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「君かへす朝の舗石さくさくと~~」の 改作前の歌を
北原白秋さんの短歌:「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」の 改作前の詠草を教えてください。 ※同一の質問が数日前ありましたが、解決前に締め切られてしまったので再度させて頂きます
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>北原白秋さんの短歌:「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」の改作前の詠草を教えてください。 ⇒http://karonyomu.hatenablog.com/ によれば、次のとおりです。 (改作前) 雪しろき朝の舗石さくさくと林檎噛みつつゆくは誰が子ぞ/明治45年1月「朱欒」 (改作後) 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ 『桐の花』を代表する名歌ですが、改作前はこんな歌だったんですね。林檎を齧りながら誰かが鋪石を歩いていった、そういう現実の景を見つめている作者。白い雪。赤い林檎。それぞれがくっきりと個人的に目撃した現実としてうたわれています。 それが、改作後はどうでしょうか。逢瀬の後に「君」を帰すという寂しい背景を導きながら、何といっても下句「雪よ林檎の香のごとくふれ」がやっぱり 新鮮です。改作前には別々のものとして存在していた現実の「雪」と「林檎」が、改作後では詩として豊かに混ざり合っている感じ。 玉城徹はこんなふうに解説しています。 個人の感受した現実のモチーフを排除して、より普遍な、いわば〈叙情〉の常数から、新しい言葉を発見する過程に他ならなかった。(中略)それまでに前例を見ない、心の世界の言葉を創出することに成功している。 「心の世界の言葉」。なるほど「雪よ林檎の香のごとくふれ」は確かにそういう感じがします。ここで登場する「普遍」という言葉も、この本のキーワードになってきます。個人的な「自我」ではなく、もっと詩としての「普遍」へ到達する、ということ。 また、別の章ではこんなことを言っています。 『桐の花』はじつにおかしな歌集なのだ。根本的に分らぬところがある。『桐の花』と『赤光』とどちらが面白いか、どちらにより意味があるかなどという問い方はくだらないことで、わたしには興味がないが、「わからなさ」の点では『桐の花』の方が、はるかに強度である。(中略)わが近代文学者諸氏の大好きな「自我」とやらとは無縁のところに、彼は「世界」を設置する。
お礼
回答ありがとうございます (1)この短歌は国語の教科書に載っており、先生から「教科書から一首選んで感想を書いてこい」と言われ、感想を書いたのを思い出します この短歌は人気が高く、これを選んで感想を書く生徒が多くいました (2)先日このサイトでこの短歌を目にし、再会を果たしました (3)そして、今、改作前の短歌を教えていただきました 好評の白秋の歌さくさくと三たび味はふ時ぞうれしき