに見る」という意味である。 一般に仏教においては、集中力を育てるサマタ瞑想と、物事をあるがままに観察するヴィパッサナー瞑想とが双修され、この点は南伝仏教でも北伝仏教でも変わらない。 伝統的に上座部仏教においては、サマタ瞑想を先に修行して、それからヴィパッサナー瞑想へと進むという階梯がとられてきた。ヴィパッサナー瞑想を行なうためには少なくとも第一禅定(最高で第四禅定)に入っている必要があるとされ、そのためにはサマタ瞑想を行なわねばならないのである。 これに対し、最初からヴィパッサナー瞑想のみを中心に修行するという道も、少数派ながら古くから存在した。これは、ヴィパッサナー瞑想を行うことによって、自然に第一禅定がもたらされるという事実に基づいている。 またより重要な問題点として、サマタ瞑想にあまり重点を置きすぎると、それによってもたらされる三昧の快楽に耽ってしまいがちであり、なかなか悟りが開けないという点も指摘される。ブッダの悟りはサマタ瞑想ではなくあくまでもヴィパッサナー瞑想によって開かれたのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◇ ラベリングは、マハシ系の瞑想の特徴。 / 起源が古ければいいというものではありませんが、仏教系新興宗教なのかもしれない・・・。 ☆ やり方としての内容が あたらしい? ってことですかね。 何だか 子どものお遊戯みたいです。
- NemurinekoNya
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ついでついで。 般若心経に書いてあるの、あれ、毘鉢舎那ですよ。 心身を五蘊に分解する。さらに五蘊を・・・。 色蘊には、アートマンというようなものを見つけることができない・・・。色即是空。 次は、受蘊・・・。 そういう風に順次観察していく。 般若経というのは、教えの書であるとともに、瞑想の書、瞑想のマニュアルでもあるんですよ。
お礼
つづきましてです。 ◇ 般若心経に書いてあるの、あれ、毘鉢舎那ですよ。 ☆ ふうむ。けれど 現実を《空》だと言い しかもそこから現実に還って来る。という《見究め》ですよね。 《ラべリングと実況中継》なる《気づき》とは 違うように思えるのですが?・・・ すなわち・つまり 余計なことを言いますが 日本のマハーヤーナー・ブディストの人たちは 〔ひとりの人の名前を挙げますが〕スマナサーラ氏の《跋扈》に甘んじているということなのですか?
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ◇ Wikipediaの記述の方がいいですよ。 ▽ (ヰキぺ:) ~~~~~~~~~~ § 4 方法 さまざまな流儀のものが存在するが、共通するのは「今という瞬間に完全に注意を集中する」ということである。 何をしていても「今・ここの自分」に気づいていく。この「気づき」(巴: sati, サティ、梵: smṛti, スムリティ、英: mindfulness、漢語「念」)が、この瞑想のもっとも大切な技術である(したがって、「気づきの瞑想」とも呼ばれることがある)。 このようにして自分を客観的によく観ていく実践によって、心を成長させることを目指すのである。 また、特にマハシ系では、「気づき」を言葉によって確認(「ラベリング」)し、「実況中継」していくという方法がとられる。ヴィパッサナー瞑想に入る前に、「慈悲の瞑想」がサマタ瞑想として行なわれる。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《気づき》と言っても 《実況中継・ラべリング》だと言うのですから これは アホバカ政策ではないのですか? 子ども返りをとおして 《自分を客観的によく観ていく実践によって、心を成長させることを目指す》のですか。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ まぁ、イメージ療法、イメージによるショック療法ですかね。 自身の体はこんなにもバッチイんだ、 こんなバッチイものは、執著の対象になるものではないし、執著の対象にすべきでもない、 と心の底から思い込ます。 そうすれば、自身の肉体や異性に対する執著が断てるに違いない・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どこが知恵 どこがさとりなんでしょう。――と誰か言わないのですか? ◇ テーラワーダなんで、どうでもいいな~♪ / 弁護するつもりは、さらさらありません(ニコニコ)。 ◇ まぁ~、テーラワーダですから(笑い)。 / 「テーラワーダですから」の一語に尽きます。 ☆ とは言うものの 《批判は 徹底的におこなわねばなりません》。そうでないと その《あるべからざる容赦》によって こちらが足を掬われないとも限りません。 批判の決定版を用意したあとでならば もう放っておいてもよいと思います。これは ディアレクティケーの鉄則ではないでしょうか。 ほかの敵対する思想が 《容赦》という隙を突いて 襲いかかってきます。不必要な弁解をしなければならなくなります。 《容赦》をしてもらった思想(つまり テーラワーダ)は 何かとこちらの悪口を 割り合い自由に言うようになります。 と考えます。 それに 一たんテーラワーダの側に流れた比較的まじめな人びとをもともとのわれにそれぞれ立ち還らせるためにも ときを置かずに批判をしておけば あとあと厄介な奪還作戦もせずに済みます。