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関ヶ原の戦い

石田三成は豊臣秀吉の権力を笠に着て威張る嫌な奴で敵が多いため、気に入らなかった武将が関ヶ原の戦いで豊臣秀吉の配下の武将にかかわらず徳川家康の味方についたため敗北したのですか?

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noname#195579
noname#195579
回答No.3

光成は豊臣五奉行の筆頭・家康は豊臣五大老の筆頭です。 家康は豊臣の中で勝手に行えないことをやってきました。 そこで五奉行の怒りを買い家康のことを光成は非難しました。 光成は秀吉に何かあれば逐一報告する立場にあったので嫌われ者です。 豊臣の内部対立が関ヶ原の戦いに発展し、家康は数で勝てないので 光成につくものを味方に引き入れる作戦を取り成功しました。 これが戦い末期の状況です。 立場が違えば光成は勝ったのです。

参考URL:
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/sekigahara.htm

その他の回答 (5)

noname#229784
noname#229784
回答No.6

箇条書きにしていきます。 ・基本的にNO1.さんの指摘どおり。 ・「豊臣政権下、秀吉の側近として政務を取り仕切っていた石田三成ら(いわゆる文治派)と加藤清正・福島正則・細川忠興ら(いわゆる武断派)との間には対立・・・」  つまり、三成の人格というより、派閥争いを家康に利用されました。 ・徳川家康 256万石 石田三成 20万石弱(関が原の時点で) 諸大名への影響力も違ってきます。 ・西軍とはもともと、上杉家討伐軍の後衛です。つまり徳川家康の号令にて集まった軍勢。それを石田三成が西軍に纏め上げたのです。戦意の低い軍勢がいても当然といえます。むしろ五分の対峙に持ち込んだ手腕が見事。 ・秀頼出陣が実現さえしていれば・・・ ・秀吉の死後の体制については  「秀吉は晩年には五大老と五奉行の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて慶長3年(1598年)8月に伏見城で死去」 です。

回答No.5

歴史を語る時は主語を明確にしましょう。それができなければ絵空事の暗記に過ぎない。海外からの脅威も少なくない時に、狭い国内でもめている状態では国ごとなぎ倒されてしまう。だからこそ、もっとも信頼のおける者に身を寄せた。三成が威張ってばかりというのは短絡的だが、秀吉の無策な朝鮮出兵の帰還兵に対してなど扱いが酷かったり、彼に自分で考えるほど信望がなかったのは事実と言える。まあ、自滅と言えるだろうね。それに、元々秀吉は自らの死語の体制を明確に決めていなかった事も一因と言える。

回答No.4

加藤 福島 はそうでしょうね あいつらは単に好き嫌いで家康についた節があります それが証拠に後年加藤は秀頼と家康が会見したとき 家康が秀頼を殺そうとしたら刺し違えてでも家康を討とうとして 会見の間の隣に控えていました つまりは豊臣家への忠節はあったのです それに自分たちより戦が下手でたいした手柄もない三成に戦場で総大将として命令されるのが嫌だったのでしょう しかし三成は一部の豊臣武将から絶大な支持がありました もし豊臣の権力を笠に来て威張っていたなら そんな支持は受けなかったはずです

  • tukihana
  • ベストアンサー率23% (11/46)
回答No.2

そのような個人的感情もあるでしょうが、単純に前田利家の亡き後は家康が第一の実力者だった事が大きいでしょう。 また気をつけるべきことは、西軍が豊臣家の官軍で東軍はそれに反乱を起こしたというような構図はこの時点では無い点です。 家康についた武将は豊臣家に反逆しているつもりはなく、むしろ秀頼の筆頭家老である家康に味方して君側の奸である三成を討つという意識だったのです。

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.1

「石田三成は豊臣秀吉の権力を笠に着て威張る嫌な奴で敵が多い」 というのは、勝者(徳川方)の論理でしかない 歴史というのは勝者によって作られるモノであって、それがそのまま事実とは限らない 武辺者と官僚とでは、価値観も違えば思考回路も違う 自分の考えと合わない人間をクソミソに貶すのは良くある話

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