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人は他者のために生きるべきか

人は他者のために生きるべきでしょうか。哲学の知識でご意見ください。

みんなの回答

回答No.11

「情けは人の為ならず」ってことですかね・・・

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.10

875yamada様、おはようございます。 ・・・限度があると思います。 個人的には、「自分が好きでやってることが、他者の役にも立ったら(望外の)幸せ」です。

回答No.9

哲学専攻でもなく、哲学の学者でもないので哲学の知識というものはありません。 しかし幼児のときから哲学をしてきました。 中学高校では湖人や阿部次郎、出隆、百三などに耽溺。 大学では法哲学にのめり込み、カントに進む。 人たる自己の存在というものを問い詰めていくとか、思索していくと宇宙と万物、そして万人になります。 そういう実感からは自己と他者とは同じ存在なのだとなり、自己なくした他者はなく、他者なくして自己はなくなります。 つまりイコールです。 自己の事は他者のことであり、他者の事は自己のこととなります。 そういう私はご質問のように日々呼吸しております。

noname#194996
noname#194996
回答No.8

他部族の人間に嫁(若い女)をくれてやれば、遠くない将来に別の部族から嫁(若い女)がプレゼントされる。無償の贈与という概念が今に生きる原始的な部族のしきたりの中にすでに始まっている、ということが比較的新しい哲学(構造主義)の記述の中にあります。ひとは他者に何らかの善行をすることで結局自分を救っているという概念は意外に古くからの考え方らしいです。真理としてべきです。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.7

人は皆 一人では 生きていけない者だから 自分が生きんとすれば 他者の為にも生きるべきでしょう 言葉をちがう角度から見て 自分は生きたくないのに 他者の為に 生きなければならないのか という意味にとってみると それは 自由 母親のように子供の為にと生きる人もいれば 他人は自分とは関係なくすと 自殺する人もいますねえ。 それでも自分を磨り減らしてまで他人に尽くす人もいるし 他者の為に生きるべきかは人それぞれで 一概には言えないですねえ 自分のためにも他者の為にも生きてほしいですけどねえ・・・

回答No.6

 こんにちは。  たとえば ヨブという人が 旧約聖書に登場します。  このヨブは――信仰という事態にかんするかぎりで言うのですが―― 自分の信仰の境地が高いことを自覚しており この境地は 言わばみなにおすそ分けするのが 道理というものとわきまえている。そんな人間でした。  その実際の結果は 息子や娘を無くしてしまったりする不都合が自分自身に起きたり それらの逆境に落ち入ったことを友らから指摘され それはきっと悪ゆえの処罰であると妻からさえも糞味噌にバカにされたりすることでした。  なぜなら 信仰のよわき人びとが その心が癒されるためには その人たち自身より劣った地位にヨブは突き落とされるということ これが 言わばおすそわけのかたちだったわけです。そのきっかけだったと見るわけです。  つまり ヨブじしんが病気になることもそういう過程でのひとコマでした。  こういった――いささか傲慢な見方ですが――社会的な人間関係の錯綜するその仕組みとしての広い見方において捉えるならば   ★ 人は他者のために生きるべきか  ☆ の当為つまり《べき》論は どうも筋がちがう。こう思われます。  ひとは 社会的動物として互いに――むしろ絶対的に――関係しあっている。こう考えます。  こういう思想(生活態度)もしくは世界観もあるというご紹介でした。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.5

自分の為に生きるも、他人の為に生きるも、人の中で生きていれば同じ事。 自分の為に生きるには、他人が居れば他人を敬わねばならず、敬うのを厭うならば関わってはならない。

  • kyo-mogu
  • ベストアンサー率22% (3398/15358)
回答No.4

 自分の事は自分ではよく知らない。他者を通じて本当の自分を知ることが出来る。

  • yotsuba_k
  • ベストアンサー率6% (9/148)
回答No.3

塞翁が馬という言葉を辞書で調べて考察を重ねましょう。短絡的な投稿を繰り返していますから、理解できるかどうか難しいかもしれませんが。 病気ではないですよね?

回答No.2

もはや人類は、多様化に基づく分業&組織化による社会 生命であって、単独では生きられない。 いくらお金があっても、無人島では紙切れに過ぎず、真の 価値はお金にではなく、その向うで働いてくれる人々の 存在にある。 我々の身の回りの衣食住、何一つ自分一人で作れる物は なく、世界中から届けられている。 そこにおいて個人の持続的なより良い生とは、世界全体の 順調な営為に基づき、「他者のために生きる」事と「自分の ため」と一致するのだ。 短絡的な利己主義や自己顕示は社会性を劣化させ、他を 害する事を経て、自らに負の波及をなす。 それは究極的に、自己の認識により有限な存在=環境性 が生じるという量子論的な世界像に還元され、「真の自己 とは“自己(感受表面)”の内ではなく外である」=より良い 環境を認識する事がより大きな喜びである、という事に つながる。 自分がどんなに豊かで権力を持っていても、自分以外の 人々が苦しみ、争い合っている社会で生きる事が、どれ程 幸せだと言うのか。 お金や出世という“馬車馬の目の前のニンジン”は、自己 チューな意識のまま他律的に社会行動を強要するのだ (お金をもらうためにイヤイヤ働く=社会生命にとって働く 事が生きる事そのもの(助け合い)であるにも関わらず)。

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