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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:織田信長について)

織田信長について

このQ&Aのポイント
  • 織田信長に関する信頼性の高い伝記の著者はA.太田牛一です。
  • 桶狭間の戦いにおいてはD.織田信長が山中を迂回し今川方を奇襲して勝利しました。
  • 桶狭間の所在地はD.愛知県であり、墨俣一夜城はC.佐久間信盛や柴田勝家らの信長家臣が築城に失敗したことが特徴です。姉川の合戦にはE.毛利元就は関係しており、姉川の戦いではD.徳川軍が敵に気付かれない大きな迂回作戦を行い勝利しました。長篠の戦ではE.織田・徳川連合軍の兵力が最大の勝因であり、戦国時代の鉄砲ではB.身分の低い足軽たちが立ったままの連続射撃が可能であり、本能寺の変ではC.明智光秀による謀叛が起きました。

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回答No.1

こんにちは。 問1:A(質問者さんと同様です) 信長公記の著者ですので、ほぼ間違いないとも思います。 問2:C(質問者さんと同様です) 奇襲説は間違いだったという説は近年有力ですね。 問3:D愛知県 質問者さんの説だと今の静岡県から上洛するのに三河の山中(豊田市)を通って岐阜県土岐市へ行ったという仮説になりますが、その場合わざわざ織田軍が、当時は既に敵対してたであろう美濃(斎藤)の領土へ行くことが無いと思います。もちろん清洲(清須)が今の愛知県でも岐阜に近い場所にあるので可能性的には完全否定出来ませんが、熱田神宮(現名古屋市内)に立ち寄った事実からもUターンして岐阜に向かうのは考えられません。清洲の近くには国府宮や尾張国一宮である真清田神社などもありますので。 問4:C(質問者さんと同様です) 丸根砦は大高城の付け城でしょう。 清州城は言わずもがな。 沓掛城(沓掛城)は戦国時代よりも前よりあったといわれています。「くつかけじょう」と読みます。 問5:E 自信は無いですが、墨俣に城はなかったと思います。 問6:E(質問者さんと同様です) 今と違い、この時代の中国地方と近畿は全然違う世界です。 問7:C(質問者さんと同様です) ただ、川中島は同なのかという疑問があります。 Bは武田氏ではなく、浅井氏ではないですか? 問8:D(質問者さんと同様です) これも桶狭間の戦い同様に誇張でしょう。 問9:B 連続発射は出来なかったと思います。 問10:A A:足利義昭直臣の家臣であった細川藤孝などのその後の動きから謀略とは断定できないでしょう。 B:甲斐武田氏は討ち取ったので、中国地方へ目が向いたのは間違いないでしょう。 C:僕の知ってる史実どおりです。 D:僕の知ってる史実どおりです。 E:僕の知ってる史実どおりです。

mamoru1220
質問者

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ありがとうございました。

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