関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸、幸村親子は紀州九度山に軟禁されました。 この時、関東、関西で戦が起こったら当然大阪方に味方するとしてどう戦うかを問答しました。
この時昌幸は、宇治川の線に防御陣を築き敵を待ち持久戦に持ち込むのが良策としました。
しかし幸村ではこの策はとれないだろうと言いました。
なぜにと幸村が問うとわしは既に何度も徳川勢を破っていて天下に隠れもないから徳川勢も慎重に行動し戦いは長引くだろう。
その間に去就を決めかねていた西国の大名のうち味方するものが出るのは必定、冬の長陣は難儀ゆえ徳川勢の統制も乱れよう。
しかしお前はまだ知名度も低いからおそらくこの策は採用されないだろうと答えたといいます。
その後昌幸は病没し幸村が大阪方に参加したのです。
幸村としては亡き父の策を試したい想いもあったでしょうし、それを越えたいと思ったのかも知れません。
彼の作戦では秀頼の陣頭指揮がおそらく必須だったのではないかと思います。
しかし父の予想どうり採用されませんでした。
これは実戦の経験のない秀頼側近らが家康の野戦強さを恐れたのと、大阪城の堅固さ、西国大名の加勢を信じた時代錯誤の結果でした。
お礼
ご回答ありがとう御座います。確かに秀頼の陣頭指揮が必須ですね。秀頼は最後の最後まで出陣はしませんし…この作戦は確かに却下されてしまうものかもしれません。それに、幸村の知名度が低いことも影響していたのですね。 詳しく書いて頂き、本当にありがとう御座います。