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仏教においての祈る意味とは?
最近チベットに行き、チベット仏教に触れてきました。日本でもそうだと思いますが、現地では僧も一般の人も仏像や寺に向かって、お祈りをしていました。 それを見て不思議に思ったのですが、仏教はキリスト教やヒンズー教と違って、仏様は神ではないですよね?キリスト教みたいに神がいたら、お祈りをして救いや答えを求めたり出来ますが、仏様は仏教徒にとって、煩悩を克服し悟りを開いて目指す存在なのに、仏教徒は仏様に対してどんな思いをこめて祈ってるのでしょうか?チベット仏教も日本の仏教も大乗仏教なので、祈りの意味の理由は似ていると思いますが、だれかご存知の方、お教え下さい。
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- nontro_08
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創価学会員です。 我々の祈りの姿勢は、一言で言うと「信」です。 仏法においては「以信代慧(いしんだいえ、信を以って慧に代う)」という言葉があります。仏法では智慧によって仏道を成ずるとしますが、末法の智慧なき三毒(むさぼり、いかり、おろか)強盛の凡夫でも、「南無妙法蓮華経」の御本尊を信じ受けることにより、幸福境涯を開く智慧を得て即身成仏できる、という意味です。 「あひかまへて御信心を出(いだ)し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」(経王殿御返事)と日蓮大聖人も仰せです。「この祈りは果たして、叶うのか」といった弱い心ではなく、「絶対にこの祈りは叶えてみせるぞ」という強き心で心から御本尊を信じ、題目をあげ、この仏法を人に語り(折伏)つつ、自分の現実の課題に全力で取り組む。そこに自身の課題は解決し、幸福への道が開かれていくのです。 「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(祈祷抄) 祈りは勇気の源であり、智慧や生命力を湧かせていく根源の力です。“状況が変わるまで、挑戦し続けていくぞ”という執念をもって祈る。これが「信」の祈りなのです。