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他者への思いやりとは何ですか??
今、他者への思いやりについて学び中です。 他者への思いやりとは、人それぞれですが、皆さんの思う他者への思いやりとは何なのかききたいです。 私には思いやりという言葉が抽象的すぎてわかりません。
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- sirayukihime
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初めまして。 「他者への思いやりについて学び中です」とありますが「思いやり」の起源というか本質的なものを問うておられるのか或いは、かくあるべきということを問うておられるのかが分かりにくいですが、生物学的というか心理学的な面から探ってみて、そのうえで哲学的に考えてみられたら整理しやすいかも知れませんね。 「かくあるべき」という視点で考察するなら、それは答えは幾つも出てくるでしょう。結局、自分が、こうなんじゃなかろうか、こうあるべきだ、という「自分の」観点によることになりますね。 いずれにせよ、理解できる割合が少なければ少ないほど純化された思いやりを捧げるのは困難を伴うでしょうし、また尊いとも言えるかも知れません。 ま、しかし好きな人と嫌いな人が同時に同じようなことで窮地に陥っていたとして、どちらを助けたいと思うでしょうか?嫌いなほうを優先して助けられたら、それはそれで天晴れなことかも分かりませんが・・・。 また人間と動物=この場合愛玩動物は省きます。私みたいにヒトより犬や猫の方が好きという場合もありますから。 の場合どちらに思いやりの手を差し伸べたいと思われるでしょうか。 なかなか「自分の」観点を離れることって困難ですよね。 ところで最近も同じ哲学カテで似たようなテーマで質問が出されています。ここに参加されていない人たちの意見も多数出ていますので覗いてみられたら御参考にしていただけるのではないでしょうか。 QNo.1141525(No.1333)「大切さの由来?」
- MrAA
- ベストアンサー率0% (0/2)
んー、私は人生経験少ないですが・・・要は、自分の正義に嘘をつかず、自分の出来る事を後悔しないようにやる事ではないでしょうか? 困っている・・・極端に言えば死に掛けている相手と向き合った時、頭によぎった素朴な感情『なんとかしてあげたい』が思いやりの姿だと思います。 それ、つまりは自己満足なんです。 相手の意思に関わらず、自分からしゃしゃり出るどうにかしたいって強迫観念をぶつけるだけですから。でも、それでいいんじゃないかと思っています。伝わらなくてもいいんです。憎まれても構いません。自分が、そのとき、どうしたかったのかなんて事は自分さえ信じてればいいんですから。 それが私のおもいやりです。
- tarbodeshita
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ジャンルが哲学とあるので、 形而上学的に思索したいという主旨でいいのでしょうか。 ただ、思考の複雑さ・透徹さを求めるのならばそれでいいのでしょうが、人間として学びたいというのでしたら、 人間関係や実際の社会問題の中に飛び込んで、一つ一つの問題に取り組むのが本質と思います。思いやりの細かい定義よりも、自分の無力さに悩みそれを地道な努力と試行錯誤で解決していく過程で学んでいくものだと思います。 以下、例ととして、社会活動的な視点で話させていただきますと。子どもの良き遊び相手や高齢者の良き話相手になれるかどうか、怪我をした時の応急処置を知っているか、介護の際の工夫など、それらを身に付けて人に接しつつ、時に残酷な現実に面して、適度に学んだ形而上や抽象的な概念や認識が初めて血肉になるのだと思います。 本当に、決してあなたが現実を知らない等ということではありません。十分以上に広く深く人間や社会に関る活動をしていて、その上で書き込まれているのでしたら失礼しました。 また、「知らない人間よりは知ってる人間を」という話は、身内意識に囚われないことが確かに大切ですが、それは程度問題であり、仕方ないことだと思いますよ。身近な人を一人一人しっかりと見て手助けして幸せに貢献していくことから、自分もエネルギーが出てくるし、遠い人の幸せにつながっていく土台ができるのだと思います。 逆に、国際援助の視点の例で。私たち日本人の、身近な人のためには大して役に立たないわずかな額の資金(労力)で、最貧国の子どもの命がしばらく助かってしまう。また、私たち先進国の人間が恩恵を受けて豊かな生活をしている国際経済の仕組みのおかげで、餓死したり重労働して義務教育すら受けれない子どもたちが膨大にいる。そこには食料の1片を求める本当の地獄がある。日本人一人が自分が自由にできるお金を全て、遠いけれど「命が救える」一番効果的になる方法で使う、または生活の上で一切自給自足の生活をして国際経済に組しない。そういう徹底ができなければ、他国の人民の死と血の搾取の、「見ないようにしている」構造の上に私たちの生活はあるという「この世界の凄惨な現実」がまずあります。徹底ができるごくごく一部の人以外は、ある程度は良い生活はしたいという妥協の元、どれだけ、自分の目の届く範囲、何億といる貧窮の人々の中から有限の範囲をピックアップして何かできるか、それが一人間にできる最善の手助けかもしれません。以上、極論ではありますが、「身近な人からしていくしかない」ということです。自分の人間関係外や出会っても無い人、他地域他国家の人間、になっていくほど、相手の姿が見えなかったり活動の生身の手ごたえや感触無しに、年単位など長期に、何かの手助けを続けられるものでは無いのが現実であり、それは人間の性質であるとも思います。
- tonton2
- ベストアンサー率10% (19/176)
簡単です。 地震の被災者がどうみても寒がっている。 そっと毛布を掛けてあげる。 そんな実践的なものだと思います。 頭の中で考えたりするレベルのものでは なく行動が必要です。
中途半端にしないこと(ならないこと) ですかね。自分の場合だと。 自分と違う「他者」だと割り切る事。 気持ちを分かった風に振るまわなかったり。 あんまり実践できていませんけれどね。^^;
>今後(未来)を予測しながら今を行動するがゆえに >今この時の人間関係に恐れを抱くことが挙げられると思います。 なぜ、先を考えると「今この時の人間関係に恐れを抱く」のでしょう? それが相手のためなら、人間関係が壊れたってイイじゃないですか? それとも、思いやることは「人間関係を良好に保つ」手段ですか? 見返りを期待して「思いやる」のですか? >相手のためになっているかどうかを判断することは >簡単にできると思います。 >それは、相手に「問う」行為をするだけだと思います。 思いやりの成果を「問う」。 それも一種の見返りを求める行為ではないですか? >「問う」という行為を行うことにより >よりいっそう相手への理解の幅がひろがり >「思いやり」がより「思いやり」へとなっていくのだと思います。 私には、それは「思いやる行為」の精度を上げよとうとする つまり、自分の行為のを「より効果的にしよう」とすることが 目的になっていると感じられます。 要するに「思いやり」とは「成果」や「効果」を求めるものではなく もっと「無為」「無我」で行う行為だと私は思う。 だから(見返りを求めるものではないから) 態度として「一期一会」だと書きました。 私は「思いやり」が相手のためになっているか?は 確認が出来ないと思います。 だって、相手の行為が「思いやり」からくるものか? は判断できると思いますが 相手から受けた思いやりが自分のためになっているのか? 少なくとも自分には容易に判断が下せません。 多分、私の >何が最良か?の判断基準は難しいですが >将来の自分が過去を振り返ったとき >あの出会いは最良だった、と >自己承認できることだと思います。 この4行の詰めが甘いんでしょうね>反省。
- yukimura_77
- ベストアンサー率27% (19/68)
いつもは、過去に答えた人を読んで書き込むのですが、 あえて、見ずにかいています。 『他人への思いやりは、そんなものはありません。 すべて自己満足です。』 あまりおすすめではないのですが、マーク・トゥウェイン の「人間とは何か」に上のような事が書いてあります。 たとえば、川でおぼれている人がいます。 あなたはどうしますか? きっと助けるでしょう。 助ける事に手助けできたら、自分で大満足です。 もし助ける事を放棄したら、あなたは後悔するでしょう。 後悔がいやなら、助ける”しか”ないのです。 細かな抜け道も「人間とは何か」には、みっちり、 対処が書かれています。 で、現実の私はというと、 『他人への思いやりは、そんなものはありません。 すべて自己満足です。』 を照れ隠しで使っています。
- sawai197
- ベストアンサー率39% (164/415)
思いやりとは、相手の立場になって考えること。相手の為・相手のことを思って考え、行動すること。だと思っています。 私は思いやりと優しさはほぼ同義語だと思っています。 >「自分の観点のみでの優しさ」を他者に提供できるからです。この時点で他者を思いやる気持ちからはかけ離れてしまい、自分だけしか見えていない状態で、他者とかかわっていることになっていると思います。 ひとは「自分」という殻から、一生抜け出すことはできません。真に「思いやり」をもてば必ず相手の為になるはずだ、とは思いません。「優しさ」にしろ「思いやり」にしろ、自分の観点からのそれにすぎず、本当に相手の為になっているかは確認することはできません。 さきに、ボランティアの話がでましたが「就職に有利になるからボランティアしよ~っと」と思ってボランティアをした人と、本当に対象者のことを思ってボランティアをした人、場合によっては前者の方が相手に感謝されるかもしれません。立派な動機をもっていれば、立派な結果につながるとは限らないのです。 「思いやり」や「優しさ」は、自然に心からわきあがってくるものです。それは尊く、大事にすべきものですが、「アンタの為を思って言っているんでしょ!」とばかりに「思いやり」の心を行動の正当性に変えてしまい、相手の為になっているのだと思い込むことは危険です。まさにストーカーの心理そのものです。 こうした配慮をすることも「思いやり」のひとつだと思っています。
お礼
ありがとうございます。確かにその通りだと思います。 >ひとは「自分」という殻から、一生抜け出すことはできません。真に「思いやり」をもてば必ず相手の為になるはずだ、とは思いません。「優しさ」にしろ「思いやり」にしろ、自分の観点からのそれにすぎず、本当に相手の為になっているかは確認することはできません。 確かに、自分の観点からのそれにすぎません。しかし、そのことを自らが「飽くまで自分の観点から・・・」ということを受けとめた上で人とかかわっているのだと気づくことが重要なのでしょう。 ただ、相手のためになっているかどうかを判断することは簡単にできると思います。それは、相手に「問う」行為をするだけだと思います。「問う」という行為を行うことにより、よりいっそう相手への理解の幅がひろがり、「思いやり」がより「思いやり」へとなっていくのだと思います。
- kirinnremonn
- ベストアンサー率9% (2/22)
No4です。 >自分だけを主体とした考え方ではないでしょうか。他者とかかわるうえで、自分の都合がまず第一に考えられている証拠であると思います。 思いやりとは能動的であり極めて主体的であると思います。こちらの、心からの思いやりが、逆に相手の反感を買うことがあるのはその証拠です。当然、こちらは相手が喜ぶ、相手の為になる、と考えて思いやるのですが、その結果、その通りになるとは限りません。 そして、結果が良好にならない場合、本来の目的を達さないのですから、より情報が豊富な「よく知っている人間」に共感し助けたくなるという意味です。利益にならないから知らない人間はどうでも良い、という意味ではなく、情報が不足している分、共感しにくいという意味です。 さらに言うと、思いやりとは自己の内心に理性(損得勘定)を超えふと湧き上がるものであり、他人から見た場合、著しく不公平である可能性もあります。だからといって、平等に扱うために、無理矢理万人に思いやりを均等配布することなど不可能ではないですか。そして、そういう思慮の下ではそれを思いやりとは呼ばないと思うのです。
>過去を振り返ったときにしか、あの出会いは最良だったと >感じることはできないのでしょうか? そのツッコミを待っていました。 将来の自分から見て今の出会いが最良になるように行動することは 早い話が「未来予測」です。 つまり、今の出会いが最良になるように どれだけの幅と奥行きを持った「未来予測」が出来るか? ということでしょう。 つまるところ「思いやり」とは 他者に対する敬意を軸とした「想像力」だと考えます。
お礼
度々ありがとうございます。 >今の出会いが最良になるように、どれだけの幅と奥行きを持った「未来予測」が出来るか? このことについて、 「未来予測」たる考えを持っていたならば、果たしてほんとうに今を大切にすることができるのでしょか? 今後(未来)を予測しながら今を行動するがゆえに、今この時の人間関係に恐れを抱くことが挙げられると思います。 「先のことを考え、今この人にこういうことは言わないほうが良いであろう」「相手にこんな言動をとったら、相手との関係が崩れてしまう」 要するに、相手との関係の中で、互いが変容することを恐れる。未来予測することにより、今目の前にいる相手と本気でかかわることはできないと思います。 こういった未来予測しながらの相手とのかかわりの中では、相手に対する「思いやり」は本領発揮できないと思いますが・・・
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お礼
私も少々誤解を招く文章を書いてしまったことに反省です。 >なぜ、先を考えると「今この時の人間関係に恐れを抱く」のでしょう? この問いに対し、相手との先(未来)の関係を考えるがゆえに、今その人と本気では向き合えないということです。 CUE009のおっしゃる、「それが相手のためなら、人間関係が壊れたってイイじゃないですか?」これは、今、目の前のその人を大切に、先の関係を恐れない行動だと私も思います。例えば、もし「この人とは、あまりこの先ぎくしゃくしたくない」と思うなら、そういった自分の願望が先に優先されてしまい、関係が壊れることを恐れ、相手のことなんて見えなくなってしまうと思います。こういった意味です。 >思いやりの成果を「問う」。 これは違います。 相手を理解できない、だけど相手を理解したい。そういったときに「問う」という行為を相手に投げかけることにより、よりいっそう相手への理解の幅が増え「思いやる気持ち」が新たなものへなっていくということです。決して自分の行為をより効果的にするものではありません。相手をわかるためには、自分の今までの相手に対する先入観を変えていかなければならない。相手のために自分も相手から「問われ」ながら関係は作られていくものです。そのために「問う」という行為は必要不可欠であり、相手を「思いやる」ための過程にすぎないと私は思います。 >私は「思いやり」が相手のためになっているか?は 確認が出来ないと思います。 >相手から受けた思いやりが自分のためになっているのか? 少なくとも自分には容易に判断が下せません。 これはできます。私はそう思います。CUE009さんは自分の視点からこのことについて書いていますよね。こう考えると、見返りを求めることになっていると思います。「思いやり」とは飽くまで「思いやり」に過ぎません。自分が相手にした「思いやり」が相手のためになっていれば自然とわかるものです。またなっていなくとも同じことです。それに加え、この「思いやり」に対し、自分が相手へ「問い」かければそれが自分の中でより明確なものへとなっていきます。このときは自分自身も相手から「問われている」存在となっており、互いに「問い」続け「問われ」続けているのです。そのために「問う」行為は欠かせないのです。 長くなって申し訳ないです。
補足
お礼の文でCUE009さんの名前に「さん」を付け忘れてしまいました。すいません。