• 締切済み

誰からもおそわらなかったという知見はあるか?

 (α) 誰からもおそわらなかったという知見はあるか?  (β) あるいは 人が おしえる・おそわるということは どういう事態か?  (γ) すなわち みな誰もがほかの人からおそわりつつあらたな知見を得るというに過ぎないではないか?  (δ) ほかの人からおそわりつつも その知見の内容に納得するのは おのれの知解能力によるのではないか?  (ε) おのれにおしえるのは みづからの知性がではないのか?  (ζ) あたらしい知見を得るのに他人に先を越されたからと言って くやしがるのは――そのこと自体は 向上心の現われとしてのぞましいが いつまでもただ悔しがるのは―― あまりにもおのれの知性を買い被っていることではないか?  (η) あとの者が先になり 先の者があとになる。と言うではないか。       *    読み書き算盤を習うというとき おしえる・おそわるという行為は 個別具体的な事項に即して 倣うことです。あるいは まねをする。まなぶ。つまり 真似ぶ。あるいは 或ることがらを こちらから あちらへ伝達することです。  (θ) 一般に 哲学や哲学にかかわる事柄について おしえる・おそわるというのは それでは どういう事態でしょうか?  先天的に 人の記憶として――あたかも プラトンのイデアのごとく―― 潜在するとは 考えられません。能力とその場としてなら 潜在的なものであると考えられますが 事柄が すべて 書き込まれているとは考えられません。    そこで いろんな回答をあたかも導き出すためとしてのように こういうことを考えてみました。  まづ ことは 教育とはどういう事態であるかの問題だと言ってもよいと思いますが わたしが 試考した結果は:   (ι) おしえる者とおそわる者との間に 教育は 成立するのではないか?      つまり おしえる側のおしえようとする意図とおそわる側のおそわろうとする努力とが あたかも一致して 教育が成立するのではないか?   でした。  これには もう少し 先もあります。  早い話が:   (κ) この質疑応答で 回答者が ただおしえるというわけでもなく 質問者も ただおそわるというのでもなく 《おしえる》行為は 両者のあいだ(つまり関係)にある。要するに 両者が 《おしえ合っている》 こうではないか?  果たして いかがでしょう。自由なご見解を お寄せください。       *  さらにひと言多く。  《ここは どこですか?》とか《桶狭間へは どう行けばよいでしょう?》という問いに対して 地名や道順をおしえるのは 知識項目の授受であり伝達です。  桶狭間が どの地であるかを比定するのは 歴史学の仕事であり その研究成果をおしえるというのは おそらく 歴史資料をどう判断したか・その推論の妥当性を示すことに主眼があるでしょう。定説を聞いて それを暗記することは 学問にとって おそわることとは言えないでしょう。  信長は どういう決断で臨んだか? あるいは 今川義元となぜ戦わなければならなかったか? これらの問いのたぐいは まだ 歴史学の問題領域です。では   (λ) 人は人となぜ戦い なぜ殺し合いをするのか?  このたぐいの問いになれば 哲学の分野です。  ここに至れば 問いかける側も問いを受ける側も つまりは おしえる側もおそわる側も 知識や人生経験の差こそあれ 人間存在としては まったく同じ条件に立っています。ここで:   (μ) 対話をおこない 質問しあって たどりつく答えは どこから人は受けとっているのか。つまり 誰から・どこから 人はおそわるのか。  こういう質問の趣旨になっています。  思いっきり自由なご見解をどうぞ。

みんなの回答

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.7

こんばんは。 α)自ら見出した知見というものについてはどう考えるのでしょう。自らの観察によって得られる知見というものがあると思いますが。ここで言う観察とは五感の働きのことではなく、それも含めた意識の働きとしての観察です。 β)~κ)知っている者が、知らない者に教える。例えば数学の教師が教えるのは数学の知識や考え方などであるが、この時教師が生徒から教わり得るものというのは、指導のテクニックであったり、或いはちょっと飛躍して人間性などであるでしょう。 この場合には、同じものを発見し、共有するという関係にはならないでしょう。 λ)人間が、獣の習性を色濃く残していることと、人間的な情に絡め取られて恨みを忘れられない事などによると私は思っています。 μ)何かについて語るのに、その何かを幾ばくも知らない者同士が対話しても、得られる知見はないとおもいます。素養が有り、幾らかの知見を有している者同士が対話して、なにか新しい知見というべきものにたどり着くことはあり得るとおもいます。 哲学で言うならば、日頃なにか哲学的な思考をしている者が、同じような同胞と対話して、何か一人では得られなかったような見解にたどり着いたりすることはあるでしょう。しかし、日頃から哲学的な考察を何もなさない人と、哲学的な対話をしようと言っても、それは難しいでしょう。しかし、一方が哲学に無頓着であっても、他方が哲学の素養をいくらか有しているならば、一方の言から他方が哲学的な知見を得るきっかけを得る可能性はあります。例えば、哲学とは無縁な子どもの発言に、深い意味を見出す大人がいるようなものです。 対話を行い、互いに問い合い、何らかの答えに辿り着いた時、それは自ら開梱した畑に実がなったようなものと考えられます。種(素養)があり、開梱という対話を為した結果、実(答)を得られたというような話です。 どこから受け取ったのかといえば、自ら(自分たちに素養あった故)生じ、自ら(自分たちが働いた故)受け取ったのです。 何の不思議もないことですが、それを不思議というならば不思議でしょう。 素養とは、哲学的な問いに対し答えを求めるその求めを素養といいます。 人生とはなにか、どう生きるべきか、死する前になすべきことはなにか、人は何故争うのか、などなど、そういう問と求めのあることを、素養があるといいます。 素養がなければそれの答えを導く観察も、対話も存在しないでしょう。そして、全ての人間にその素養があるかどうかは、わからないものです。子どもや知的障害者などが、哲学的問を持っているとは考えにくいし、大人であっても、そのような思考に踏み込む人がどれだけいるのかはわからないことです。ですので、 >ここに至れば 問いかける側も問いを受ける側も つまりは おしえる側もおそわる側も 知識や人生経験の差こそあれ 人間存在としては まったく同じ条件に立っています。 とは、私は一概に思うことはできません。人間存在として、全く同じ条件に立つならば、それは哲学の範疇を超えるからです。哲学の素養には差があります。よく求める人と、そこそこ求める人と、あまり求めない人と、無頓着な人などがあるでしょう。では哲学の範疇を超えたところとは何でしょうか。 それは、哲学的問いを超えた、もっと人間の根本的な部分にまつわることだということです。子どもにも、大人にも、老いも若きも、男にも女にも、当てはまるものです。それが人間存在として全く同じ条件に立つところで、哲学はそれよりも浅いところであると私は考えます。理由は既に述べたとおり。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ α)自ら見出した知見というものについてはどう考えるのでしょう。自らの観察によって得られる知見  ☆ 具体例として考えるのですが たとえば昆虫の観察がありますか。それと同じように 社会の観察において ここはすべすべしていてやわらかだが あそこは三角に尖っていて取っつきづらいとか あるいはさらに裏に回ると これがじつは隠れた楽園であったとか でもそこにあそぶ人びとの顔は じつはちっとも楽しそうではなかったとか。・・・  ここで《観察》について けっきょくふたつに分けることになるのではないかと思います。  ひとつは 事実そのままの認識として ほかの誰もまだ知らなかったことがらの観察。  でもこれは その場・その土地にすでにいる人びとにとっては 既知のことがらです。アメリカに先住民がいたのですから 《発見》ではなく《出会い》です。  昆虫の生態については どうか? ほかに知る人間はいない場合。どうですかね。  その発見するための知識は おそわったものであるかも分かりません。と見ると どうなりましょうか。  ★ 例えば数学の教師が教えるのは数学の知識や考え方などであるが、この時教師が生徒から教わり得るものというのは、指導のテクニックであったり、或いはちょっと飛躍して人間性などであるでしょう。  ☆ この場合には これも ふたつに分けて捉えられると考えます。  ☆☆(趣旨説明欄) 読み書き算盤を習うというとき おしえる・おそわるという行為は 個別具体的な事項に即して 倣うことです。あるいは まねをする。まなぶ。つまり 真似ぶ。あるいは 或ることがらを こちらから あちらへ伝達することです。  ☆ これは 基本的に《ぱくり》ですね。  もうひとつの場合というのは 確かに  ★ 指導のテクニックであったり、  ☆ もあるでしょうが まれには そのいまおしえている知識にマチガイがあると生徒が指摘する場合があるかも分かりません。    ☆☆ (λ) 人は人となぜ戦い なぜ殺し合いをするのか?  ★ λ)人間が、獣の習性を色濃く残していることと、人間的な情に絡め取られて恨みを忘れられない事などによると私は思っています。  ☆ 例によってツッコミを入れますが そのような感情の問題の所為にする理性が 元凶であるという仮説を聞いたことがあるのですが そこらへんは どうなんでしょう。(いえ わたしの仮説です)。  【Q:感性は 理性よりもえらい。】 ~~~~~  18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。  19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆  (μ) 対話をおこない 質問しあって たどりつく答えは どこから人は受けとっているのか。つまり 誰から・どこから 人はおそわるのか。  ★ μ)何かについて語るのに、その何かを幾ばくも知らない者同士が対話しても、得られる知見はないとおもいます。  ☆ たとえばふるいふるい昔の話ですが 中学生のとき 風紀指導だとかという専任の教師がいました。或る日戸が開いている小さな部屋で ひとりの生徒に《指導》をしています。軽くですが なぐったりもしています。要するに おまえは だめなヤツだな 毎度のことだ ったくという感じです。     わたしは ふとヒラメキました。この教師は このような駄目出しをすることに依存してしまっていると。そして おどおどしつつも腕をかざして殴られるのを防ごうとしていた生徒も そのことを知っているのだと。  つまり 生徒は この先生が自分の大好きな《仕事》をしているのだから それにつきあってやらねばならないのかなぁと思っているようだと。  いかにも勉強が出来ない子として扱われたその生徒も かれなりの知見を持っているはずです。  ★ 哲学とは無縁な子どもの発言に、深い意味を見出す大人がいるようなものです。  ☆ というとき 《哲学とは無縁なひと》という規定は あり得ないと思うのです。秀吉がなぜ戦ったかを知らなくても なぜ人はひとを殺すのかについて考えていることは じゅうぶんあり得ると思われます。  ★ 対話を行い、互いに問い合い、何らかの答えに辿り着いた時、それは自ら開梱した畑に実がなったようなものと考えられます。種(素養)があり、開梱という対話を為した結果、実(答)を得られたというような話です。  ☆ ひとは 素養がなくても誰でも おのれの頭を耕していると思いますよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  どこから受け取ったのかといえば、自ら(自分たちに素養あった故)生じ、自ら(自分たちが働いた故)受け取ったのです。  何の不思議もないことですが、それを不思議というならば不思議でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここが 少し分からなかったのですが つまり 不思議なのですか? 不思議ではないのですか?  教養のないにんげんも 人どうしの殺し合いをよしとはしません。なぜ いけないのかが分からなくても 実際に 一般にそうする人はまれです。またその稀な場合が つねに無教養の人間に限るというわけではありません。  たとえばこの人殺しの問題について鑑みても 誰もがひとりでみづからの精神を耕してたどりつく知見はあるように思います。不思議なんですか 不思議ではないんですか?  耕すべき《素養》というのは いわゆる教養のことではなく ただ生まれつきひとに潜在する能力としての知性(つまり 自然本性のチカラ)なのではないでしょうか?  ★☆ 素養とは、哲学的な問いに対し答えを求めるその求めを素養といいます。  あとの知識はみな 代々の申し送りのようなものであるように思われます。あたらしい部分を付け加えても行きますが。  ★ そして、全ての人間にその素養があるかどうかは、わからないものです。子どもや知的障害者などが、哲学的問を持っているとは考えにくいし、大人であっても、そのような思考に踏み込む人がどれだけいるのかはわからないことです。  ☆ そうかも知れません。《障害》を持っている場合は わたしは除外しますが(直ればいいだけですから) 自然本性の素養はあってもこれを耕さない場合もあるかも知れないとしてみます。  そうすると ただしまだ 別の問題があるように思われます。素養はじゅうぶんその開墾・耕作もすでに一人前以上におこなっている。知識も教養も身に着けた。――にもかかわらず ひとごろしを行なう。戦争を仕掛ける。相手に嫌がられることを 平気でやる。  これは 一般に国家というお二階にアマアガリしてしまうと ややもすると侵しがちなクセではないか。(安倍氏はまだ そういう嫌がらせに対抗しようとしているという側面があるかに見られます)。  (靖国だけは ダメだという見解を   【Q:靖国は 宗教であってはならない。国事犠牲者は尊ぶ。】  で問いました)。  というわけで このように教養・無教養は 哲学のすすむべき道にとって必ずしも問題にはならないという見方を提出し それは次のご見解に対するツッコミになると思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ですので、   >ここに至れば 問いかける側も問いを受ける側も つまりは おしえる側もおそわる側も 知識や人生経験の差こそあれ 人間存在としては まったく同じ条件に立っています。  とは、私は一概に思うことはできません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 人間存在として、全く同じ条件に立つならば、それは哲学の範疇を超えるからです。哲学の素養には差があります。  ☆ いえ。自然本性に――潜在能力としての――差はない。同じ条件に立つと言えると思います。教養や知識には差がありますが 《哲学の素養》には何も差はない。こう考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  では哲学の範疇を超えたところとは何でしょうか。  それは、哲学的問いを超えた、もっと人間の根本的な部分にまつわることだということです。子どもにも、大人にも、老いも若きも、男にも女にも、当てはまるものです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが にんげんにとって《哲学》といういとなみだと思います。生きることなのですから。  ★ それが人間存在として全く同じ条件に立つところで、哲学はそれよりも浅いところであると私は考えます。  ☆ これに対して 広義の哲学という見方を提出します。  市井のにんげんは 朴クネやシージンピンらと《哲学》として(つまり 人間として)まったく同じ条件に立っていると思いますが どうでしょう。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

>「スパルタがいいんですか?」 最近、ネコ様も見ないなあ、と思っていたんですけど。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。くりなるさん。ご回答をありがとうございます。  ねこさんとスパルタは 関係あるのですか?  そのうち顔を出してくれると思いますよ。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

>「おのれにおしえるのは みづからの知性がではないのか?」 そっすね。 「スパルタ」でなくてもいいです。

bragelonne
質問者

お礼

 そっすよね。くりなるさん。  ご回答をありがとうございます。  スパルタがいいんですか?

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

Bさま、こんにちは。 「ある情報」について。 「さて、どうしてやろうかな?」というのは、あるようです。 (単純に「知性」などと言っていては、ということでしょうか、 涙の一つも、こぼれてくるようです。)

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは くりなるさん。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  「ある情報」について。  「さて、どうしてやろうかな?」というのは、あるようです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ウソをおしえてやろうかな? という意味ですか?  ☆☆ (κ) この質疑応答で 回答者が ただおしえるというわけでもなく 質問者も ただおそわるというのでもなく 《おしえる》行為は 両者のあいだ(つまり関係)にある。要するに 両者が 《おしえ合っている》 こうではないか?  ☆ こういうまじめなやり取りではなく そうではなく イヂワルをしてやろうかな? という場合ですか?  ☆☆ (μ) 対話をおこない 質問しあって たどりつく答えは どこから人は受けとっているのか。つまり 誰から・どこから 人はおそわるのか。  ☆ ここから  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  (単純に「知性」などと言っていては、ということでしょうか、  涙の一つも、こぼれてくるようです。)  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ へと続くのでしょうか?  ☆☆ (ε) おのれにおしえるのは みづからの知性がではないのか?

noname#197325
noname#197325
回答No.3

いや、違いました。誰からも教わらなかったというものは、それは本能であり、新知見というものは教わったものであり教わらなかった知見ではないですね。今そう思えました(^_^)

bragelonne
質問者

お礼

 あっ だいたい同じことをご返答としました。  《知見》と言うなら そうなるでしょうね。  ありがとうございます。

noname#197325
noname#197325
回答No.2

なるほど。考えれば考えるほど感性では教わらなかった知見と言い切れないという感じになりました。  (ι) おしえる者とおそわる者との間に 教育は 成立するのではないか? →教える意図を持って教える者、教わる意図を持たず教わる者。このような場合で例えると母親と赤ちゃん。母親は赤ちゃんの様子を伺い、教える意図や教わる意図を持ち、赤ちゃんの教育、赤ちゃんに教育される。赤ちゃんは成長すれば泣けば母親が理解してくれるという知見を得るが、それは母親という社会の教えによる知見だとする。ただ、赤ちゃんは最初から教える意図や教わる意図を持って泣くという行為をするのか?では本能とは誰からも教わらなかったことではないのかと考えました。誰にでも本能があるとし、教わらなかった知見とはみれませんでしょうか?教わらなかった知見=本能。

bragelonne
質問者

お礼

 あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ なるほど。考えれば考えるほど感性では教わらなかった知見と言い切れないという感じになりました。  ☆ 間接的におそわっているというようなことを言いました。  ★ 教わらなかった知見=本能。  ★ ただ、赤ちゃんは最初から教える意図や教わる意図を持って泣くという行為をするのか?では本能とは誰からも教わらなかったことではないのかと考えました。誰にでも本能があるとし、教わらなかった知見とはみれませんでしょうか?  ☆ たぶん・おそらく《知見》と言うか ではないでしょうか? 《本能》を。  母乳を飲むのも ほとんど《おそわっていない》ですね。お乳をあてがわれるとしても 飲むようになるのは 自分からでしょうね。  生理的な行為は やがて自分でやるようになりますし。勝手に睡眠をも取りますし。・・・  だれでもみんな一緒ですから 《知見》とは言わないかもですね。どうでしょう。  でも母親と赤ちゃんとのあいだには 広い意味での教育がすでに始まっているのでしょうね。と思います。  

noname#197325
noname#197325
回答No.1

ヒトの感覚は5つ以上あることがわかっている。細かく分類すれば20余りある、とする説明もある。そうです。そのたどりつく答えは己の五感、それに加えて第六感。ではないかと。人は会話をできる。会話をできない生き物はどうやって教わるのか?人でも誰からおそわらなかった知見はあるんじゃないかと思える。

bragelonne
質問者

お礼

 ぴきぴきぴきさん こんばんは。初めまして。ご回答をありがとうございます。  ★ 人でも誰から〔も〕おそわらなかった知見はあるんじゃないかと思える。  ☆ そしてそれは たとえば  ★ ヒトの感覚は5つ以上あることがわかっている。細かく分類すれば20余りある、  ☆ と見られる《感性》の世界をつうじて得た知見であるのだと。  ――こういうご見解でしょうか?  それが証拠に  ★ 会話をできない生き物はどうやって教わるのか?  ☆ そういった生き物でさえも――それが本能だとしても―― 世界なる環境の中で適応し生きて行く知恵を得ているではないかと。  そうですね。そうしますと その《感性のゆたかなチカラの世界》というのは 誰かほかの者の能力ではなくおのれ自身のものだということなのだと思いますが そのような能力は けっきょくヒトには誰にでもそなわっている。ということではないのですか?    つまりは 《おのれ自身の能力だ。それによって得た知見である》と言う場合にも その感性なるチカラは ほかの人びとにとっても 基本的に潜在能力として同じチカラとしてそなわっている。と言えるのではありませんか?  だとすれば 誰にでもその新知見を得る機会はあった。ただあの A さんが先に得ただけだ。ということですよね?  ということは――詭弁を弄しますが―― 言ってみればその A さんも じんるいの共通のチカラをつうじて・そのかぎりで その感性なる直感におそわって その知見を得た。ということは 言えませんか?  その知見をもたらしたチカラは じんるいに共通のものではないですか?  その共有の財産たる感性能力は A さんがこのひとつの知見について用いたということですが その能力が開発されたのは 人びとといっしょに社会における生活をいとなんで来たその実績の中からなのではないですか? どうでしょう? 詭弁すぎますか?

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