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仏教用語「起観生信」の意味と訳
- 仏教用語の「起観生信」についての意味と訳を教えてください。
- 起観生信は、世親の『浄土論』や曇鸞の『論註』などの五念門に関連する概念です。
- この概念について詳しくは智光の『無量寿経論釈』に記されています。
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いろいろと訓読ができる、何とも危険な香りのする漢文ですね~。 (1)観者是解、信者是行、然先有解、方能興行、行中以信為第一、故今挙信心 「観はこれ解(げ・すぐれた理解:勝解)、信はこれ行。 しかれども先に解があり。 行をよく起こし(《方》はハテナ)、行中は信をもって第一となす。 故にいま信心を挙ぐ。」 とか読むのかね~。 意味はさっぱり分かりません(ポリポリ)。 《行》が何を意味するのかさっぱり分からないので、解釈のしようがないです。前後の文章があれば、文脈から推測することも可能なんでしょうけれども、これだけでは何とも。 ゴメンね~。 観は観想念仏のことなんだろうね、きっと。で、頭の中で阿弥陀仏の姿と阿弥陀浄土のさまを思い描くこと。 行は口称念仏なのかな(ハテナ?)。 (2)言起観者、繋念一処、諦観彼国、言生信者、諸有衆生聞阿弥陀仏名、信心歓喜、乃至一念、皆得往生、唯除謗法、況復具修諸善功徳 「起観は、しばしば一処(阿弥陀浄土なんだろう、きっと)を念じ、彼(か)の国(阿弥陀浄土)を諦観するを言う。 生信は、諸有の衆生の阿弥陀仏の名を聞くを言う。 信心、歓喜し、ないし一念(信心を持ち、歓喜し、以下省略して、一念する人は)、みな往生を得る。 ただ謗法(仏法をそしる者)は除く。 いわんや、また諸善功徳を具修は(諸々の善行、功徳を積んだ人はもちろん往生できる)。」 とか訓読するのかね~。 意味はさっぱり(ポリポリ)。 (2)の文は、どこで区切っていいか、まったく分からないです。 どこで区切るかによって、意味が変わるんでしょうね。 《起観》は、《繋念一処、諦観彼国》と定義されているんじゃないのかな。 で、 《生信》は、《諸有衆生聞阿弥陀仏名》、すなわち、阿弥陀さんの名(号)を聞くことなんじゃないのかな。 わたしは、漢文はチンプンカンプンなので、まったく間違っているかもしれません。 なので、参考程度に読んでくださいね。 《言起観者》は《言の起こす観は》、《言生信者》を《言の起こす信は》と読まないよね。 もしそうだったら、どうしよう(冷や汗)。 これはちょっと質問者へのアドバイス。 自分でできたところまで訓読や現代語訳を質問文中に載せて、質問した方が良かったと思います。
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- NemurinekoNya
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例によって、いい加減で、かつ危険な思いつきです。 智光は、五根・五力が念頭にあったのかもしれませんね~。 五根・五力:信・精進・念・定・慧 で、精進=行、念+定=観、慧=解とすれば、 《信は、これ行》、《観はこれ解》の図式が成立する。 《観者是解、信者是行》だと、この順序が逆転しているので、《しかし先に信がある》と但し書きを書いた。 この観点からも考察することが出来るのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございました。 親身に考えて下さり誠にありがとうございます。 教えて頂いた訳を参考にして課題に取り組みたいと思います!
- NemurinekoNya
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お礼ありがとうございます。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~~ 良忠が『浄土論註記』の中でこの文を引用して (1)起観を解とし、生信を行とする。 (2)起観を「諦観彼国」と行で解し、生信を称名としている として前後の文が矛盾していると批判していたそうなので、こういった意訳になると思います。 ~~~~~~ 僕も、「信はこれ行」という言葉につよい違和感を覚えました。 伝統的な仏教の修行論では、(修)行と言えば、普通、《止観》を意味するので。 智光の論理に従えば、《生信》は、阿弥陀仏の名号を聞く、阿弥陀仏の名号を称える、あるいはもう少し拡大して阿弥陀仏を言葉で賛嘆すること。まあ、これを《行》と呼べなくもない。しかし、阿弥陀仏や往生の《信》が先行していなければ、この《行》は成立しない。どこかがおかしい。 なのですが、本当の信心は、その行によってはじめて獲得されると考えれば、矛盾を回避することも可能なのかもしれません。 実は、昨日、送信後に、この矛盾回避のための、いい考えが浮かびました。 (はっきり言って、ろくでもない思いつきです。ポリポリ) 「信はこれ行なり」の《行》を修行でなく、色~意蘊の《行(蘊)》の意味に解釈するというものです。 五蘊の《行・サンスカラーラ》は、意志(作用)もしくは(潜在的な)形成力・形成作用の意味。 これですと、 「信はこれ行」は、「信は意志」または「信は潜在的形成力」の意味になり、 「観はこれ解」や「起観者、繋念一処、諦観彼国」と矛盾しなくなります。 アビダルマや唯識的な解釈ですが、智光は奈良時代の奈良の学僧で、アビダルマ倶舎論を基礎知識として持っているはずなので、《行》をこの意味で使っている可能性も否定できないのではないかと。 アビダルマ倶舎論の著書は、浄土論の著書と同一人物の世親なので。この可能性は否定できない(笑い)。 《信》=《潜在的形成力》とすると、結構、意味が通るんじゃないですかね~。 信の重要性が出てきます。 信こそが《極楽往生》の決め手という線も出てくると思います。 ☆☆☆☆☆☆ 《起観生信》に関係するのは、世親の浄土論の 「論じていはく、この願偈はなんの義をか明かす。かの安楽世界を観じて阿弥陀仏を見たてまつることを示現す。かの国に生ぜんと願ずるがゆゑなり。」 という箇所のようですね。 観は《阿弥陀仏を見ること》、具体的には三つの荘厳を観ずることとなるようですが、 《生信》という言葉は出てきせんね。それでも、あえて関係する箇所を引き出すとすると、《かの国に生ぜんと願ずる(こと)》が該当するようです。 すると、《生信》は「阿弥陀浄土に生まれるという信」の意味になるんですかね。 そして、《起観》は、「その信によって起こる観」という意味なのかしら??? 全部、いい加減な思いつきですよ。 ☆☆☆☆☆☆ まったく参考にならないと思いますが、華厳の方で、縁起観、性起観なる観法があるそうですよ。 「華厳教学においては、学解と観法とを裁断区別していないのが一大特色である。学解即観法とされ、学解のままが観法でなければならない。いわゆる「知行合一」に通じる立場である。ただし、単なる学解のみに止まれば、知解であって、結局戲論の徒に過ぎないことは言を俟たない。」 http://homepage3.nifty.com/huayan/doctrine/kanmon.htm この論理に従うと、「観はこれ(学)解」ということになるんですかね~。 そして、レポートの課題の《起観》は《信起観》となったりして(笑い)。 全部、いい加減な思いつきですので、あくまで参考程度にこの回答を読んでくださいね。
補足
回答ありがとうございます! アドバイスして頂いた補足で、自分なりの書き下しになります。 (1)観はこれ解なり、信はこれ行なり。然れば先に解有り、まさに能く行を興し、行中信をもって第一と為し、故に今信心を挙げる。 (2)起観は言ふ、念を一処にと(繋)らえ、彼国を諦観す。生信は言ふ、諸有衆生の阿弥陀仏名を聞きて、信心歓喜乃至一念す。皆往生を得、唯だ謗法を除く。況んや復た具さに諸善功徳を修む。 因みに、色々調べたところ 良忠が『浄土論註記』の中でこの文を引用して (1)起観を解とし、生信を行とする。 (2)起観を「諦観彼国」と行で解し、生信を称名としている として前後の文が矛盾していると批判していたそうなので、こういった意訳になると思います。 仏教辞典を引いて調べたのですが、 「起観」や「生信」という言葉自体がなく、 結局この文の意味が完全にとれず、 矛盾点もいまいち分かりませんでした・・・(涙) よろしくお願い致します