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良かれと思ってしたことが裏目に出ても自分の非を認めないのでしょうか
日本はかつて日独伊三国軍事同盟を結びましたが、同盟の際に中心となった松岡洋右と大島浩は戦後それぞれ「一生の不覚」、「国家をミスリードさせた」と自分の非を認めております。 それに対して、他の歴史上の人たちはどうなのでしょうか? 例えば、関が原の戦いでは毛利家のために毛利・安国寺軍の進路を阻んだ吉川広家は結果的に毛利家を転落させましたし、福島正則のように豊臣家のためを思って徳川方に味方したのに、結果的に豊臣家を滅亡に導いてしまいましたが、結果的に裏目となった自分たちの行いについては「自分の判断ミスだった」と嘆いたりしたのでしょうか?
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「松岡洋右と大島浩は戦後それぞれ「一生の不覚」、「国家をミスリードさせた」と自分の非を認めております」 「口先の反省だ」と批判することも出来るでしょうが、私は「反省を公にしたことは評価するべき」と考えます。 何故かと言うと、自分の非により国家に重大な損害を与えて、 「何の反省もせず天下りを楽しんでいる元官僚」←例を挙げればきりがありません。そのうち2名がテロに遭いましたが。 「積極的に自己弁護に励む者」 牟田口廉也 陸軍中将 この、帝国陸軍最低の男については、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4932589.html のNo.4で私が回答しておりますが、この鉄面皮ぶりには如何なる弁護も不可能です。 戦後、20年間生きながらえ、 死ぬまで、 「私は間違っていなかった。現にこのイギリスの戦史家は『ムタグチの作戦は悪くなかった』と言っている」 と、その英文文献のコピーを持ち歩いていたという醜悪さです。 さて、「吉川広家」と「福島正則他、関ヶ原で東軍についた太閤恩顧の将」ですが、 (1) 吉川広家 彼の場合「徳川家康を甘く見ていた」と総括できると思われます。 広家自身は、関ヶ原の前に家康陣営と内通し、関ヶ原で毛利軍(2万5千人程度)を参戦させず、毛利輝元を大坂城から退去させて国許へ返せば、毛利家の領土を保てると考えていたようです。 これについて「家康自身の誓紙を得ていなかったこと」を指摘する向きもありますが、私は 「家康自身が広家に『毛利家の西軍加担については不問に付す』という誓紙を与えていたとしても、適当な理由をつけてその誓紙を反故にしただろう」 と考えます。 毛利家の兵力は120万石、最大動員兵力は約5万人ですが、東西に長い領地を家康率いる東軍と戦って守りきることは不可能でしょう。 毛利家は、いったん西軍の主将となり、輝元が大坂城に入城した以上は、もはや「西軍の作戦目的を達成して家康を倒し、西軍の主将として戦勝の果実を得る」しかなかったと思われます。 毛利家は、恐らく4万人程度の兵力を上方に連れて来て、輝元の旗本1万人程度が大坂城に残り、毛利秀元が率いる部隊2万5千程度が関ヶ原に出陣したわけですが、関ヶ原に出陣した諸部隊の中で、実質的に最大戦力の毛利隊が真面目に戦っていれば東軍に勝ち目はありませんでした。 ※ 家康が直率する部隊は約3万人いたようですが、「家康の旗本」であり、積極的に攻撃に出る能力はなかったとされています。 「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」講談社学術文庫 笠谷和比古/〔著〕 http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31996747 をお読み下さい。 広家は、輝元が西軍参加を決める前からの「親家康派」であり、毛利家が西軍に参加するのに激しく抵抗したようですが、主君である輝元が「西軍の主将となる」と決断して実際に行動を起こした以上、それまでの行きがかりは捨てて * 大東亜戦争の山本五十六のように、開戦前の非戦の主張は捨てて戦いに専念する。関ヶ原で、毛利隊の先鋒として、主将の毛利秀元(既に歴戦の将ではあるが、この時39歳の広家より18歳も年少)の補佐に徹する。 * 輝元に「それがしは毛利家の領地の守りを固めます」と願い出、吉川家の兵(14万石の知行を輝元から受けていたようですので、数千人でしょうか)を率いて下関辺りの城に入り、九州の東軍に対する防備を固める。四国の大名、中国地方の毛利領国以東の大名は概ね西軍に参加したと思いますので、毛利領国の守りはこれだけで十分です。輝元は、残る全軍を率いて大坂に向かうことができました。 のいずれかの道をとるのがベストだったと考えます。 また、広家は毛利家の中で孤立しており、あまり人望がなかったような節もあります。毛利家が防長二州におしこめられ、広家が「毛利家没落の責任者」と毛利家の上下から白眼視された時に広家を弁護する向きがほとんどなく、吉川家に対する冷遇が幕末まで続いたというのは 「策士として二流、三流の癖に余計なことをやりおって」 という見方が毛利家の中で定着していた、ということと思われます。 (2)福島正則他の、東軍についた太閤恩顧の将 これも前記の「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」で論証されていることですが、 「関ヶ原の合戦の後で豊臣家は摂津・河内・和泉の65万石の大名に転落したと従来言われていたが、少なくとも西国においては、『太閤蔵入地』に対して豊臣家の支配が及んでいたこと」 「関ヶ原の合戦から大坂の陣の直接の原因となる『方広寺鐘銘事件』までは14年経っている。この期間は、本能寺の変(1582年)から秀吉の死(1598年)までの16年間に匹敵し、家康の年齢(1600年に57歳)を考えれば、『家康には豊臣家を主筋として重んじる気持ちがあり、豊臣家を滅ぼすつもりはなかった』と推定するに十分な材料である」 「徳川将軍家の支配が、豊臣家に及んでいないと判断すべき多くの材料がある」 「家康が、秀吉と生前に約束した『実の孫娘の千姫を、秀頼に嫁がせる』を千姫が7歳であった1603年(家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開いたのと同年)に履行している。千姫は家康が豊臣家に提供した人質といえる」 というように、家康は征夷大将軍に就任して幕府を開き、1605年に将軍位を秀忠に譲ることで「日本国の支配は徳川家が行う」意志を示したものの、秀頼に対しては終始融和的な姿勢を取っていたと考えられます。これは、正則他の太閤恩顧の将にとっても「想定内のこと」だったのではないでしょうか。 その後、1614年になって「どう見ても言いがかり」である方広寺鐘銘事件を起こし、豊臣家を天下の兵で攻撃することに転換したのかについては、非常に大きな変化が家康及び秀忠の心中であったということでなかなか説明が出来ません。笠谷教授も「合理的な説明は今の所できない」としています。 以下は私見ですが、 「方広寺鐘銘事件に際して、既に21歳になっていた秀頼が 『江戸(駿府)に行き、お会いしてご説明します。よろしければ江戸(駿府)に屋敷を構えてしばらく滞在したい』 または 『徳川家とことを構える意志がない証に、江戸(駿府)に屋敷を構え、母(淀殿)を住まわせます』 などと、譲歩の意志を明瞭に見せていれば、豊臣家はそのままで住んだのではないか?」 と考えます。 実際は、大坂城内での決裁権限は淀殿が最後まで把握しており、秀頼が自ら判断を下すこと、豊臣家の家臣団が秀頼の意志に従うことは最後までなかったようです。 そして、淀殿の人物像は、今ではすっかり忘れられた存在になっている元外務大臣の田中真紀子衆議院議員と良く似ているように思います。簡単に言うと「なるべく関わりたくない」女性です。 家康が 「秀頼は憎くはないが、淀殿はどうしようもない。このままワシが死んでしまい、秀頼・淀殿が大坂城に巨万の富を蓄えて住んでいる状態となれば、秀忠の手に余るだろう。止むを得ない、秀頼を大坂城から引きずり出さねばならない」 と決断するのは、徳川家の利益、日本国の安定を考えれば当然であった、とも言えるでしょう。 実際、家康は大坂の陣でいったん和睦して兵を引いています。 この時 「既に日本国を支配する権利は徳川将軍家に完全に移り、豊臣家に味方する大名は一人もいない」 ことが判明し、とりあえず徳川将軍家との間に平和が戻った段階で、秀頼は決断するべきでした。 1) 淀殿を江戸屋敷に住まわせる。 2) 徳川家と協議し、大坂城を出て適当な地に移る。大坂冬の陣の終結後、豊臣家から 「大坂城を退去したいので適当な場所をお示し頂きたい」 と江戸幕府に提案があれば、幕府は二つ返事で応じたでしょう。 例えばですが、岐阜城などは秀頼の居城として好適だったのではないでしょうか。また、京都に移り、完全な「公卿」として生きていく道もありました。 3) 大坂夏の陣の時点で、大坂城には大量の金銀財宝が残っていたようですが、これは豊臣家の財産としてそのまま秀頼が維持します。思い切って 「それがしが父から相続した金銀ですが、これは本来は天下人のもの。既に天下は徳川将軍家に移っておりますので、お譲りします」 とする選択肢もあったかもしれません。金銀財宝の全部ではなく、一部でも良いのです。 「秀頼が徳川家とことを構える意志がない」 何よりの証となったでしょう。 こういうことが全くなく、豊臣家は徳川家に一度も譲歩することなく全面対決、玉砕へ進んで行ったのですから、正則も「はあ・・・」と感じるのみだったのではないでしょうか。
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松岡洋右と大島浩はハッキリと認めていますね。 負け方が見事だったし(徹底的に負けたということ)、戦後のあの時期ですと、それくらいのことは言わざるを得ない状況だったと思います。 吉川広家や福島正則は、結果的に主家を滅亡させたわけですが、「自分の判断ミスだった」と内心思ったことはあったでしょう。 人間ですから、そして側近に嘆いたりすることがあったかもしれません。 しかし、そんなとき、広家の側近は「いや、あのとき徳川に敵対して負けていたら、元も子もなくなっています。あれが当時考えられる最善の選択だったと思います。」 正則の側近は「石田に与することは考えられません。殿は秀頼様にとって、最善の方策を考えられました。結果的にはおふくろ様に聞き入れられませんでした。高台院様のお考えも殿と同じです。殿は最善のことをなされたました。」 ・・・なんて慰めたと思います。 そして松岡、大島両閣下、吉川お殿様は割合とケロリとしてたのではないでしょうか(福島お殿様は悩みが深かったような気がします)。 まあ、偉い奴はくよくよしません。 今の政治家や高級官僚と同じです。 何兆円という税金をドブすてるような失敗をしても、自分の非を認めたりしません。 そうでないとやってゆけません。
お礼
回答ありがとうございます。 >「自分の判断ミスだった」と内心思ったことはあったでしょう。 人間ですから、そして側近に嘆いたりすることがあったかもしれません。 そうですね、後悔したりするというのは人間であるからこそですしね、明確な証拠は残っていないのであれば推測するしかありませんが、胸中では悩んでいたかもしれませんし、あるいはけろりとしていたかもしれませんね。
豊臣家には恩義は感じるけれども、淀殿、石田光成コンビには虫酸が走ったし、彼らがそのまま天下を治められるとも考えられず、主である毛利輝元が西軍に参加するとした以上、毛利家が存続する道は自分が家康について、毛利家が残るように自分を捨てたのかもしれません。 毛利家がこれ以上大きくなることは、元就の遺言からみても、身の丈を超えることと考えていたので、一応毛利家が残ることになった結果から見れば、判断ミスをあまり悔やまなかったのではないでしょうか。 上杉昌勝&直江兼継もある意味で判断ミスをしたと思いますが、悔いは少なかったのではないでしょうか。 福島正則は悔いているとすれば、幕府を甘とく見すぎて、認可を得ないで城を修復したことでしょう。豊臣家のことはもう忘れていたと思います。 日本国家を敗北に導いたことからみれば、松岡や大島は重罪です。
お礼
回答ありがとうございます。 >元就の遺言からみても、身の丈を超えることと考えていたので まあ確かに吉川広家の言葉を真に受けて毛利秀元の意見を退けて大坂城を退去するような人物では天下は任せられないと考えたかもしれませんね。 >上杉昌勝&直江兼継もある意味で判断ミスをしたと思いますが、悔いは少なかったのではないでしょうか。 私も同意権です、減封されたとはいえ義のために徳川家康にたてついたという行為は胸が打たれます。
- caesar-x
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別に非を認めたからってエライわけでもなんでもなく、 松岡、大島らは、特に口だけの反省でしょ。 むしろ本当に非を認めたわけじゃない。 反省の弁の何倍も自己弁護もしてるからね。 しかし、ま、本当の問題はこれらの小物が国政を左右するような 決定に動かせたという事実のほうで、 日本の国家体制、リーダーシップの欠如が散々足る結果に 導いたといえるので、彼らだけに責任を負わせることも また非論理的だといえます。個人の問題とはいえない。 一方で、吉川広家は、戦後の行賞で、 毛利家のために尽力していて、 自分の所領を減らしてまで、毛利宗家を守ってます。 毛利輝元と毛利家そのものの力量からして、 関が原で家康に刃向かって結果的にいい目がでた可能性は低く、 吉川の”おかげ”で正面対決を回避できたわけでで 毛利家は存続して幕末までいけたといっていいですから 彼の判断は総合的に間違っていなかったことは 歴史が証明したといえるでしょう。 長期的視点が大事。 福島正則にいたっては、大阪の陣で豊臣家のために戦いたかったわけですが 一族と家臣に反対されて動けなかった。 豊臣子飼いの大名はその後でほとんどが改易されることになるので 彼らの場合はやっぱり後悔はしたでしょう。しかし器が違う。 豊臣家と徳川家の抗争は、彼らの能力を超えた次元の問題になったので できることはほとんどなかった言っていいです。
お礼
回答ありがとうございます。 >しかし器が違う。 豊臣家と徳川家の抗争は、彼らの能力を超えた次元の問題になったので できることはほとんどなかった言っていいです。 おっしゃるとおり徳川を押さえ込むのは無理だったと思います、 しかし、 >福島正則にいたっては、大阪の陣で豊臣家のために戦いたかったわけですが 一族と家臣に反対されて動けなかった。 豊臣子飼いの大名はその後でほとんどが改易されることになるので 彼らの場合はやっぱり後悔はしたでしょう。 というような、救うことは出来なくても 「歯がゆい」 という思いをしていたかどうかを知りたくて質問させていただきました。
お礼
回答ありがとうございます。 >「口先の反省だ」と批判することも出来るでしょうが、私は「反省を公にしたことは評価するべき」と考えます。 私も同意権です。 それにしても牟田口廉也ですか、今まで知りませんでしたが、ここまでひどい軍人がいたとはあきれました。