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信長が義元に降伏しなかった理由

信長が義元に大軍で攻められた時に降伏しなかった理由はなんだと思いますか? 運良く勝ちましたが あれだけ戦力差があれば信長も降伏することが多少なりとは頭をよぎったと思うのですが 信長は圧倒的状況を作ってから戦うタイプで無理責めなど桶狭間以外では特に見当たりません 不利と見れば他者と和睦したり遜ったりしています 桶狭間の時には和睦や降伏を全くしようとしなかった理由はなんだと思いますか?

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  • pricedown
  • ベストアンサー率38% (69/181)
回答No.2

実力差が圧倒的にありすぎるため、降伏したところで許されるわけがない、というのが理由でしょう。信長の和睦策は、力量が拮抗しているとき又は優先順位の低い争いごとをとりあえず収めるためにに採用されたケースが殆どです。 義元にとっては尾張は将来的に京への通り道となるため、信頼の置ける家臣に管理を任せるはずです。信長やその家臣には利用価値が無く、下手に生かしておくと将来反乱軍となる恐れもあるため皆殺しにするのが一番の解決策です。それを信長も十分に理解していたので、降伏という選択肢は最初から無かったものと思われます。 喩えて言えば、地球に直径500キロの隕石が間違いなく落ちてくる。その難を逃れるためには隕石を破壊するしか方策が無く、隕石にいくらお祈りしても無駄、といったところでしょう。

zensyu
質問者

お礼

なるほど確かに 実に筋が通ってます

その他の回答 (12)

  • zep19
  • ベストアンサー率45% (138/306)
回答No.13

信長が圧倒的な戦力を集めずに少数の兵で奇襲効果を利用し戦った戦例は割合多いですよ 桶狭間もその一つですが… 例えば天正四年の天王寺の戦い 本願寺勢力の討伐を信長に命じられた当時の信長勢力の出世頭である大和国主塙直政は明智、細川らを率い出撃しましたが 直政が雑賀衆の鉄砲隊に討たれ、光秀、細川は逆に天王寺砦に本願寺・雑賀衆数万に包囲されました 信長はその報に触れると直ちに電光石火、馬廻わずか3000を率いて光秀救出に向かい 信長が太股に銃弾を受け負傷しながらも本願寺勢力の重囲を突破し天王寺砦に入城し、光秀らを救出し、反撃して本願寺勢力を撃退しました 他にも朝倉追撃戦でも馬廻のみで行ってますね 信長は降伏しないでしょう 確固たる天下を伺う意志はあったから 絶体絶命の場にあっても 家康のように雌伏の時を待ち臣従するよりは 城を枕に討死する方を選ぶと自分は思いますね

zensyu
質問者

お礼

でも信長って結構土下座してません?

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1973/9604)
回答No.12

zensyu さん、こんにちわ。 信長が義元に大軍で攻められた時に降伏しなかった理由はなんだと思いますか? たぶん、降伏しても、自分たちは絶対に助からないと思ったからかもしれません。そして今川の大国意識に対する反抗だったのではないでしょうか? また、今川が尾張領内に入り込めば、領内にはなっている間者から今川本隊がどこにいるかも察知できるようになっていたと思いますから、そこをチャンスととらえ、奇襲することを本気で考えていたかもしれません。当時の信長にはそれくらいしか選択の余地がなかったとも考えられます。 詳細は下記のURLを参照してください。 桶狭間の戦い http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

zensyu
質問者

お礼

なるほど色々な説があるのですね

  • sord333
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.11

信長は今川軍が大軍であることは知っていた筈です。 そしてそれを統率する義元はおそらく油断をしているだろうと思っていたのでしょう。 今川軍は5万とも言われる大軍で対する織田軍は僅か2千だったと言われています。 今川軍はそれだけ兵力差があるのだから当然勝てると思っていたでしょう。 信長はおそらくその油断を突いたのではないでしょうか? 大軍のデメリットは統率するのが難しい、油断して奇襲なんかくらったら大混乱 上手くこのデメリットを利用すれば勝てると信長は思っていたのではないでしょうか? 偶々、奇襲に合わせて雨が降ってくれたのも勝因の1つでしょう。 同じ兵力差で相手が武田信玄や上杉謙信だったら和睦していたと思いますよ。 信長は彼らを恐れていましたし、謙信には一度大敗していますからね。 それにあるテレビ番組では信玄、謙信の戦の勝率はほぼ10割 対する信長の勝率は7割と言っていました。 事実、謙信は小田原の北条攻め、川中島の戦い等引き分けの戦は有っても 大敗らしい大敗は生涯一度もありませんし 信玄も村上義清という信濃の武将に2回ほど負けたくらいで 謙信とも引き分けましたし、後の天下人徳川家康には大勝しています。 信長は浅井・朝倉連合に一度負けましたし(後に再戦して勝ちます) 北陸では謙信に大敗していますし、中国地方では毛利の水軍に負けています。 魔王のイメージのある信長ですが戦はどちらかと苦手だったみたいですね。

zensyu
質問者

お礼

そうなんです 意外と戦下手なんですよねこの人 ゆえに常に相手より大軍を揃えてから戦うという慎重な戦略をとっている信長が、あんな大軍で攻められてなんで土下座なり戦闘を回避するなりしなかったんだろうと不思議に思ったのです

  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.10

>信長は圧倒的状況を作ってから戦うタイプで無理責めなど桶狭間以外では特に見当たりません 不利と見れば他者と和睦したり遜ったりしています< そうみたいですね。でもそれができなかった。 でもね 局地的にみればまあまあ優勢だったようですよ。 つまりこの西三河においてジリ貧は義元の方で 信長は大高を付城で締めつけていますし、大高の守備兵は兵糧に窮して、盛んに義元に泣き付いていますね。もうダメだと。 鳴海も同じです。義元もほっとけなかったわけでしょう。 元々この紛争は三河から熱田、津島、伊勢湾の海運の権益の争奪戦と言い換えてもいいくらいの側面があります。 このままではせっかくの西三河の地盤を失うことになるわけで、水野を知多に閉じ込めつつ、 目障りな付城を排除し、大高に兵糧を入れる。それが第一義の目的戦なのでしょう。 この目標が達せればすぐに引き上げる。天白川までのラインの確保の担保を意味しています。 服部衆の海からの兵糧搬入が成らず、先鋒衆で つけ城を粉砕し兵糧を元康(家康)が搬入し守備をチェンジし、 信長が発見されないことから 先鋒の朝比奈は引き上げ、(義元戦死の報を豊橋で聞いている、先鋒がですよ) 大高にいて付城攻撃を督戦した義元も段々に引き上げを開始  その途中デンガクハザマで命を落としたということ?(伝えられていることと死んだ方向が違います。進撃の途中ということになっていますが、三河物語や信長公記では従来の伝は?。) 信長にしてみれば 知多で水野がじっとしていることだけで、大いに有利だし 熱田の衆も取り込んでいる。 次男三男(家を継げない者)を編成しての国内戦を戦った1千の兵(従卒を入れれば2千以上)は親衛隊であり機敏で 手足のように運動力の有る軍団はこの期そうそういない。そのほかの兵は好きなようにぐらい >和睦や降伏を全くしようとしなかった理由はなんだと思いますか?< 以上のようにそもそも必要なく 後詰をせず 出城の衆を見捨て 義元の前に現れず、義元に目的を達しさせ 帰路を 狙う  有松方面から勝家が 義元本隊のしんがりを 信長本隊が襲った。 >あれだけ戦力差があれば信長も降伏することが多少なりとは頭をよぎったと思うのですが< 2万5千?3万? とてもそんなに出せませんよ 途中途中の守備や兵糧の管理 国許の守備 精一杯だせて1万ぐらいでは? 兵力差? 地勢的にも分散しての布陣であることは その辺の百姓でもわかることだったでしょう。 平野が戦場でないことは紛争地の人も信長も当然

zensyu
質問者

お礼

なるほど信長の首や上洛が狙いではなかったのですね

回答No.9

並み以下の戦国大名ならば、軍事力の圧倒的差異を考え、白旗を掲げた軍使を、今川本陣に送って降伏したかもしれません。 信長が、そうしなかったのは、ひとえに信長の人間性に帰一するもの、と思います。 降伏と、その後の、敵軍による蹂躙を、潔(いさぎよ)しとしなかった、ということだったと思いますよ。 それしか無いでしょう。

zensyu
質問者

お礼

そんな誇り高い信長が武田上杉や浅井朝倉に土下座してますよ

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.8

先日、BSの歴史テレビ番組でやっていましたが、そもそも桶狭間の合戦は「信長から仕掛けたもの」という説をとっていましたね。 元々、織田信長と今川義元の戦いはあの永禄3年に始まった話ではありません。天文11年に小豆坂の合戦があり・・・と和暦で書いても分かりづらいですが、18年くらい織田VS今川の抗争は続いているのです。 それで、桶狭間の合戦になるそもそものきっかけは、今川方の城である大高城に丸根砦、鷲津砦という付け城を作って封鎖したことが原因なんです。 今で例えると、そうですね、日本と韓国の海軍力となると圧倒的に日本が上なのですが、いわゆる竹島って韓国軍が一方的に占領したんです。それはまあ戦後のどさくさのときだったのですが、もし仮に今元々日本側である島に韓国軍が占領して、その奪回で海上自衛隊が来たときにもし韓国軍が戦わずに降伏したら、え、降伏するなら最初から占領しなけれりゃいいんでね?って思うでしょ。 >信長は圧倒的状況を作ってから戦うタイプで無理責めなど桶狭間以外では特に見当たりません それはそうですが、似たような失敗(というか事例)があります。金ヶ崎の退却と後に呼ばれる朝倉侵攻です。 あのとき、信長は朝倉義景を攻めることを浅井長政に黙っていました。もちろん信長は浅井と朝倉は同盟関係にあったことを知っています。だけどあえて浅井長政に黙って義景を攻めて既成事実を先に作っちゃおうとしたのです。つまり根回しをしなかった。ゆえにまさか裏切るまいと思っていた長政に裏切られてあわや袋の鼠になりかけたわけです。あの金ヶ崎の撤退から京都、それから岐阜に帰り着くまでは敗走中に浅井軍の追撃を受けたらあわや戦死のリスクもありました。 また野田・福島の戦いで深く前進しすぎてその側背を一向衆の奇襲を受けて戦死しかかったり、姉川の合戦では浅井軍をおびき寄せるために自らエサになったり、小谷城包囲戦で悪天候の中わずかな伴だけで朝倉軍を奇襲攻撃に向かったり、脇が甘いというか非常にアグレッシブな行動はしばしばするお方なんですね。脇の甘さでいえばなんといっても本能寺の変を呼ぶような僅かな伴だけで京都をウロついたってが最大の脇の甘さですけれどもね。 信長は普段はあまりリスクは踏まないのですが、ここが勝負と見るや常人には真似のできないアグレッシブな大勝負を仕掛けるのですよ。なんていうのかな、ギャンブルだと全額一点勝負にかけるみたいなことをするんですよね。 >桶狭間の時には和睦や降伏を全くしようとしなかった理由はなんだと思いますか? 元々、信長から仕掛けた戦いだったので降伏という選択肢はあり得なかったと思います。ただ、今川方が動員した規模が信長の予想を超えたものであったと思います。 それまでは、今川軍は織田対策は基本的に松平家や三河近辺の担当武将に任せていたんですね。だけど大高城に付け城が作られたことで、義元は「少なくとも信長に打撃を与えてこの一進一退の状況を打破しないといけない」と思い、全軍を挙げての大動員をしたのだと思います。ちょっと多すぎる気もしますけど、今川の力を見せつけるデモンストレーションの意味もあったと思います。 常識的には戦力差が圧倒的なので、和睦や降伏をするのが「常識」です。だけどさ、日本史上空前絶後の天才に常識なんて通用しないんですよ。彼の非常識伝説はよくご存じでしょう? 彼は虎視眈々と「一発逆転」を狙っていたのです。数で勝る今川軍を相手に、その先鋒からいくら戦術的勝利を得てもいずれ戦力差で押し切られてしまうことを信長はよく分かっていました。だから、彼は義元本体部隊に自軍をぶつけることによってその戦力差を局地的に最小限にし、もし義元本隊が退却するようなことになれば十倍にもなる大軍しかも東海一の弓取りといわれた今川義元に金星を挙げたと政治的に大勝利を得ることができるので、それに賭けたのです。それに、あわよくば今川義元の首が取れれば一気に織田・今川戦争を大逆転することができます。信長は、その勝負に大勝利したのですよ。 ただ問題はいかに義元を油断させてなるべく前進させるかです。信長本隊が大きく迂回すればその間に義元に気づかれたり捕捉されるリスクがありますので、なるべく相手を前進させたい。義元本隊を前進させるには、油断させるしかない。 そのために、信長はあえて自ら仕掛けた丸根・鷲津の砦を捨石にしたのです。そして、梁田政綱に命じて義元本隊の動向と捕捉に全力を挙げたのです。丸根砦にいた佐久間盛重は織田軍でも当時は軍事的に中心人物のひとりだったので、今川軍とすれば「これだけの重臣が守るのだから織田方は丸根砦を重視しているに違いない」と思うのが「常識」です。 この「戦略眼」の素晴らしさというのは信長は並み居る戦国大名でも私ははっきりいって随一だと思っています。武田信玄、徳川家康さえ信長の「天才的」としか言いようがない戦略眼には敵わないと思います。 そして、近年有力視されている「信長公記」説をとれば、信長本隊がとった行動(移動経路)というのも軍事の常識から考えると非常識極まりないものなのですが、戦いが終わってみると「あ、最も合理的だったッスね」というものなのです。 「信長公記」では、桶狭間の合戦は「正面強襲」だったといわれています。かつては「側面奇襲」だといわれていました。なぜ側面奇襲といわれていたのかというと、そうじゃないと絶対に勝てない戦いだったからです。それを「正面強襲で勝ちました」なんてなったら「軍事的に常識として絶対あり得ない」なんですよ。 天才といえば、将棋の天才と呼ばれる羽生善治さんの「伝説の2二銀」と呼ばれる一手があります。そのとき羽生さんは押されて大変不利な状況だったそうです。その2二に銀を打ったことがその場にいたプロ棋士でさえ理解できず、NHK解説をしていたプロは「不利な状況で混乱した羽生さんは間違った手を打ったのではないか」とさえいったそうです。ところが、手が進むにつれてその銀がものすごく効いてきて手が進んでようやくプロでさえ「あー」と気がつき、そしてその勝負は羽生さんの逆転勝利となりました。 桶狭間の勝利は、それに似て非常識、非常識な手を打って信じがたいほどの大逆転勝利を手に入れたのです。もしかしたら、今川軍が圧倒的大軍を動員して義元自らが出陣してきたのも信長は計算に入れていたのかもしれませんが、天才の頭の中というのは我々凡人には到底理解できないものです。 歴史学者の磯田道史氏はそのテレビ番組で信長を「このバケモノ」と呼びましたが、まさに信長こそは第六天魔王の名にふさわしいバケモノだったと思います。

zensyu
質問者

お礼

そんな神のような読みができるのなら なぜ常に相手より大軍を集めて戦うような慎重な用兵をしたのでしょうか?

  • koiprin
  • ベストアンサー率23% (72/306)
回答No.7

桶狭間は、いったん降伏したと見せかけた信長が、義元を暗殺したんだと思いますよ。 歴史上ではその事実が抹殺されたんじゃないでしょうか。

zensyu
質問者

お礼

そうですよね。そういう可能性だってゼロでは無いかもしれませんよね

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.6

今川義元の出兵の理由が、織田勢に包囲されていた鳴海城・大高城の救援にあったからです。 信長としては、救援の今川軍を上手く撃退して城の攻略につながれば勝利ですが、仮に撃退に失敗しても城の攻略を断念するだけのことです。撃退に動かずに清洲城に籠城という作戦もありというわけです。 信長の領国に今川勢が侵攻していたわけではなかったため、まだ降伏や和睦という段階ではなかったのです。強襲して迎撃する作戦に出た結果、思わぬ大戦果をあげたというわけです。

zensyu
質問者

お礼

なるほどそれなら全て辻褄があいますね。 信長が降伏しないのも家臣が寝返らないのも

回答No.5

勝てると分かっていたからです 信長はかなり早い段階から義元の動きを探っています 義元が上洛を決意したのは 腹心の部下太源雪斎が死去したことが原因ですが その時点で近いうちに義元が上洛の兵を挙げると信長は察知していました 信長は桶狭間を奇襲(現在では山の上へ強襲をかけた説が有力ですが)するまでにかなり用意周到に準備しています そして戦後信長は1番手柄を毛利新助ではなく簗田某という家臣に与えています 簗田はいわゆるスパイで義元の動向を逐一探り信長に報告していました 情報こそが少兵での戦の勝敗に大きくかかわることを知っていたからですね

zensyu
質問者

お礼

義元が兵を動かす前から奇襲が成功するとわかっていたのでしょうか?

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3047)
回答No.4

降伏したら皆殺しのようなそんな強引なことは吉元はまずやらないでしょう。 ただし降伏条件の交渉があってそれでうまくいかなかったのか、初めから選択肢になかったのかは我々には知りようが無いことです。 ところで信長は天王寺の戦いでは戦局的にかなり不利な状況を強引な攻撃で乗りきっており、決して無理攻めしないというタイプではありませんよ。 むしろかなり投機的な選択肢もとれる戦勘の強いタイプです。

zensyu
質問者

お礼

そうなんですよ 普通降参した者を皆殺しにはしませんよね? 今後の敵が死に物狂いになったりしますしね 信長は時に危険な行動をしますね。ただ勝てると踏んでから戦うタイプで闇雲に戦って勝ちを拾うギャンブラータイプではないと思うのです。信玄や謙信や浅井朝倉への対応を思うと 義元は兵が多いだけで絶対に勝てるとでも思っていたのでしょうか? 義元が兵法を間違えなければ信長は首を取られていたのでは?

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