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《オタク》は 他者性を避けているか
次の文章の説く実態について 解説やら批判やらをおしえてください。具体的な感覚や実態が分からないのです。 ▲ (大澤真幸:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~ オタクに関する相反するイメージに遭遇する。一方で われわれは オタクは 対人関係が苦手で 他者との接触を回避する傾向がある ということを知っている。だが 他方で オタクには 明らかに他者を求める欲求がある。オタクの多くがインターネットの熱心なユーザーである。彼らは しばしば同人誌を作り さらにはコミケのような同人誌の即売会を組織したり それに参加したりする。・・・ このような二重性を どのように統一的に解釈すればよいのか? だが この点に関しては 解釈は容易であるように思える。・・・ オタクが交際を求める他者は 一般に 同じ《趣味》を共有するオタク仲間である。つまり それは 類似性――それぞれのオタクを他の人々から分かつ弁別的な特性に関する類似性――を 本質とする他者である。ところで 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。他者についての経験は 何であれ 差異をめぐる経験である。そうであるとすれば オタクが欲求している他者とは 他者性を抜き取った他者である。 (III オタクという謎 pp.109-110) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 一点 論点のようなものも示します。 ▲ 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。 ☆ のは まったく真実だと考えますが そもそも ひとは 他者の内に 自分とのその差異を捉えることが出来るでしょうか? 捉えられるのは 自分の中にも かすかにでもある性格などに限られませんか? 差異としての他者を捉えることが出来れば このような《オタク》の交際における片寄りは 批判すべきだということになりますが 出来なければ オタクでなくても そのような交際における片寄りは ひとにとって 一般的だとも考えられます。 この点についても よかったら ご回答の筆を伸ばしてみてください。
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>現代の現実を秩序づけている反現実は 直接には見えていない《不可能性》である。 大澤氏を否定はしません。 でも、我々側の方が大澤氏よりも遙かに敏感なように思います。 なぜかというと大澤氏の示している反現実なるものを直接見ようとして 壁をぶち破ろうとしているPlayer側のつもりだからでしょう。 「現実への逃避と極端な虚構化」は「こと」への深い没入の副産物 にしか思えませんけどね。 既に、氾濫する言語情報や動画情報が「現実」ではなく、それらのギャップが反現実を構成していることは、百も承知なのであって、もはや「現実」を探しに現場に直行するか「こと」へ没入するしかないでしょう。 現場が進行形ならいいのですが・・・終わった花火大会はどうすることも出来ませんから新しい花火作りへ没入するしかないと思いますね。
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- bananasand
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こんばんわ。 ノーベル化学賞 田中 耕一氏にオタクの微臭を嗅ぎつけているのは私だけでしょうか。 一般企業のサラリーマンで出世昇進に無頓着、外向的とは言えない氏は、大澤氏が指摘するような他者性を避ける傾向があるようには思いますね。 しかし、だからこそ、創造側に立つオタクに対しては、非オタクが「オタクが欲求している他者とは 他者性を抜き取った他者である。」なんて言っていないでその業績を日頃から積極的に認める態度を取った方がいいんじゃないかと思うんですね。そのほうが田中氏もより深く没入できていたのではないでしょうか。 これまでも述べた通り、大澤氏を否定はしません。 しかし、大澤氏の先の展望を「不可能性」としてしまうは、どこか狭窄していて大切なものを見落とす「可能性」を感じます。
お礼
bananasand さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。田中さんのことを知っているかと言えば 知らない部類に入ると思いますが 仕事への没入が つねに アイロニカルであるかどうかは 一概に決まらないということでしょうね。 次のような記事を引いておきます。 ▲ (ヰキぺ:田中耕一) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 当時国内外共に明るいニュースが無かったため、田中の功績は大々的に取り上げられ、職人気質で物欲・出世欲・金銭欲が無い謙虚な人間性も皇室、財界、政界、学界、マスメディア、一般人など非常に広い世界で好意的に受け止められる。 温厚な人柄で「善人の代名詞」とまでマスメディアは持ち上げたが、その後NHKの田中耕一追跡取材では、連日連夜の記者の追いかけと、一人歩きする聖人のようなイメージに悩んだと打ち明けている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これだけでは オタクの要素にかんしても 必ずしも明らかにならないかも知れません。 しかも 前回からわたしは まだ進んでいない現状を覚えています。 といった状態ですが たぶん 片や 個室に入ることと 片や 他者性を抜き取った他者のみを欲求することとは 分けて捉える必要があると考えます。そう言えば カントはどうだったでしょうか? たぶん何ごとに関しても 蓋をしないで 捉えていくことが必要でしょうね。そうすれば どこにでも 窓は開いているということであるかも知れません。
補足
みなさん ご回答をありがとうございました。 一たんこの質問は締めることにします。 《他者性》は けっきょく《人間存在の関係性 つまりは 愛や信頼関係》の問題として 広く大きな課題です。 大澤もよい問題提起をしていると考えます。 この展望を持ちつつさらに進めてまいりたいと思います。 ではひとまづこれにて。(6月21日)
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
こんばんはー。 差異性と違和感にこだわっておられた感じなので、それについて考えてみました。 差異性は、認識して、自分が捉えることを中心としてますし能動的、 違和感は感覚で受動的です。 人間は何をするにも、認識と感覚(感じ)は、2つは必ず絶対にペアであると思います。人は感じながら考えてる、これは間違いないかなーと。でも人の意識が、感覚に焦点が合ってるか、認識に合ってるかは、その時の気分次第ですし。 つまり、同じものを、ある時は差異性として、ある時は違和感として感じます。 差異性だ、と思うときは、僕なら、その違いを楽しめるときだ、と感じます。(好きなものは積極的に捉えたいから、能動的になります) 違和感と感じるときは、嫌だなーと、この違いは楽しめない、と感じるときです。(嫌なものには積極的になれないから、それは受動的になります) 差異性を楽しんでいるときは、発想の原点になる直観の違いは別に気になってないみたいです。 それは、自分に危険が及ぶものではないし、楽しい、ということはリスクがない、と感じるからです。 違和感、の場合は、自分の、何かしらの人格のよりどころになってるものが揺さぶられています。それで生じた違和感ですし。 そもそも人を信じるのに理屈は要らないのですがー赤ちゃんが皆しているように、信じるのは、先天的な人の能力です。 ただ、理屈で考えることで、不安を最小限に減らしたい、と言うとき、なるだけ相手を理解したいと思います。 ちょっと説明はしょって結論だけ。 違和感を感じる、とは、自分のよりどころが無条件で正しいと思ってるときに、そのよりどころと違うものを提示されて感じます。 上に書いたように信じることには理由はいりませんし、従って本来よりどころも要らないのですが、 よりどころがあるということは、そのよりどころとなっている、自分の直観や過去経験した環境を客観的にみれていないことと同じだと思います。(ぼくのことですが) で、その把握には、よりどころを客観視する必要があるので、勇気が要ります。(と前回の文章につなげてみました・・) 差異性を楽しめる人は、逆に、少なくともその時はそれを楽しむのによりどころを必要としません。よりどころがないから違いを楽しめます。 楽しんでる、というのは逆に言うと客観視ができてる、と経験上も思います。 よくスポーツ選手が言うように、プレッシャーを楽しめ!というのは、勇気を出して、非日常という名の違いを楽しもう、という意味かなと想像します。 それはこの間書いた、勇気を無理にふるっても仕方ないしなーというのと一緒で、でも対処療法としてはいい手だなーと思います。 勇気を出す、心を開く、と言う変化は、自分のよりどころに目を向ける行為と本質的に一緒だと思ってます。それが無条件に正しいわけじゃない=違いが楽しめるようになると、視野がちょっとでも広がり、深い安心がありますし。 自分の例だと、外向的な人の発想や、哲学の無神論の人の発想などが最近ある程度実感するようになってきて、ずいぶん風通しは良くなりました。その人なりの直観があって、環境があってそういうことを言っている=理由があるのであって、悪気はない、ということが、ん~~、ほんのちょっとだけ理解できます。 感覚的な言い方ですが、その理解する大変さを、大事なものを信じるエネルギーに変えることができたらいいのに、という願いはあります。 以上のような調理法でした。 こないだも他の方に指摘されたのですが、やはり文章が文学や詩みたいにどうしてもアバウトです。 文章が思いっきり内向的な視点で、同時に完全に論理的でないことは百も承知なのですが、きっと読みずらいとは思いますが、表現上の問題はご勘弁を。
補足
sheep67 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 いやぁ 意外とと言ってはいけないでしょうが ずいぶんすっきりしているのですね。 ★ 違和感 ☆ は誰でも 或る程度の人びとに対して感じるでしょうから。 ★ 差異性を楽しんでいるときは、発想の原点になる直観の違いは別に気になってないみたいです。 ☆ これで 類似性も ともに楽しんでいくことができるでしょうし すっきりしているみたいです。単純すぎますか? ★ よりどころ ☆ が 気になりました。何かが特別にあるようにも聞こえますし いや それはふつうのことだと言うようにも思えますし。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 違和感を感じる、とは、自分のよりどころが無条件で正しいと思ってるときに、そのよりどころと違うものを提示されて感じます。 上に書いたように信じることには理由はいりませんし、従って本来よりどころも要らないのですが、 よりどころがあるということは、そのよりどころとなっている、自分の直観や過去経験した環境を客観的にみれていないことと同じだと思います。(ぼくのことですが) で、その把握には、よりどころを客観視する必要があるので、勇気が要ります。(と前回の文章につなげてみました・・) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ きわめて普通のことだとも思えますし いやこの《よりどころ》には 何かいろんな内容が詰まっているかのようにも思えますし。 あるいはまた 《自分の考え もしくは その支えとなるような信条や信念》が ふつうは よりどころであって これについては ひとは一般にただしいと思っていると思いますよ。 かたくなにではないでしょうね。でも 自分の信念が ただしいと思っているのではないでしょうか。相手のそれについて とうとぶという余裕もあると思いますが そのことは 自分のがただしい(もしくは 自分には合っている)と思っていることと両立するでしょうね。 だから 違和感もしくは差異性を感じるでしょうね。時につけ折りに触れ。 あとは あれぢゃないですか。つまり 違和感を感じた場合 それをどのように 中和したようなかたちで 表にも出すか。言葉でどう表現するか。というようなことではないでしょうか? わたしは たぶん ぶしつけに表現しているので 例になりません。その点 くやしいです。 よく調理していただきました。ありがとうございました。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
また、お邪魔します。 >貨幣とかが入るのでしょうか。 そうなんですけど・・・ 大澤氏の言う不可能性とは、簡単に言うとバーチャルな世界、 アイロニカルな没入に本当を求めるから、結果は得られない=不可能 ですよね。読んでもいないのに勝手にまとめてますが・・・・ まぁ、そりゃそうですよ。否定しているのではありません。 SEXしなきゃ子供は生まれません。マスターベーションでは決して 子孫はできません。 でも、時代はもはや、壁を突き破っていると思うんですよ。 生活力の貧弱な男性がアダルトサイトでアイロニカルなマスターベーションしている間に 社会進出した自立した女性が自分のデザイナーチャイルドを抱いています。 まさに楽天で自分の服をオーダーメードするように。 身長は、目の色は、髪の色は・・・・ このアイロニカルな選択とSEXの無い精子と卵子の結合という現実。 そして、この選択というのは、もはや現実でしょう。 オタクを含めて心の捩れを注視するなら、不可能と言ってしまうのではなくて、 その不可能の先にある非線形な変化を先取りして欲しいと思うんですけど・・ それとも私がどこか誤解してますでしょうかね。
補足
bananasand さん ご回答をありがとうございます。 じつは わたしもまだ きちんとこの大澤の新書本の全体を読み終えたとは言えないのです。とりあえず 《オタク》とは何かの問題で尋ねてみたものです。 ○ アイロニカルな情況 ☆ は 《不可能性の時代》にかんしては 次のような内実を持つと言っている点について 引用します。 ▲ (不可能性の時代 V 不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~ 現代社会は 二つのベクトル――現実への逃避と極端な虚構化――へと引き裂かれているように見える。両者は どのように関連しているのか。・・・ 究極の《現実》 現実の中の現実ということこそが 最大の虚構であって そのような《現実》がどこかにあるという想定が 何かに対する つまり《現実》に対する最後の隠蔽なのではないか。だが 隠蔽されている《現実》とは何なのか? とりあえず それを《 X 》と置いてみよう。 * ( bragelonne 註) どうも けっきょく《神》のことを言ってい るようです。 ・・・一方には 危険性や暴力性を除去し 現実を コーティングされた虚構のようなものに転換しようとする執拗な挑戦がある。 * 大澤によれば イラク戦争を まだ地上戦に到らない前に すべて 電子兵器を遠隔操縦することで遂行するというような《戦争の虚構化》 が例に出される。 他方には 激しく暴力的で 地獄のような《現実》への欲望が いたるところに噴出してもいる。 * 同じく 少し角度を変えてみれば 例のアブグレイブ刑務所内で わざわざ捕虜のイラク兵に対して虐待をおこないそれを映像におさめる という事件。これは 少しでも 《現実》を欲しているのだと分析され るのではないかと。 これら二つは ともに X への対処法なのではないか。両者が 互いに矛盾した方向を指し示すのは X が 決してそれ自体として認識したり 同定したりすることができず それゆえ 直接には体験や行為の対象にはなりえないからではないか。・・・X に間接的に関わる二つの方法が 述べてきたような二つのベクトルとして結晶するのではないだろうか。・・・ したがって 虚構の時代の後に 現実を秩序づける準拠点となっているのは この認識と実践から逃れゆく《不可能なもの》である。すなわち 現代の現実を秩序づけている反現実は 直接には見えていない《不可能性》である。・・・われわれが今 その入り口にいる時代は 《不可能性の時代》と呼ぶのが適切だ。 (pp.165-167) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とりあえず このあたりから よかったら 進めてまいりたいと思いますが どうでしょう?
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
こんばんはー。 続きです。 ★ 直観依存症は、人間である限り避けがたいと思います。 ☆ ということで ★ おたくが他者性を避ける、それはあります。 ☆ を少し外向き・前向きにしていただいて ★ 外向的な人は、他者性依存の傾向があります。 ☆ を少し内向きにもしてもらって 互いに歩み寄りをしていけば いいのでしょうか? これは、個人的にも悩むところです。理想と書いたんですが、実際、これを実行するには勇気が要ります。 相手を理解することは、自分のよりどころ(直観が作る自分や世界)を、放棄したり、もしくは拡張することになります。 どっちにしても、もう直観依存はできなくなります。 違う性格の人を受け入れるなら、いい方に考えても、今までよりどころにしていたものは、自分全体が寄りかかれるものから、自分の一部にしてしまうことになり、 それは視野の拡大でもありますが、自分がどっぷり寄りかかれるものではなくなります。 依存しているのは、生きるのに必要だったから依存する習慣が付いているので、 これを実行するには、勇気を強いられるか、あるいは、直観以外のもっと頼れるものを見つけるか、何かしらの自己の変化が求められます。 僕自身はと言えば、なるだけ勇気出すようにはしていますが、やり過ぎると怖くなりますし、 つまり、ただ単に勇気出すだけ、というのではなく、 その勇気は、自分の置かれた全体性~信じるものや、家族関係や、自分を作り上げるもの全部の総和? のようなものとして決まってきてます。 つまり勇気を出せばいいやん? という解決法は、ないなーと思います。一時的に頑張ってそういう練習はしますが。 勇気を出して慣れる→勇気を出して慣れる・・・と繰り返してると、ある程度慣れては来ますが。 最終的には、違う人間であっても、同じ人間なんだ、と感じられるか?という、特に僕の苦手なポイントですが、 変だなーと思う人でも必ず理由がある、と言うふうに、今は自分に言い聞かせてる段階です。それを信じるには僕はまだまだですので。 理屈で考えるなら、発想の土台になる直観の違いは、すごく大きいし、 人に感じる違和感の大部分はこの直観と、それに組み合わさる主観的な環境の違い、と思っているので、まあそう言い聞かせます。 いろんな本見ていても、それは多分事実なんだなーとは思ってます。 仮に自分の兄弟でも親でも、そういう違いは感じます。 僕の場合、身内にそれを認めだしてから、そういう確信は強くなってます。 そんなふうに解釈が進めば、出す必要のある勇気は少しで済む、と思ってます。
補足
sheep67 さん ご回答をありがとうございます。 お話をお聞きすると わたしなどは――いつも人前では 上がってしまうくせがあったし 残っているのですが それでもこのように文章をつらねることにかけては 傍若無人のところがあるようなのですが そのわたしも―― どうお応えしてよいやら 少し分からなくなるところがありますね。 いちばんお訊きしたいのは いまこうやって文章をつうじて話をしていますよね。この話し合いと 一般に面と向かって人と話すのとは 勝手がちがうのですか? ということですね。以前にも やり取りを わたしとは しましたよね。 こういう感覚で受け取りました。つまり ぜんぶ分かっておられる。ただし 人との交わりにおいて――たぶん ですが―― これ以上は 踏み込めないし 踏み込まない境域がある。あるいはまた 相手からも踏み込んで欲しくない場所がある。 もしこのようだとすればですが 最後のことがらは 誰にでもありますね。触れて欲しくない話題はあるんぢゃないでしょうか。 自分から踏み込めない所は どうなんでしょうねぇ。これは 人によるのではないですか? 特に外向的でない人でも 踏み込んで話をする人はいるような気がします。どうも 程度問題であるように思えるのですが どうでしょう? そうしますと けっきょく こういう違いのように考えられるのですが ちがいましょうか? つまり 差異性を持ったと感じる他者に対しては あまりこちらからは かかわろうとしない。ただし 排除するものではない。――類似性を持つ人びとと交わるのは 誰でもほとんど全く同じでしょうから こういう違いであり それだけであるように思われます。 ただし それよりも重要だと思われることは ★ 自分のよりどころ(直観が作る自分や世界) ☆ でしょうか? これについては ふつう誰にでもある一般的なものだとも思えますし ひょっとして どこか独特のあり方が別にあるのかなとも思えますし まだ思案中です。この直観との関連で ★ 勇気とか 勇気を出すとか ☆ ということが出て来ていますし。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 理屈で考えるなら、発想の土台になる直観の違いは、すごく大きいし、 人に感じる違和感の大部分はこの直観と、それに組み合わさる主観的な環境の違い、と思っている・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なんですが ここで ○ 差異性 と 違和感 ☆ は違うのかとも思ったりしますが。・・・つまり 他者に感じる《差異》にも いろいろあるわけで 面白いなと感じるものもあれば なかなかこちらが受け容れるにはむつかしいと思うものもありますよね。後者は 違和感を感じます。 でも ★ 《発想の土台になる直観》に違和感を感じる ☆ とおっしゃっているのですか? そうですよね。これって 哲学の作業そのものなのではないですか? ★ それに組み合わさる主観的な環境の違い ☆ にしても そうでしょうし。 ううーん。ここまでですね。整理しきれていません。そのままを提出します。できましたら 料理してください。無理な勇気は出さないでください。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
大澤氏は本当に解っていませんね。 著作の紹介もザッと読みましたが、「そんなわけあるか」と言う感想でした。 《アイロニカルな没入》は、現実社会にこそ、厳然と多くに組み込まれてます。代表格は金融市場でしょうか。 お金のアイロニカルとアニメのアイロニカルの違いを明確に 説明できるのでしょうか。 通帳残高は現実で、アニメは虚構? バーチャル世界の土地が現実の現金で取引され、 ネットゲームのアイテムも売り買いされる時代に何を言っているんでしょうかね。 虚構の世界は、現実の世界への境界を簡単に乗り越えています。 昔からそうなんですから。
お礼
bananasand さん ご回答をありがとうございます。 そうですか。どうも ▲ 心のねぢれありき。 ☆ のごとく見ている。これを おたくに当てはめている。かの感じがあるにはありました。 ★ 現実と虚構と仮想現実と ☆ この主題が浮上しましたね。そして ▲ アイロニカルな仕組み ☆ が絡んでいるといった恰好のようですね。 ▲ 他者性を避ける ☆ だけを取り出せば なるほどそうかなと思ってしまいます。ちなみに ▲ 《オタクという謎》は 初出が 2004年。新書版が 2008年。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 虚構の世界は、現実の世界への境界を簡単に乗り越えています。 昔からそうなんですから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この視点も 詳説・敷衍できればいいでしょうね。貨幣とかが入るのでしょうか。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
私の言いたかったことを適切に補足いただきありがとございます。 付け加えで大澤氏の視点をもう一度よく考えたのですが、 「オタクが対人関係が苦手で他者との接触を回避する」 傾向があるというのは、オタクの本当の入り口ではないのですよね。 片手落ちに感じるのはこのせいです。 オタクが、他者との接触を回避する傾向があるから、 「こと」に没入するのか。これを回避先行型と呼びます。 そうではなくて、「こと」に没入できるから、 その「こと」に他者との接触は不必要と感じられるのか。 没入先行型でしょうか。 それと没入の仕方が、積極型(演じる、創作、プレーヤ)か 消極型(見る、鑑賞、収集、コレクション)かですね。 回避先行型-消極型、没入先行型-積極型の相関が強いと思います。 オタク文化を創造しているのは間違いなく没入先行型-積極型であって、 ご質問表題の、「《オタク》は 他者性を避けているか」は、 この場合、他者を避けるという積極的な本質はなく、消極的な結果ですね。 大澤氏の視点は回避先行型-消極型オタクです。
補足
bananasand さん ご回答をありがとうございます。 ふむふむ。分かりやすいですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 回避先行型-消極型、 ○ 没入先行型-積極型 の相関が強いと思います。 オタク文化を創造しているのは間違いなく没入先行型-積極型であって、 ご質問表題の、「《オタク》は 他者性を避けているか」は、 この場合、他者を避けるという積極的な本質はなく、消極的な結果ですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 大澤氏の視点は回避先行型-消極型オタクです。 ☆ 大澤の論じる分析視角について それでは 欠点であるかも知れない部分をご紹介しておきます。要するに オタクを 一部分では 悪者扱いするところがあるようです。その例を引きます。 ▲ (不可能性の時代)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ カサノワ゛は 例によって 田舎娘をわがものにしようとした。彼は純朴な娘を騙そうと 権威ある魔術師の振りをしてみせたのだ。 彼は魔術師の格好をして 地面に 《魔法の円》と称するものを描き 訳のわからない呪文を唱え始めた。と そのとき 思わぬことが起こる。 突然 嵐になって 稲妻が轟音とともに光ったのである。これに驚いたのは 娘ではなくカサノワ゛であった。彼は このタイミングで嵐になったのは ただの偶然の一致であるということをよく知っていた。が 彼の行動は 彼のこうした知を裏切っており 彼が別のことを信じているということを示している。 彼は あわてて ほとんど反射的に 自分が描いた 嘘の《魔法の円》の中に飛び込んだのである。 この行動が示している 彼の信の内容は 《雷は彼の冒涜的な行為への神の天罰だ》というものである。カサノワ゛はこう述べている。 私は恐怖に襲われ 魔法の円の中にいれば雷に打たれることはないだ ろうと信じた。この贋の信仰がなかったら あの場所に一瞬たりともい ることができなかっただろう。 ここで主張したいことは このカサノワ゛のあり方は オタクたちのあり方の寓話的な表現になっているということである。・・・ 意識的な知と行動的で無意識的な信との捩れによって定義できる態度を 私は・・・《アイロニカルな没入》と呼んできた。・・・ オタクのアニメ等の虚構に対する態度は まさにアイロニカルな没入として記述することができる。彼らは それが 幻想=虚構に過ぎないことをよく知っているのだが それでも 不動の《現実》であるかのように振る舞うのである。・・・意識と行動との間のこうした捩れ・・・。 (pp.104-105) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ bananasand さんの理論によれば この仮説を糾弾せねばならないでしょうね。ごく一部でしかないはづだと。どうでしょう? あえて こういう方面も出しました。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
こ、これは、おたくといわれると、かかないといけません~ と言っても簡単に、 おたくが他者性を避ける、それはあります。 一般に内向的な人や、例えば研究者、技術者、というタイプは、内にこもるのが得意ですし、避ける傾向はあります。個人にもよりますが。 でもそれは言い換えると、プラスの面を見れば、一つのことを追求できる能力です。 また、では外向的な人はなんの問題もないのか、というと、 外向的な人は、他者性依存の傾向があります。 他者性にどっぷり寄りかかって、人付き合いにこそ生きる価値を見いだす、という依存心です。 いえ、外向的な人は、他者性に依存しているからこそ、他人に文句を言いたくなるのでは? と思います。内向の人は、他者性に依存しない人が多いですし。(心や自分の内面に依存しているので) これらは、自分の存在価値を、どこに見いだすか? という点で、内向の人も外向の人も、その自らの直観をよりどころにしている、というだけに過ぎません。 こういう直観依存症は、人間である限り避けがたいと思います。 内向と外向が、お互い悪口を言い合うなら、このように指摘できると思います。 でも僕はプラスに見るほうが好きですが。 こういうタイプの違いは、批判するよりは、お互いに相手は自分にない長所を持っているのだから、その長所を見て協力し合うほうが、ずっと上手く行くと思います。 もちろん理想です。現実問題、そんな上手くは行きませんが。 一つの指針です。 まあ、でもとことん批判し合うのも必要だとは思います。雨降って地固まる、というか。 では~。
お礼
sheep67 さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ○ 一般的に言って 互いの差異を認め受け容れ――批判すべきは 自由に批判し合い――共生をはかる。 ☆ このふつうの目的のもとに 質問しています。そして そのように受け応えていただきました。 ★ こういうタイプの違いは、批判するよりは、お互いに相手は自分にない長所を持っているのだから、その長所を見て協力し合うほうが、ずっと上手く行くと思います。 ☆ つまりほかに 短所 と言うよりは 欠陥ですね――それもわたしの場合 話し合いが出来ない この一点です――この欠陥については その存在を愛し(つまりは その人の発言の機会をどこまでも認めとことん守り 絶対的に守り) 批判するという側面も含めています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もちろん理想です。現実問題、そんな上手くは行きませんが。 一つの指針です。 まあ、でもとことん批判し合うのも必要だとは思います。雨降って地固まる、というか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これで 共通の土俵に立ちましたね。土俵と言うより そういう過程ですね。つねに 過程でしょうね。ですから ★ 理想 ☆ というよりは ○ つねに問い求めの過程にある。 ☆ ということなんでしょうね。《理想と現実と》をひっくるめた《いま・ここなる現実》なのでしょうね。 これも 《直観》なのですが ★ 直観依存症は、人間である限り避けがたいと思います。 ☆ ということで ★ おたくが他者性を避ける、それはあります。 ☆ を少し外向き・前向きにしていただいて ★ 外向的な人は、他者性依存の傾向があります。 ☆ を少し内向きにもしてもらって 互いに歩み寄りをしていけば いいのでしょうか? たぶん 何らかの仕事を――つまり その時の一回限りの企画でも 日常のどこまでも続く仕事でも これらを―― 共におこなっていけば けっこう互いに分かり合っていくのではないですか? いまここでも こうやって話し合いの場についてはいますし。 たぶん まだわたしに主題つまり質問をどのように設定すればよいかが分かっていないのだと思います。もう少し開いています。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
難しいことは全く言っていません。 大澤氏は、他者のと量的な差異を明確に指摘していないと 言っています。そこに違いがあり、そこが欠落しています。 例えば、がらっと話を変えて、高校野球少年と イチローの違いは、同じベクトルを向いているのに その差は非常に大きくあくまでも他者であると言うことです。 フィギュア好きの高校生とボーメの差でしょうか。 質的な差のみが他者であるとする思考そのものが、 オタクをその理解から遠ざけています。 まずは、以上が前段で単純な話です。 次は、ベクトルの微妙なズレによるうねりですね。 これがあって、初めて、洗練されていくのではないでしょうか。 文章にしろ、形状にしろ、色彩にしても、 理解されている者に晒されて、批判され、褒められて、 それを楽しみつつ完成だと思う方向に近づいてゆくものでしょう。 そして、他の分野とのコラボです。 全く違うベクトルなのに共鳴して、きれいなハーモニーが 感じられるということでしょうか。 アニメは、非常に多くの分野を含んで調和が生まれてますね。 ストーリー、アニソン、作画、声優などなど、 それぞれが独立して学問としても成立する体系があって、 すでにいわゆる「オタク」からは離脱している感がありますけどね。 ま、分野にもよりますが・・・。 話を元に戻しますけど、オタクのオタクたる所以は、 個室の中で一人「こと」に没入していることであって、 その「こと」以外は、もともと無いのですよ。 だからこそ、質の差=ベクトルの角度を云々しても 話にならない訳で、対象は、量の差、言い換えると、 その「こと」自身の質の差と思いますね。 あと、オタクと非オタクを考えるとき、人と「こと」は分ける必要が あると感じますがどうでしょうか。 知り合いにロリコンでフィギュアに没頭するキャンプ好きの空手家も おりますからね。彼は、オタクかどうか・・・見る角度によりますね。
補足
bananasand さん ご回答をありがとうございます。 ★ 大澤氏は、他者の〔* 考え方などの質的な差異〕と量的な差異を明確に指摘していないと / 言っています。そこに違いがあり、そこが欠落しています。 ☆ これでよろしいでしょうか? しかも ○ 量的な差異が それ自体において 質的な もしくは 段階や次元を異にするという差異にまで達することがある。 ☆ というところでしょうか? すなわち ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 高校野球少年と / イチローの違いは、同じベクトルを向いているのに / その差は非常に大きくあくまでも他者であると言うことです。 フィギュア好きの高校生とボーメの差でしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 個人的ないとなみが 個人の範囲にとどまる場合と それに留まることなく――同じ種類のいとなみでありつつ―― 社会の知るところとなり 公共的な役にも立つ場合と つまりは前者から後者への変身がありうる。というところでしょうか? だから ★ 質的な差のみが他者であるとする思考そのものが、 / オタクをその理解から遠ざけています。 ☆ と。 つまりはさらに ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ オタクのオタクたる所以は、 個室の中で一人「こと」に没入していることであって、 その「こと」以外は、もともと無いのですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このいとなみの一本でありつつ その量が――同じ種類の内で――質的に洗練され次元の高いものになりうると解していいでしょうか? ★ ベクトルの微妙なズレによるうねりですね。 / これがあって、初めて、洗練されていくのではないでしょうか。 ☆ そしてその例としては ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 文章が 公開されて 批判・反批判を経て 練られていく。 (2) 他の分野とのコラボ――アニメは、非常に多くの分野を含んで調和が生まれてますね。 ――→ すでにいわゆる「オタク」からは離脱している感がありますけどね。 / ま、分野にもよりますが・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは ○ No.7 amazo007 さん:《コミケに象徴されるようにまさに文化創造への一歩前進という意味》も捉えよ。 ☆ と軌を一にすると見てよいでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あと、オタクと非オタクを考えるとき、人と「こと」は分ける必要があると感じますがどうでしょうか。 知り合いにロリコンでフィギュアに没頭するキャンプ好きの空手家もおりますからね。彼は、オタクかどうか・・・見る角度によりますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりは 《趣味》の問題と《オタクの「こと」》の問題とは違うと。同じ内容であっても 単なる趣味の問題になりうると。 ひとつに ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 他者における差異性と言うが 類似性をもった他者との間で仲間を組む組まないにかかわらず オタクのいとなむ《こと》は そのいそしみ具合いで 量の問題が洗練されて質の次元に変身し そこではすでに 何のことはない 社会のいとなみに入っていくのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういう視点でしょうか? ○ 未来がある。 ☆ ということですね。 前回 汲み損ねました。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
秋葉原に入ると溶け込んでしまってどちらが秋葉原かわからなくなる 私からみると、大澤氏の言っていることは、ちょっと的を外してますね。 この差異性には、質的差異と量的差異があって、ベクトルの向きと大きさと言うか、 つまり、ここにオタクが回避している他者と求める他者の違いがあるんですよ。 ベクトルの向きの同一性を共有し、その大きさを褒め、褒められて 楽しんでいるに過ぎません。 単純で明快だと思います。 あとは、ベクトルの角度の少しのぶれで発生するうねりや、 音楽-アート間の共鳴なども楽しめますが質的差異を不快に感じ 拒絶していると言うことです。
お礼
☆ ただ――ただ です ただ――これまでのご投稿にもあったように このような二つの別のベクトルにしても やはり程度問題であって 一般のわたしたちにも ないとは言えないように思われます。 ですから ここでは 二つの段階の問いがあるわけですが ひとつは いかにして 犯行にまでは到らないようにするかです。これは たぶん 犯罪心理など別様の考察を要求するのではないかと思います。 もうひとつは これら二つのベクトルを 日常生活の段階と領域において 言わばくすぶっている状態にあっても これをよき方向へ開きみちびいていく。開いていくには どうすればよいか。ではないでしょうか? つまり 一般の人びとにも 多少は この《オタク化》の要素があるとするなら 同じ問題として取り組むことが出来るでしょうし その必要が 大いにあることになります。 こういった方向を目指しましょうか? どうでしょう? ただしすでに 提案をもらってもいます。 ○ No.1 tantan0330 さん:鉄道マニアは むしろ積極的な印象が持たれるようだ。 ○ No.2 kanota さん:趣味は趣味として捉えればよい。 ○ No.3 pkuobe99 さん:少しの時間の猶予を与えたまえ。 ○ No.4 andrear さん:誰にも《オタク化》の要素はあるかも知れぬ。ふつうに《逃げない人間》が世の中には いるものであるから その率先によって 《他者性ないし差異性》を受け容れる方向を打ち出していくべきだし これを実践していくことが望ましい。 ○ No.5 mmky さん:差異性を 考え方として差異と趣味嗜好としてのそれとに分けて扱え。(= No.8 bananasand さん) ○ No.6 amazo007 さん:オタクと非オタクとの間で 程度問題だという見方も重要 ○ No.7 amazo007 さん:《コミケに象徴されるようにまさに文化創造への一歩前進という意味》も捉えよ。 ○ No.8 bananasand さん:他者において類似性を捉え求めるその《ベクトル》を ベクトルとしてまづ捉えよ。その奥に・底に 差異性をさらに見つめるようにしたまえ。 ○ 番外 eyasi2012 さん:《間を大事にせよ》(【Q:日本人は 死んだのでしょうか】) かなり心強いようにも思いますが さて どう再出発すればよいでしょう? 何か突破口のようなものがありましょうか?
補足
bananasand さん ご回答をありがとうございます。 なんか今回は むつかしいですね。 ★ 秋葉原に入ると溶け込んでしまってどちらが秋葉原かわからなくなる / 私からみると、 ☆ そう言えば 大昔 わたしも その駅のほうです その駅で乗り換えに苦労したことを思い出しました。でも おっしゃっているのは その街のほうでしょうね。その ★ 私からみると、大澤氏の言っていることは、ちょっと的を外してますね。 その中身は ★ 単純で明快だと思います。 ☆ つまり ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この差異性には、質的差異と量的差異があって、ベクトルの向きと大きさと言うか、 つまり、ここにオタクが回避している他者と求める他者の違いがあるんですよ。 ベクトルの向きの同一性を共有し、その大きさを褒め、褒められて 楽しんでいるに過ぎません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さて まづ ★ ここにオタクが回避している他者と求める他者の違いがある ☆ ことは 大澤も 次の意味で言っていますね。 ▲ 差異を感じる人々を回避して 類似性を感じる人々を求める。 ☆ このことは たぶん はっきりしているのでしょう。その上で ★ 質的差異と量的差異があって、 ☆ ということは mmky さん(No.5)がおっしゃるように ■ 考え方としての差異性と類似性 および 趣味としての差異性と類似性 ☆ といったところでしょうか? すなわち ★ ベクトルの向きの同一性を共有し、その大きさを褒め、褒められて / 楽しんでいるに過ぎません。 ☆ ということは ○ 趣味・傾向としての類似性において 他者を求め そこで仲間をつくっている段階だ。 ☆ となるでしょうか? ううーん。いくらか これまでの論調からすれば 後退した感じですね。そのための視点が控えているのでしょうか? ううーん。どうも今回としては 言わばそのご指摘にとどまっているという感じですね。つまり ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あとは、ベクトルの角度の少しのぶれで発生するうねりや、 音楽-アート間の共鳴なども楽しめますが質的差異を不快に感じ / 拒絶していると言うことです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり ★ ベクトルの角度の少しのぶれで発生するうねりや、 / 音楽-アート間の共鳴なども楽しめますが ☆ の部分を 積極的に 社会への志向性として捉えることができるのではないかと見ようとする一つの基調が あったのですが その点は どうでしょう? たぶん 程度問題ではあるのでしょうが どうですかね。 それにしても bananasand さんからすれば ★ 〔* 他者における考え方としての〕質的差異を不快に感じ / 拒絶していると言うことです。 ☆ という側面が 強い。目を そこから背むけるわけには行かない。そういう事例は 重かつ大だ。というご見解でしょうか。そうなんでしょうね。 そう言えば 大澤も 案外なのかどうか その傾向があるように思います。というのは やはりどうしても すでに犯行にまで到ったという事例と問題とがあることを 重視しているようですから。 その点については わたしは ここでは 触れることを避けていたのですが ことの実態を把握するには 必要であるかも知れません。そうだとすれば その議論の一端を紹介することにします。 ▲ (大澤:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~ 身体の直接性からの撤退と 身体の直接性への回帰とは いかにして共存するのだろうか? さらに振り返ってみると オタクには ごく初期の段階から このような互いに背馳しあう二つのベクトルが共存していた。オタク的な虚構の最も中心的なジャンルが ポルノグラフィ――しばしば《記号化された身体》へのロリコン的な欲望――であることを考えたらどうだろうか。 ・・・ いかにして身体からの逃走と身体への回帰が 同一線分上に並ぶことができるのか? 問題を解く鍵は 身体の問題は他者性の問題でもある ということである。・・・(中略――ここで 《M》と呼ばれるロリコン系の犯行者についての分析がなされている――)・・・ 身体こそは 対他関係の原点である。このことを考慮に入れることが 身体をめぐる逆説を解く重要な手がかりである。 (p.118) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
敏速なご返事をいただきありがとうございます。 大澤氏の著書を読まない中であまり深く貴質問に関わることもできないとは思いますが、NO4 様の前向きなご回答に比べて、私のものはちょっとそっけなさ過ぎる気もしましたし、そんなことも貴補足にお答えしようと思った理由です。 「電車男」は直接読んでいませんが、コミケ(小説にはなかったそうですが)のことも含めてオタクの社会復帰のようなテーマがあるのでしょうね。コミケというのは、彼らが創作物を開けた場に公開するということではまさにオタクの認知化への彼らの前向き行動の一歩なのですね。サブカルを彼らの身内だけで楽しむということに関しては私はさほどの価値は認めてはいませんが、その過程でサブカルなりに洗練を極めて良質な日本文化のひとつになっていく可能性はおおいにあるのだろうと思います。オタクが仲間で群れるという傾向は(具体的にいって自閉症患者の自立と社会復帰へのひとつの治療法ということ以外には)コミケに象徴されるようにまさに文化創造への一歩前進という意味で、社会全般に良い影響を与えるというようなことでは価値のあることだろうかと思うのですが、これもちょっと消極的に過ぎるでしょうか。
お礼
amazo007 さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 まづ 大澤じしんの考えというのは 別にしておいてもらって構わないと思います。ここに引いた文章だけで考えたいただいて構わないでしょう。いわば出汁にするのですが そういう論じ方もあろうかと考えます。一つの窓が開いていて そこを問題にするというだけで いいのだと思うのです。主眼は オタクの妥当な認識にまづあります。 ★ コミケ(小説にはなかったそうですが) ☆ あぁ そうですか。小説のほうは 知らないのです。他にもテレビだか舞台だかがあったようですね。 そう言えば このコミケは分かったのですが かれらの ▲ 同人誌 ☆ が どういうものであるかは まだ知りません。内容ですね。でも ★ コミケというのは、彼らが創作物を開けた場に公開するということではまさにオタクの認知化への彼らの前向き行動の一歩なのですね。 ☆ ということなのですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ サブカルを彼らの身内だけで楽しむということに関しては私はさほどの価値は認めてはいませんが、その過程でサブカルなりに洗練を極めて良質な日本文化のひとつになっていく可能性はおおいにあるのだろうと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とさらに進んで 好意的に前向きに捉えることも ありなのですね。それとして そのまま うなづけます。 そう言えば――この言葉ばかりですが―― 電車男は(その伊藤敦司+伊東美咲によるテレビ版ですが) 見た限りでは けっこう文学作品としておもしろいと思いましたよ。つまり 《信頼関係》が 主題であると受け取ったことを 少しづつ 思い出して来ました。ただ 女性――エルメス――のほうは どうも仏ごころが有り余っていると言いますか 少々無理をしているのではないかとは 思いました。でも 実話なんですかね。ただし 脚色があるのですかね。 社会の側が 声をかけていくのも いいのでしょうね。 * このあと bananasand さんが何やらむつかしいことを投稿してきていますよ。
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補足
bananasand さん 熟考一番 やってくれましたね。ご回答をありがとうございます。 たぶん――わたしも 『不可能性の時代』の全体を読んだのですが―― 大澤は それが悪い良いを言う前になのですが やはり評論家か学者であると思います。どういうことかと言えば どうも結論に 《愛》を持って来ている。現実の現実を 愛に見ようとしている。 その実践としては いわゆる共同体を復活させるところの民主主義であるようですが この《愛》を 同じ相手に対する《愛と憎しみ》との共存として理論づけたかのように 結んでいると思います。 これは 理論であり 研究者の立ち場に立った自己表現であると考えます。 民主主義のほうは 実践であり実際の議論ですが 愛のほうは 一筋縄では明確にならないと考えます。一方でその理論としては この愛が 究極の現実だと捉えていて 他方で実践としては 感性としても知恵や理性としても愛そして憎悪などは 果たして どこへ向かうのか決めかねるでしょうし 分からないままであるように思われるのです。 それよりは 《こと》に当たる 《こと》に没入して実践を進めるほうが たしかに 現実的であると考えます。 今回のご回答は ほかの皆さんには かなり不案内な内容であるかと思います。わたしの応答のほうも さして具体的な説明になったかどうか おぼつかないです。 もう少し考えて応答するなら。 ★ 「現実への逃避と極端な虚構化」は「こと」への深い没入の副産物 / にしか思えませんけどね。 ☆ これはですね。大澤の場合は たしかに 具体的な事件を取り上げて実際に即して思索を展開しているのですが このように ★ 「現実への逃避と極端な虚構化」 ☆ といったような二つのベクトルを拾い上げて来て そこから今度は 純粋理論としてのように結論をみちびこうとしている。かに思われます。仮想空間に没入していく方向と そうではなく 身体に直接触れるような現実を求める方向と これらは たしかに両極だというので ゆくゆくは 《愛》について その要素として《愛情と憎悪》との共存を見るかたちに行きつく。 bananasand さんは 現実のプレイヤーであれば 《こと》に没入しつつ そこからすでに これら両方向のベクトルは 副産物として 出てくるというに過ぎない。と見ておられる。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・もはや「現実」を探しに現場に直行するか「こと」へ没入するしかないでしょう。 現場が進行形ならいいのですが・・・終わった花火大会はどうすることも出来ませんから新しい花火作りへ没入するしかないと思いますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《オタク》について たしかに これら二つのベクトルを大澤は捉えていました。ただ――初めに 個室での独りによるものであっても《こと》に没入するそのような実践を置くというよりも―― 一方で差異性(他者性)を避ける方向と 他方で類似性を持った仲間どうしで集まる方向というふうに分析した内容を前提にする片向きがある。 その前提に立ってしまえば もはや その仲間うちの――コミケのような集まりとしての――中途半端な《普遍性》しか見られなくなる。言いかえると 結論に出した《愛》が やはり部分的な特殊な領域に限られてくるのだと。 こう言って大澤は どこか オタクから出てくる創造性のベクトルを見逃している部分があるのではないか。 練られていないのを承知なのですが いまはこのように。