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真田昌幸の秘策?実行されていたら…
紀州九度山で 昌幸が亡くなる直前 息子の信繁(幸村)に託した 豊臣勝利の秘策についてです 秀頼から兵を借り 青野ヶ原へ布陣 そこは何もないただの平原で何故真田はこんなとこに布陣したのか徳川は疑問に思い 物見などを出してこちらの様子を伺うはず(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があるので 真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないであろう) そうこうしているうちに一ヶ月は時間を稼げる 真田の小勢が徳川の大軍を一ヶ月も釘付けにしたとなれば 豊臣有利とみて寝返る武将も出てくる そうなると徳川方に猜疑心が生まれ 混乱が起きる そこを一気に攻め立てる という「青野ヶ原の策」です 歴史にもしもはありませんが仮にこの策が実行されていたら豊臣の勝利の可能性はあったでしょうか?
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- pri_tama
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>真田昌幸の秘策?実行されていたら… そもそも大阪の陣の頃は、徳川家康の天下普請により築かれた堅城が大阪城を囲うように築かれているのですが…。 どうやってこれらの城を落として青野ヶ原へ布陣するんですか? まして、西濃への通り道の彦根藩(東国へ到る三関の一つ不破関の西方を治める)は譜代大名筆頭の井伊氏の所領であり、その居城の彦根城は、西国大名が徳川に反旗を翻した際にその軍勢を押し留める事を目的に天下普請で築かれた城です。 行幸で彦根藩を抜けて美濃に入る事が出来ても、西濃(青野ヶ原を含む大垣藩)は徳川歴代の譜代家臣である石川氏の所領であり、その居城の大垣城は関ヶ原の合戦の際に家康がこの城に篭った西軍との決戦を避けたほどの堅城です。 (複雑に絡み合った河川と水壕で大垣は水の都と呼ばれ、大垣城は巨鹿城とも呼ばれた。) さらに、美濃国には家康の娘婿たる奥平信昌が立藩した加納藩が控えています。 しかも美濃の隣国には御三家筆頭となる尾張徳川家がおります…。 ちなみに、彦根藩を大幅に迂回する経路(南周り)を進撃しようとしても、伊勢(東国へ到る三関の一つ鈴鹿関)は家康の信任あつい藤堂家(外様大名でありながら譜代大名格であり、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂という慣例ができた。)が治めています。 越前(東国へ到る最後の三関の愛発関。北周り)は、家康の次男秀康が立藩した福井藩(67万石)がいますし…。 つまり、大阪の陣の頃には、東国へ到る経路は徳川によって完璧に抑えられていたのです。 (そもそも、豊臣勢が東進できると考えている人は、関ヶ原の合戦以降に徳川が何もせずに無為に時間を過ごしたと考えているのでしょうか?) 史実でも、関ヶ原の戦いでの西軍は予定では速やかに尾張以東に進撃する筈が、頑強な抵抗に逢いそれを果たせずにいます。 関ヶ原より絶望的に状況が悪化した大阪の陣の頃には、せいぜい隣国の大和郡山に侵攻して町に火を放つ位しか出来てていません…。 まして、秀頼が治める地の西隣には「播磨宰相」「西国将軍」と謳われ家康の娘婿である池田輝政の立藩した岡山藩があります。 (池田家の一族[輝政の次男以下や弟の所領]の合計石高は92万石をこえ、65万石の豊臣家より大藩です。) >(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があるので 真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないであろう) 上田の屈辱を晴らす一念に燃える徳川秀忠が暴走して、平地(そもそも敵地に乗り込む以上まともな策など取り様も無い)では兵力の差で一瞬で壊走する可能性の方が高いのですが…。 (史実でも秀忠は大暴走して家康の叱責を受けている。) そもそも、家康が関が原の合戦以降着々と構築してきた防御網に自ら進んで突っ込んでくれるなど、これほど楽な戦いは他に無いと思いますが。 (関ヶ原の戦いが数時間で終了した訳ですし…。) 前述している各藩が連携して周囲を囲み(そうなる様に大名を配置している)、大阪との連絡網を絶ち(要するに最良の展開で徳川の大軍釘付けにしたとしても、それが大阪方や親豊臣側大名に伝わる事は無い。)壊滅させられるのが関の山です。 大阪の陣で勝利できる可能性が有るとすれば、史実と同様に、家康・秀忠の首を取る事です。 自ら東進し戦端を切ったら、その肝心の家康や秀忠が戦場に辿り着いていない可能性すらあります。 (関ヶ原の様に、外様を先頭に立て後方をゆっくり進撃するかも知れない。) そもそも、大阪冬の陣開戦から豊臣が滅亡するまで何ヶ月もかかっているの、寝返った大名など居ないのですから、仮にうまく進んで青野ヶ原へで徳川を1ヶ月やそこら拘束した所で、何の成果にもならないことは明白です。
- eroero1919
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真田昌幸だったら有名人で実戦経験も豊富、年齢も重ねているので諸将はいうことに従ったかもしれませんが、若い信繁では若いせいもあってそこまで諸将をまとめるのは難しかったでしょうね。実際、「あんな若造のいうことをいちいち聞けるか」となったわけです。実戦経験皆無なのに立場だけは偉い大野治長にどのみち足を引っ張られたことでしょう。昌幸だったら治長を一喝できたかもしれませんけどね。 また地味なイメージのある家康ですが、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉と同時代を生きて生き残ってきた人です。その戦略眼、政治能力、そして軍事能力はこれらの名将たちと互角のものを持っています。若き日の家康が武田信玄相手に三方ヶ原の合戦で一敗地にまみれたのは有名ですが、実はあの武田軍にこてんぱんにやられながら主だった武将をひとりも失っていません。敗戦の中でも卓越した野戦指揮能力を持っていたことの証しといえるでしょう。 クラウゼヴィッツは「戦争とは、政治の延長である」と喝破しました。家康はそれをよく知っていたので、軍事作戦で不利になったら政治力でそれを覆すことをしたでしょう。他ならぬ大坂冬の陣が、徳川方が苦戦するなかで外堀を埋めることを条件に和議に持ち込み、さらにどさくさにまぎれて内堀まで埋めてしまうという狡猾さです。 青野ヶ原の策の欠点は、「豊臣有利とみて寝返る武将も出てくる」の部分です。ここが希望的観測であり、具体的にどう政治的工作をするかという視点がありません。どういう人脈を使って、どう徳川方を切り崩すのか。つまり戦略眼がないのです。これは偉大なる戦術家であった真田昌幸の限界であったといえるでしょう。元々真田家は武田家の家臣であり戦略は考えない立場であったので、そこはないものねだりであったといえるでしょう。昌幸は、軍人として最善の策を与えたのだと思います。 立花宗茂が豊臣方についたら面白かったかもしれませんが、家康はそのあたりは抜け目なく宗茂に説得工作をしており、宗茂も徳川方につくことで最終的には大名として復帰しているので、宗茂はどちらが最終的に勝つかは冷静に判断していたといえるのではないでしょうか。
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ありがとうございます 幸村も中々の人望はありましたよ 後藤又兵衛 薄田隼人 長宗我部盛親 大谷吉久 塙直之 長岡興秋 明石全澄などは幸村の呼びかけで豊臣についた浪人です 彼らだけで2万近い軍勢が集まったそうです
- tanuki4u
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1606年 井伊直継 彦根に移転 1607年 徳川義直 尾張に 1608年 藤堂高虎 伊賀・伊勢に転封 関ヶ原の戦いの前哨戦で伊勢平定戦 西軍は東海道から3万程度の軍勢を動かしている → 関が原がなくても 京都<>伊勢・尾張は連絡が可能 根本的に、美濃に主力軍を移動させる必然性が徳川軍にはない。 1600年の関が原の戦いでは、伊勢を西軍に抑えられていたから、伊勢経由あるいは関が原経由の選択で、関が原を選択したと言えるが、伊勢を確保しているのなら、わざわざ美濃に行く必要はない。 また、彦根=津 ラインで抑えられていてどうやって青野ヶ原に行けるのかも不思議な戦略。 逆に 青野ヶ原に豊臣勢が進出できた時は、彦根 あるいは津が落ちていることになり、徳川勢が青野ヶ原でウロウロするまでもなく形勢が動いている(はず)。
お礼
並みの武将ならおそらく青野ヶ原まで行くのは無理ですね しかし幸村なら?と考えると わくわくしませんか?
青野ヶ原はたぶんこういう故事を念頭にされたものと思われますが、 壬申の乱や関ヶ原を例に出すまでもなく、近畿をにらむ要衝の地と いうわけで、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%87%8E%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 仮に真田勢がここに人を築いた場合、 過去二度の上田合戦の苦い経験からこの地で時間を過ごす愚を避けて、 大阪城を目指し、一隊を残して進軍すると考えるのが一つ。 ただ、そこを残した場合、大阪城での戦に苦戦した場合、 退路を断たれかねないという心理的な効果から、 やはり叩くものは早々に叩いておくと言う考え方が一つ。 とはいえ、仮に昌幸の秘策が功を奏したとしても、 徳川方の凋落や大阪方の有象無象の集まりなどから 考えると、長い目で見ればやはり徳川方にしか勝利の目は ないように思えます。 籠城戦を選んだ時点で多少のことはあっても 豊臣方の勝ちと言うのはなくなっていたと思うし、 豊臣恩顧の武将たちも一か八かの賭けには乗らないように思います。
お礼
ありがとうございます 豊臣恩顧で徳川に従った中にも反徳川の武将はいたと思います たとえば浅野長晟などはそうだったと思います なので真田が徳川の大軍わ食い止めたら寝返る武将はいたと思います 少なくとも幸村はかなりの人望があった人なので それに青野ヶ原の策は一か八かではなかったようです まぁ軍略に長けた昌幸と采配に長けた幸村では多少の違いはあったと思いますが
- FEX2053
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多分「楠正成の千早城の籠城」を念頭に置いた作戦 なんでしょうね。 http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/02/post-9fcc.html 歴史的に「前回は成功した作戦」が今回も成功する とは限りませんから何とも言えませんが、あの時期は 未だ「東軍が絶対有利」では無かったですから、作戦 としては十分「アリ」だと思います。 まあ、それをやって成功したら、日本は東西で別々の 国になり、そうなると「西日本」はイギリスあたりの 植民地になってた可能性もありますからねえ・・・。
お礼
昌幸は徳川をことごとく苦しめていますからね 今度は策略にかからないぞ と思ってもその上をいつたのが真田です
お礼
だからこそ効果有りです そういう戦場こそ真田が最も得意としていました たしかに大阪の陣で寝返った武将はいません それは内通工作をしていないからです