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ヴィパッサナーによる妄想と想像力

僕はヴィパッサナー瞑想に興味を持っており、僕は考える事が多く時には苦悩してしまいます。そこで妄想を断つみたいな記述がしてあったので、実践しようと思ったのですが、小説などを読んで妄想、想像するなどできなくなってしまうのでしょうか? 創造にしても、想像力を働かさなくなるのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • walsch
  • ベストアンサー率53% (35/65)
回答No.1

こんにちは!m(--)m 私もヴィパッサナー瞑想を生活の知恵の一つとして実践しています。 もともと被害妄想やネガティブ思考が酷くて人間不信と情緒不安定、不眠症に自殺願望、殺人願望、過度の無気力と問題行動から精神科で統合失調症と診断されたりもしてたのも数年前のことで今では随分、瞑想に助けられた側面も多かったと思います。 それは兎も角、ヴァッパサナーという名前を知っているということはホームページか、もしくは地橋秀雄氏の本を読まれたことかと思います。 一人の人が悩む根本は「過去への後悔」「未来への不安」これ以外になく、「今」悩んでいてもそれは1秒後には過去になっている。 ヴァパッサナー瞑想とは、この真理を応用した技術です。 まず対象を自分の体感することを客観的に受け止め、「そうだった」と「過去完了形」にすることで、それ以降の嫌な妄想も考えもストップします。3秒で立て直せるくらいにすれば何度も嫌な妄想がきても切り替えられるようになり、最後には妄想は来なくなります、「ありのままの事象」を「見つめ」→「気付き」→「洞察」→「認め」→「許す」修行です。 ※ここでの「認め」と「許す」は相手をそうするのではなく、自分が嫌だったら嫌だったと肯定し、反面教師になることです。 自分に起こった感情をサティによって高速で自己分析して処理できれば対象(人であれ何であれ)に対して過剰に気苦労したり、思い悩んだり、イライラしたりすることがなく、自己肯定感、冷静、安心が保て、心身に余裕が出来て何事も円滑かつ楽に過ごせると言うわけです。 [かなり適当ですがこれが大まかな概要であったと思います。] 私の場合、小説やその他の本を読んでいると自分と登場人物の体験や感情が重なり合ったりした時に、自分の過去の経験からその感情と事柄が懐古されてしまい、楽しい感情ならいいのですが、「嫌、不快」の感情などは一度懐古させられるとその感情に類似した自分の体験が懐古されて終いには、その自分を不快にした人物に頭を支配され、脳内で罵声が響き渡り、自分の脳内の声もその人の声になり、とても本も集中して読めず、ただ手首を切ったり、床に頭をぶつけたり、壁を殴ったりする自傷行為を繰り返していたので、ヴィパッサナー瞑想でサティを入れる際には「悪妄想」→「嫌だと思った」 と自己肯定化して仮にその時点での五感の反応が強い所に意識を向け、サティを入れてマインドを誘導して落ち着かせていました。 小説の世界観を妄想や想像したり、それ以外の物事の創造に感情移入したり疑似想像したりするのは、その対象を真に深く理解するために最も大切なことです。しかし、私の体験談のように主観的に過去の感情に流されて今の時点での自分を見失っては何のメリットもありません。 結論を言うと、想像や妄想をしながらも「自分が今、そうしているんだ」という「客観的な視点」が一部なければ全て主観で処理されてマインドが迷子になってしまいます。つまり自覚が出来ていれば良いと思います。 想像、創造力は働かなくなるどころか逆に活性化されます。更に発想力にも繋がっていきます。状態を客観的に、理知的に分析し、客観視でき、洞察力が向上するためです。主観に流されたりはしないので主観的に感動している自分も客観的に理解できているため、その感動も深まり、逆に怒りや恐れの情に流されて足元をすくわれたりもしません。 繰り返しますがヴィパッサナーは「ありのままの状態や状態をありのままに見つめ、観察し、気付く」技術です、結果として「悪い妄想や想像も断ち切ることもできる」効用があるのです。 ※悪い妄想、想像かどうかは他者が決定して評価することではないので自分の善悪判断の中で自由にして下さい。悪いと思ったらそれをそのまま「悪いと思った」とサティにして下さい。 karupasu05さんは小説を読まれる上に、人間関係でも神経質なくらい考えて悩んでしまうということでしたが、視点を変えればそれだけ現実社会に対しても小説に対しても感受性が強く、理解力があると言うことだと思います。 「善」「悪」の判断は人それぞれ違いますが、誰だって自分にとっての悪の思考、感情を享受したくないですし、自分にとっての善の思考、感情を断ち切りたくもありません。 だから善も悪も清濁併せ呑んで「ありのままの事象」を客観視するのです。 「悪の感情だから断ち切る」というより、「あらゆる物事に寛容になるため、自然に消える」と言う表現のほうが個人的な体験で言うと近い気がしています。 結果的に断ち切ったことになっているのですが、手段とプロセスはそうでないことはよく分かると思います。 長文失礼しました。不器用に断片的にしか説明できなくて申し訳ありません。少しでも私の意図していることがkarupasu05さんなりに汲み取ってもらえたら幸いです。 いくらかkarupasu05さんに合った本を選んでみたので 詳しくは以下の文献をオススメします。 その問題に関しても対処法をもっと詳しく紹介されています。 地橋秀雄 著の「ブッダの瞑想法~ヴィパッサナー瞑想の理論と実践~」 宝彩有菜 著の「気楽なさとり方」

karupasu05
質問者

お礼

少しもやもやは解消されましたが、 まだ腑に落ちない部分もあるので、 紹介された文献を読もうと思います。 回答ありがとうございました。

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