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幕末の会津藩の真実とは?
- 幕末の会津藩は政策を誤り、自ら栄光を汚した
- 会津藩は広い視野を持たず、領民に対して差別的な施策を行っていた
- 会津戦争直後には領民から同情されず、政府軍を歓迎した
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幕末の各藩の動きは大変複雑です、私の個人的主観を述べさせて もらいます (幕末の最後の段階~) 京都守護職をした松平容保(以降容保)は天下の情勢を充分に察知する 立場にあり、なおかつ慶喜が大政奉還をして新政府ができているのに まだ無駄な抵抗で若者を殺した責任は重大である、幕府が江戸城開場 をして後は新政府に協力することも「義」をはたすことになると 思われます (薩長士のような広い~) 藩士は充分な情報収集、分析ができないものが多く、容保についていく しかなかったようですので、若者を死なせ自分は白旗をふり生き延びた容保の責任は重大です (長年領民に対して~) もともと会津藩は昔からの蒲生一派とあとからきた容保一派の対立 があり一枚岩でなく、特に農民は蒲生派が多く会津戦争ご農民一揆がおこり長年の不満が噴出した、鶴ヶ城をまくらに藩民がイッチ団結し 討ち死にという話も後世作られたものとおもわれます (遺体処理) 遺体よりものを盗むのを防ぐため、新政府は会津兵 政府兵に触れないよう平等に命令をだした (白虎隊について) なにもわからない若者が盲目的に参加したもので、後世に美談として 伝わったが彼らを死なせない方法はいくつもあった 結論として戦争に善 悪は無く容保がうまく立ち回っていれば会津戦争は起き無かったと思われますが、沈みゆく泥舟に最後まで残るという考えも当時の武士の中にはあった思いかもしれません 参考になれば幸いです (参考サイト) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E4%B8%96%E7%9B%B4%E3%81%97%E4%B8%80%E6%8F%86
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- sakutubaki
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参考までにですが… おなじみの戊辰戦争で新政府軍の敵になってしまった会津藩の藩主・松平容保は、戊辰戦争後に罪を免れてますね。 死んでしまった会津藩士らの遺体は政府が埋葬を禁じ、放置された遺体は悪戯されたりした上、内緒で埋葬しようとした人も捕まり… 伝染病の原因とされ、やっと埋葬といっても遺体をまとめて埋めただけみたいです。 容保さんは何を思っていたのでしょう。。。
<会津藩は最後の段階で政策を誤った> どこが誤ったのでしょう?幕府側としての京都の治安維持の役割です あえて政治色のない会津藩を幕府は選別したわけです 倒幕の動きに対してはそれを押さえ込むのは当たり前の職務です 会津藩はその初代藩主からの生粋の佐幕派で さらに容保は孝明天皇との信頼関係があり 充分に役割を果たしたとおもいますよ 会津の中枢部はバカじゃないでしょう 陰謀術策暗躍する京でどう政治色を廃して天皇擁護このただ一点に集中するかということに苦心したはずで 確かに配下に治安維持の実力行使を許してしまい その行動そのものも倒幕運動という逆手にとられてしまいましたけどね 不忠不義とはいったい何でしょうか? 誰に対して? どこから出てくるんでしょうか 現時点から過去への眺望は いたって簡単 そうカンタンに語るなといいたいですね <世界の現実と日本の未来が見えてなかった> 家康の(徳川幕府)見事な治世技術(完全な武装解除) での各藩の生きるべき道は平穏の選択しかなく300年も続いたわけですから 特別薩摩や長州がとびぬけていたわけでないでしょう 攘夷攘夷と それこそ世界知らずなこといっていたんですからね みんな同程度です しいていえば 幕府は一様世界の窓口ですから 能力はありました その証拠に維新に多くの幕臣を登用せざるおえなかったでしょう <領民から恨みを買っていて戦死者の遺体放置がたくさん見られた> 日本の歴史は飢饉の歴史でもあり 3,4年おきに発生していますから1揆ではなく戦国の世ならすぐ隣の国に略奪いったでしょう 江戸より東の藩なら似たり寄ったりです ましてや京守護となれば その経費の捻出の影響がでるのはあたりまえですが それが遺体放置にすべてつながったわけじゃなく 官軍との戦いは賊軍としてですから 戦いに協力するのも遺体のかたずけも 手が出せない状況もあったとかんがえられますよ 得か損か利の計算は人間である以上あたりまえですからいろんな側面でのことですよ 司馬さんがその小説に書いていますね 長州の会津に対するあそこまでの処置は歴史のウミといっています 薩摩は伝統的に戦いを始めるとき どこで戦いを収めるかを考えるとあります
補足
<会津藩は最後の段階で政策を誤った>というのは、朝廷や政府に反逆して会津戦争を起こしたことです。 不忠不義とは、朝廷や政府に対してです。(あえて書かなくとも、質問を見れば分かるでしょ) そりゃ庶民の私生活の端々まで厳しく制約したような恐怖政治を行い、川に橋を架けさせないような愚かな政策を採れば、温厚な日本人相手なら300年でも平和は続くでしょう。しかし、その恐怖の300年の結果として・・・。 政府は幕臣や佐幕藩出身者を多く登用しましたが、それとは比較にならないくらい薩長土肥らの出身者を登用しています。武士の人口の割合で見れば、幕臣や佐幕藩出身者の登用は必然であり、同時にそれらの登用は政府の温情でもあります。 明治維新が諸外国の革命とは一線を画すのは、旧政権側や敵対した側をも上手く取り込んだことです。これは新政権に参画させる旨みを与えるという温情を与えたことにより、恨みを軽減し、反乱を抑制する効果があります。実際、新政権に反逆したのは、時代の読めない一部の者たちだけでした。(内戦が大規模化、もしくは長引けば、欧米に侵略されるのは必然だったので)これは薩長土がいかに優れた政権者であったかの証拠です。 佐賀や薩摩はペリー来航前から近代化に努め、幕府の目をうかがいつつも日本を守るために、産業の振興、経済改革、兵制改革などを成し遂げていました。松代藩の佐久間象山にいたっては、欧州の最新銃よりも優れた銃を開発し、幕府にその設計図まで送っていたほどです。その頃幕府や佐幕藩はいったい何をしていたのでしょうか? 幕府や佐幕藩で、世界の現実や日本の将来を本当に見抜いていた人材はいましたか?勝海舟ぐらいですよね。だから勝は幕府を潰し日本の政体を替えることに賛同したのです。 薩長などでは、藩政府や藩士が、会津のように領民から激しい恨みを買っていたりはしていません。 司馬遼太郎って、たかが流行作家じゃないですか?歴史家ではないでしょ。 やれやれ!・・・。
幕末になると薩長は別として徳川幕府を始めとして、多くの藩が財政困難にあって、戦争に出るのはもちろん京都守護職など出費がかさむ役割はみんな敬遠したようです。もし、財政困難がおきれば農民一揆がおきて領地不十分で幕府から睨まれるからです。江戸幕府が財政余力があれば何もほかの藩に頼む必要はなかったし、自分でやればよかったのです。もう幕府の土台が腐っていたのです。 その意味で松平容保が京都守護職を引き受けたことは、財政困難を招く誘引になったのかもしれませんが、孝明天皇は容保をすごく信頼したのです。 会津藩は実は偉かったのです。 ただ、京都守護職で下部組織である新撰組が浪人の取り締まりに徹しきればよかったのに、佐幕に傾きすぎて人殺し集団に成り下がったために長州から「薩賊、会奸」で言われるように非常な恨みを買ってしまい、京都の仇を会津でうたれたのです。幕末の江戸を守備した庄内藩も戊辰戦争にむりやり持ち込まれ、仇をとられています。 明治になって地租改正を行い、富国強兵のための増税をして農民一揆を誘発していますので、新政府が農民に善政を敷いたわけではありません。新政府は日本の歩く道を、誤らなかったのです。
会津藩は保科正之のいったことを幕末に守ったといわれてます。それが、悪い形であった。保科正之じだいは江戸幕府で政治にかかわってます。でもそれから時代はずいぶん経ってます。 視野が狭いのは太平洋戦争でも日本政府はアメリカと戦争してます。日本ではガラパゴスといっていまでも携帯電話など特異だといわれます。まだ西国は外国を意識する傾向があると思います。 江戸幕府・東京(今は?)的なのかもしれません。
会津が京都守護職を引き受けるのも藩内では火中の栗を拾う危険が高いので反対する意見が少なくなかったのに、幕府から頼み倒されるように引き受けざるを得なかった事情は薩摩でも十分わかっていたのです。蛤の御門の変では協力して長州を京都から追い出したのでわかります。 その後、慶喜が大政奉還したのに未練がましく徳川家の政治力を残そうとしたが間違いのもとで、薩長土側は倒幕しなければあたらしい政治、独立国家日本が誕生しないとの考えの統一したようです。そのためには少なくとも反幕勢力の一部を軍事的に血祭りにあげる必要があったのだと思います。 江戸は篤姫の懇願もきいたのでしょうが、勝海舟がいて西郷を江戸無血開城へ向かわせます。会津に勝海舟のような人材がいれば多少ちがっていたのでしょうが、薩長土州武士の恨みはすごかったので仕方がなかったのだと思います。基本的に農民は埒外でしょう。 それまでの日本の戦いであれば藩主を切腹させて、部下を助けるのに会津では逆でした。藩主が助けられて士族は東北の辺地へ飛ばされてしまいました。その血祭りが終わって明治政府が成立すれば、優秀な人材は旧幕府側に多かったので、政府にと登用せざるをえなかったのでしょう。五稜郭まで戦った榎本武揚は明治政府で活躍したのもうなづかれます。 しかし、勝ったはずの薩摩が明治の武士階級の廃止から西南戦争をおこしてしまいます。西郷は尊皇攘夷でだまし、士農工商の階級廃止を隠して戦わせた薩摩武士への鎮魂として、ともに死んでいったのだと思っています。 封建制度から脱して国民主権の独立国日本をつくる大使命が果たされればよかったのです。藩の域をこえて全国民一致の富国強兵への路線転換できたことが大きく、農民は本来戦闘に関わらなくてよかったのに明治になって徴兵制度に組み込まれていったことを考えれば、農工商の負担は増加したと思います。 農民一揆かと結びつけるのはちょっと無理な解釈と思います。
- tanuki4u
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1 視野に関して 薩長からの説明は、勝者による「後出しジャンケン」 「政策を誤り」<主君である慶喜が腰砕けになったので、しょうがない。 孝明天皇がもっとも信用した武家は、容保。 また、世界が見えていたのは、幕臣です。 共和国のコンセプトを理解し、北海道で実施しかけたのは、榎本たち。 2 民衆と支配者 民衆が、政治の主体を意識したのは明示の半ばくらいから。 それまでは、民衆は統治される客体、お客さまでしたので、やな支配者には NO というだけ。それが会津であろうとどこだろうと一緒。 このへんは 先月出ました、日本の歴史 小学館刊 全集 日本の歴史 13 文明国をめざして このへんに詳しい。
お礼
会津藩は世の中の流れが読めずに、それに逆らったということですね。 利発な西国諸藩と固陋で愚鈍な東北諸藩ということですね。地理的特性なのか風土性なのか教養の違いなのか。 容保は、せっかく孝明天皇から御宸翰を賜るほど活躍したのに、増長したのでしょうか?見苦しいですね。 それに、領民から恨まれていたということは、為政者として失格ですね。 そういえば武士団ができて以降戦国時代ぐらいまでは、負けた場合、トップの者が家臣の助命と引き替えに自害するのは当たり前のことでしたね。それがいつからか逆になり、第一次・第二次長州征伐や戊辰戦争などでは、家臣(家老)が藩主を救うために罪を背負って自害するようになっています。なら、藩主って、権利だけあって責任は取らなくてもよい都合良い存在になります。そんな甘えた考えでは、本当の治世や忠義なんてできっこありませんよ。 官軍のある幹部が会津藩の降伏の使者に対して、「本当に降伏し謝罪する気があるのなら、容保の首を持ってくるのが筋だ」と言ったそうですが、まさにその通りですね。 やらなくてもよい戦争を無駄にやって、しかも天皇(官軍)に弓を引いて、家臣を大勢死なせ、17歳前後の白虎隊士もたくさん死んで、領民に迷惑をかけ、それで家老一人に切腹させて責任を取らせ、自分は天下りで日光東照宮の宮司におさまってのうのうと生き延びる、容保ってホント酷い大名だったのですね。 現在の会津市の人たちや会津ファンの人たちは、そういう真実の歴史を知っているのでしょうか?