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幕末の薩長について

激動の幕末日本は薩長を中心に動いていましたが、薩長同盟若しくは薩長連合軍はなぜ毛利・島津連合軍と呼ばないのでしょうか?また藩主の毛利敬親が有能な若手を途用し表立って藩政に口を出さなかった理由は?

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  • jkpawapuro
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回答No.4

それが毛利家の御家柄です。 会議に参列した藩士が自由に意見を言い合い、参加したものの多数決を取り、藩主はそれを採決するだけ、それが代々続いた毛利家の統治システムなんです。 もともと毛利家は元就の時代から周辺の諸侯を束ねることで大きくなりその結果家中政治を合議制で進めていた大名です。それが江戸時代になり文章化・システム化が進み、近代近くまで洗練され残っていたわけです。 信長・秀吉・家康みたいな武力で周辺の大名を制圧し強烈なリーダーシップをもちながら大きくなった大名とはスタート地点から毛色が違うと言えます。

その他の回答 (4)

  • ithi
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回答No.5

sindengen9 さん、こんばんわ。 江戸時代になると、大名家は藩という一種の法人になってしまいます。だから、殿様のトップダウンで意思決定することは珍しくなります。また、毛利家は安芸の国人領主から戦国大名になったので、もともと重臣たちの中には同じ国人層の出身がいて、彼らの意見を聞いてから決める家風でした。毛利敬親の時代もその名残が残っていたのでしょう。薩長同盟ももともと形式上は殿様同士の取り決めでも、実際実務レベルは藩の重臣やその下クラスの人々が取り決めていました。

  • koiprin
  • ベストアンサー率23% (72/306)
回答No.3

毛利氏、島津氏は、薩摩藩、長州藩だけではないからです。 毛利という大名は、ほかに佐伯藩(毛利高謙)、長門清末藩(毛利元純)、長門長府藩(毛利元敏)、周防徳山藩(毛利元蕃)などがいます。島津は、他に日向差佐土原藩がありました。 分家のような存在ですが、十代前後続いた別の藩として存在しています。 藩政に口を出さないのは、旧態依然としたお殿様の特徴です。政治に口を出す大名のほうが珍しい。 若手を登用したのではなく、幕末の雰囲気で騒いでた若手に押されただけかと思います。藩主となってから政策を任せていた村田清風は、若手ではなかったですから。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

歴史的名辞において、職徳同盟くらいじゃないの?大名家の名前を使っているのは。 清洲同盟とか尾三同盟とかいう言い方もあるし。 実体的には、薩摩藩の西郷、小松と長州藩の木戸孝允が主導しているわけだし。 毛利敬親が有能な若手を途用し表立って藩政に口を出さなかった理由は ↓ ずっとやったことがなかったから。 ※ まえにテレビで磯田道史さんが言っていたのだが「残された文章を見るだけで、財政状態が全部わかるのは長州藩だけだ」とのこと、つまり文章主義による官僚組織が確立していたのは、江戸時代では長州藩だけなんだそうです。 そういった官僚主義が貫徹していたので、殿様は君臨すれども統治せずというのがシステム化されていたそうだ。

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.1

同盟は国(組織)と国(組織)とが結ぶモノで、人と人とが結ぶモノではない

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