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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:白秋の『桐の花』の歌について)
北原白秋の『桐の花』について
このQ&Aのポイント
- 北原白秋の『桐の花』について、有名な短歌の解釈や詩の背景について探求しています。
- 『桐の花』の歌には、姦通罪の獄中詠という解釈とシャバにいる女性を送り帰す別れの光景が存在するという論争があります。
- 獄中での詠み言葉であるとすれば、当時の法律においても女性は保護されなかった可能性があります。しかし、詩の背景の一部には後朝の別れの情景もあるという意見もあります。
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質問者が選んだベストアンサー
歌集『桐の花』において、この歌のある「春を待つ間」の章は、明治43年3月頃から、同年9がつの青山原宿移転を挟んで、44年2月に木挽町に移った頃までが載っており、更に細かくは「III(3) 雪」の項に分類されていることからして、青山での晩夏における隣家付き合いが恋愛の発端でもある経緯から、明治44年春の作と思われます。 一方、京橋に移り住んでいた白秋のもとに恋人俊子が走ったことから姦通罪で告訴された明治45年7月6日時点以降の歌は「哀傷篇」の「III(3)」には次のような歌があります。 志みじみ涙して入る君とわれ監獄(ひとや)の庭の爪紅(つまぐれ)の花 最初に女が馬車から降ろされ、続いて男囚群の一番最後に白秋が飛び降りようとしたが、紐で数珠つなぎに繋がれているため躓きそうになった。その時に見た爪紅の花や、その無様さを俊子に見詰めれていることに気付いたことなどを「やっこらさのさ」といった言葉と共に、悲しみ極まった挙句の「面白き」印象として記してもいます。 裁判は7月16日で、その結果は慰謝料300円を支払って免訴となっています。結局2週間ほどの未決監滞在だったようです。 その後については、俊子との再会と結婚は大正2年4月だが翌夏には離別、、大正5年5月から大正9年5月の間は江口章子と、大正10年4月には更に佐藤菊子と結婚しています。 セカンドソースやネット風評に惑わされず、まずは原典を愉しみましょう。 「桐の花 : 抒情歌集」東雲堂書店(大正2年) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/907273 参考:「日本の詩歌 9 北原白秋」(中央公論社)
お礼
大変遅くなりまして申し訳ありません。 ご回答ありがとうございました。 誠にその通りでして、獄中詠だからと言って獄中のことと考えなくても良いわけですよね。 参考になりました。