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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世界観において 二元論と言ったら・・・)

二元論とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 二元論は、世界や事物の根本的な原理として、背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念です。
  • この概念では、善と悪や精神と物体など、二つの要素が対立する関係にあると考えられます。
  • 一方、一元論はすべてのものをひとつの根元から捉える考え方であり、二元論とは対照的です。一元論では、世界や事物は複数の要素に分けられるのではなく、ひとつのものとして統一されるとされます。

質問者が選んだベストアンサー

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  • masa2211
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回答No.7

>《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 誤読です。そんなこと言っていない。 たぶん、説明文を (世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から 構成される、)または(二つからなる区分に分けられる)とする概念のこと。 と読んだからこういう結論になったものと思われます。 日本語文法上、こう読むことは可能だけど、そういう意図でかいたわけじゃないでしょ? (世界や事物の根本的な原理として、)それらは<(背反する二つの原理や基本的要素から 構成される、)または(二つからなる区分に分けられる)>とする概念のこと。 と読めばよいだけ。日本語文法上、こちらの読み方も可能。というより、こちらが普通。 二区分に分ける場合も、根本的な原理で区分しないとなりません。 根本的な原理で区分したのだから、当然、勝手に統合することはナシです。 根本的な原理を統合したら、意味が変わってしまいます。 >どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。 そうですよ。そのとおりです。 でも、以下の意味であり、条件限定です。たとえば、 善悪二元論:行動Aと行動Bで、どちらが究極的に正しいかわからない。(最終で勝ったほうが善、なんだろうな。) 善悪一元論:行動Aと行動Bで、どちらが正しいかは最初から決まっている。(けれども、当事者はどちらが正しいか判明できない。) この二つを同一視してよいような議論のたてかたであれば、二元論を一元論として述べても差し支えない。 (たとえば、ごく普通に倫理を語る(=二律背反を語る)とき。) 要するに、根本的な原理そのものを語るのではなく、根本的な原理が単なる前提条件となったとき。 ゆえに、結論。 >そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 そんな用法は無いし、そんな用法を述べているという事実すら存在しない。

bragelonne
質問者

お礼

 やっぱそうなんですか?  まづは まさ2211さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうなんですかねぇ。  つまり そう読むとですね。  ★ ~~~~   (世界や事物の根本的な原理として、)    それらは<(背反する二つの原理や基本的要素から構成される、)    または(二つからなる区分に分けられる)>とする概念のこと。  と読めばよいだけ。  ~~~~~~~  ☆ こう読むとですね 後者は 次のように理解されます。  ▼ 《世界は ふたつの原理に区分されて捉えられる》  ☆ と言っていることになります。言いかえると 《二つの原理としての区分》は すでに前者の意味内容として言っていますから それとの関係からは 次のように理解されることになります。  ▼ 《世界は 互いに背反するのではなくとも・つまりは言ってみれば互いに並列されるような ふたつの原理に区分されて捉えられる》という場合が 二元論のひとつのかたちである。  ☆ こうなりますよね?  《ふたつの原理は 互いに背反しない》場合です。  だとすると 回答No.3以下の じねんさんのご見解も 二元論と言えるようになるのではないか? という懸念が出て来ます。  つまり  ○ 人間と自然 あるいはその当地の住民とそこに生息するヒグマ とのあいだに 《互いに背反しないけれども 互いに区分されるふたつの生活原理がある》 よって この場合にも《人とヒグマとの二元論》が成り立つ。  と言えるようになってしまいます。まいか?  これは おかしい。そんな用法はないはずです。ジャーナリズムでもそんな奇異な表現は使わないでしょう。  こうなりゃぁ ひとえにオシエを乞います。

bragelonne
質問者

補足

 文章の読み方は別として とうぜんおっしゃるように読む・またはむしろすでに理解している というのが ふつうであるはずです。  その意味で BA と受け留めました。

その他の回答 (28)

回答No.9

bragelonneさんへ。お礼にて私の漠然としたイメージを補足していただいてありがとうございます。私が一元論を「かつ」andとしないで、あえて「または」and/orとしたのは、一つは一元論における全体性を小さくしないためであり、また一元論におけるorとは、まだ全体の中で人間によって認識されていない事柄とおとりください。私のような未熟者が全体性というものを考えても視野(領域)が限られると考えております。bragelonneさんの補足により論理性がついたものの、かなりたたかれることを覚悟しております(苦笑)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★★(回答No.8 / お礼欄) ~~~~  (2-1)★ 円(a)一元論的完全:        物事を外へ外へ対象を思考して(有)があるとする。        (プラトンのイデア的に考えますが、最高の真善美が        有のみにあると考え、反対は否定的無ではなく、考え        ないとします)。  (2-2)★ 円(b)一元論的完全:        内へ内へと思考し(無)の中に最高の真善美があるとする。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしもよく分からないところがありますが たとえばこの《円 a / b 》というのは それぞれ《善》そして《悪》として考えればどうか?   《真善美》が存在するという点が明らかに当てはまりませんが この円は 善なら善の事例やその事例をめぐって概念内容が捉えられるといったかたちでその集合と見立てます。悪についても 同じくです。    そこで ところが 悪は じつは生きるなら生きるというひとつの善が傷つけられることと捉えられます。つまり 《善に対する損傷》を意味すると捉え返すなら そのとき互いのあいだにマジワリはないかも知れませんが 接点が出来ます。そしてあたかもそれぞれ正と負とで対応するかのように認識しうるようになります。  まこととウソといった正負の関係です。  もしこうだとしたら 善の円と悪の円とは 大きく互いにもうひとつの大円となってまとめられる。かも知れません。ふたつの元だと思われていたのが 全体として一元論――正の善を取り上げて 善の一元論――としてまとめることが出来るかも知れません。  いえいえ。まだまだ かも知れません。

回答No.8

回答を参考に思索いたしております。かなり難度の高い論理的検討で、私がどこまで理解しているか分かりません。未熟者ですが、イメージとして分かりやすく回答させていただきたく思います。思考するツールとして円を完全な形ものと定義するとします。(境界や形作るので反論を受けそうですがわかりやすく考えるとして)そして、物事を外へ外へ対象を思考して(有)があるとするのを円(a)一元論的完全とします。(プラトンのイデア的に考えますが、最高の真善美が有のみにあると考え、反対は否定的無ではなく、考えないとします)。いっぽうで内へ内へと思考し(無)の中に最高の真善美があるとするのを円(b)一元論的完全とします。この2つの円を作ってしまったので、2元論を作ってしまいましたが、この円(a)と(b)が交わっていると考えてください。そして交わっている部分に自分が立っていると考えてください。数学的に「または」といわれる曖昧な日本語であり英語でorとand/orという両方を含みますが、視点を外に向けて円(a)と円(b)を見るつまりorが二元論、視点を交わった部分の領域の内に向けるamd/orが一元論というのはどうでしょうか?このような交わった部分というのを考えたのは、円という完全な形は、理想であり、私は不完全な形の未熟な存在という意味です。また、肯定的に考えれば、私とあなた、私とヒグマは無関係な独立した存在ではない。いわゆる交わりのない独立した存在だという意味で無関係であることからおこる無関心ではないということです。漠然とした回答で済みませんが、たたき台にして否定してください。さらに思索いたします。

bragelonne
質問者

お礼

 あめんほてぷさん ご回答をありがとうございます。  しっかりと吟味しておかねばならない問題なのでしょうか あるいはごく簡単な《元》という用語を用いるかどうかに限った問題と言うべきなのか。わたしには意外と長引いているように思います。  さてさらにみなさんのご回答を俟ちつつ 考えてまいります。  あめんほてぷさんからは 次のようなご見解が寄せられました。  まづ  (1)★ 思考するツールとして円を完全な形ものと定義するとします。  ☆ と前提して:  (2-1)★ 円(a)一元論的完全:        物事を外へ外へ対象を思考して(有)があるとする。        (プラトンのイデア的に考えますが、最高の真善美が        有のみにあると考え、反対は否定的無ではなく、考え        ないとします)。  (2-2)★ 円(b)一元論的完全:        内へ内へと思考し(無)の中に最高の真善美があるとする。  (3-1)★ この円(a)と(b)が交わっていると考えてください。  (3-2)★ そして交わっている部分に自分が立っていると考えてください。  (4-1)★ 視点を外に向けて円(a)と円(b)を見るつまり or が二元論、  (4-2)★ 視点を交わった部分の領域の内に向ける and/or が一元論というのはどうでしょうか?  ☆ ううーん。どうなんでしょう。  さらにくわしい説明をお聞きしたい気持ちもあります。ですがいま受け取ったかたちで考えるとすれば:  わたしに思われることとしては   ○ (4-2)の一元論というのは たぶんおそらく その《 and 》の場合に 両円の全部の領域をふくめるかたちで けっきょく全体観に立つことが出来る。それゆえ 全体としての一であることより 一元論というかたちになる。  のではないかと考えました。言いかえると その(4-2)の場合でも 《 or 》のときには 全体観に立てない。(註1) そして(4-1)の場合も 同じく部分観がふたつ並ぶことになる。ゆえに 一元論にはならない。  ひとまづこのように考えてみました。どうでしょう。  ★ ~~~~  肯定的に考えれば、私とあなた、私とヒグマは無関係な独立した存在ではない。いわゆる交わりのない独立した存在だという意味で無関係であることからおこる無関心ではないということです。  ~~~~~~  ☆ これは 単純に言って 全体観に立って見ており 一元論にもとづいているのではないかと思うのですが みなさんから見ても どうなのでしょう?  カカワリ(関係)およびマジワリ(交通)を見ているなら そこにすでに全体観が成り立っていることを示唆するものがあるように思えるですが。  (註1):(4-2)の場合でも 《 or 》のときには 全体観に立てない。  これにつきましては おぎないます。  つまりこの(4-2)の場合は もともと大前提として全体観に立っている。  そして《 or 》の場合には その全体観の中において ただし一部分を見てその把握・認識をおこなおうとしている。  全体観――これは それとして 一元論である――の中で 部分観を持つばあい。と言い直すべきでしょうか?

回答No.6

>>> No.3 お礼欄 (あ)に焦点をあてています。  しかもこの(あ)の論点は じつはきわめて簡単な問いになっています。次の一点に収斂して行きます。  (あ-a ) 世界観においては その成り立ちを原理として示すものでなければ 《元》という用語は使わない。のではないか? 《ふたつのものごと》を呼ぶとき 二項対立とか双対と呼ぶにとどまる。のではないか?  です。  ヰキぺを参照してみます。  ▼ (ヰキぺ:世界観) ~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C% …  § 4 哲学的世界観の諸相  § 4-1 原理次元における分類   ○ 二元論は、       世界内に二つの対立的な原理を想定し、その間の闘争や予定調和を説くことによって世界の存在理由を設定する。    宗教的にはゾロアスター教などの善悪二元論、哲学的にはデカルトの物心二元論が有名である。    この思考法はしばしば行為の善・悪といった価値判断と結びつき、社会における道徳を構成する基となっている。  ~~~~~~~~~~~  ☆ とあります。  ▼ 二つの対立的な原理を想定し、その間の闘争や予定調和を説くことによって  ☆ この部分において この二元論もけっきょく それらのふたつの原理を総合して《世界は 大きくひとつの原理により成る》と見るところに落ち着くであろうと見ます。つまり (い)の主題です。  ですが この論点は いま措いておいて (あ-a)の問いが問題です。  すなわち:    (あ-a ) 世界観においては その成り立ちを原理として示すものでなければ 《元》という用語は使わない。のではないか? 《ふたつのものごと》を呼ぶとき 二項対立とか双対と呼ぶにとどまる。のではないか? <<< wikiでの記述は、「知的」側面のみでの、一つの見解にしか過ぎないと考えます。 人間とヒグマ(ないし人為的と自然的)という問題は、二項対立として取り上げられうる問題として捉えるなら、問題解決の方略として「ひとつにまとめることが可能」だとなるのではないでしょうか? なぜなら「一元」の内部の問題にしか過ぎないという認識問題にすり替えてしまいうるからです。でも、そのときには、人間は人間としての本質を失い、ヒグマはヒグマとしての本質を失ってしまうことでしょう。 究極的に「一元」として捉えうるとしても、「決して越えることのできない境界」を想定しうる以上、「二項対立」ではなく「二元論」という言葉を使用せざるを得ない状況はありうるわけです。人間・ヒグマといった、それぞれのアイデンティティを保ちつづけ、ひとつに合わさった途端に両者のアイデンティティが消滅するのであれば、それぞれの世界は根本的に異なる「元」を持つと(仮想的にでも)認識することは、非常に大切なことだと思います。 グローバル化にて境界が消え去ろうとするとき、逆説的に悲劇が生み出されるという現実があります。 フランスの暴動。。。そして日本。。。 http://jinen.exblog.jp/3760612/ >>> 首相の靖国参拝問題。。。 母親への毒盛り事件。。。 麻原彰晃の「自己」の境界問題。。。 これらには共通点がある。 それは、今、フランス国内を揺るがしている問題にも繋がっている。。。 それは、「自己」の境界問題。。。 以前、「自由と平等」についての投稿を行なった。 自由と平等といえば、博愛を加えることで、フランス国旗を表している。 政治的指導者達は、トップダウン思考とグローバル化という流れから、自由と平等とを知的に切断することによって、博愛の精神を失ってしまったのかもしれない。 現フランス政権は、移民と従来の国民との境界を廃止することで、更なる境界を作り出してしまった。まさに、「グローバル化という境界削除による境界発生」そのものである。 知的に境界を越えるという暴挙が、情的な切断を生み出し、それが知的な切断を生み出す。。。 境界がなぜ発生するのかという根本に対する思考が不十分だといわざるを得ない。 それは、外見上の区別・差別といった概念以前の問題である。 それは、自己が自己を自己として認識するということに繋がる問題であり、「自己の存在」という概念に繋がる問題であり、「生・死」の境界に繋がる問題である。 自己が自己を自己として認識した途端、麻原と松本との境界は消え去るかもしれない。 「自己の存在」という概念(知的切断面)を深く考察すれば、移民と従来の国民との知的・幻想的境界が形成され、かつ、境界を越える情が形成されるかもしれない。 「生・死」の境界という概念(知的切断面)を「自己の存在」という概念と合わせて深く考えるならば、母親に毒を盛るということが、自身に毒を盛るということに繋がることが分かるかもしれない。 日本。。。 情の切断が究極にまで進むこの国では、フランスでの暴動すら、異国のお祭り騒ぎにしか思えないだけの不気味さが渦巻いているような気がする。。。 ※05.11.12 08:15 一部追加 ※05.11.14 03:40 一部追加 ※06.11.11 10:00 補足・資料 JIIA(日本国際問題研究所) http://www.jiia.or.jp/column/200511/09-shoukubosensou.html クロール(googleなどでのキャッシュ)でしか見ることができないが asahi.comでの記事 「フランス暴動、「再発火」寸前、2006年10月28日17時10分 のように、未だ、くすぶり続けているとのこと。。。 <<<

bragelonne
質問者

お礼

 じねんさん。どうしたのですか?  問題は 《元》を使うかどうか これだけです。  世の中は 《移民》というひとつの元と《従来の国民》というもうひとつの元とで成り立っている。ゆえに移民問題は 二元論である。  ――こうおっしゃりたいのでしょうか?  ヒグマは 一たん餌を与えられるとその習性がついて 人びとの暮らす家々のところまでその餌を求めてやって来てしまう。これは 大問題だ。と言えば よいわけではないのですか? 二項対立と言うことすら必要ないことです。    ★ 「一元」の内部の問題にしか過ぎないという認識問題にすり替えてしまいうるからです。  ☆ そのように《すり替えてしまう》べき問題です。なぜならヒグマとも共存することを思っているからです。  ★  でも、そのときには、人間は人間としての本質を失い、ヒグマはヒグマとしての本質を失ってしまうことでしょう。  ☆ めちゃくちゃな論理です。  そりゃあ確かに われわれ人間は ヒグマの考えをしっかりと聞き民主的な話し合いを経たあと対処するということではないかもしれません。でも 出来るだけヒグマの《本質》を知りそれをとうとんで 両者の共存をはかろうとしている。のではありませんか?  われわれとヒグマとのあいだにはその溝を埋めるに埋められない《二元論》としての問題がある――こう認識すると よいことがあるとおっしゃるのでしょうか?  二項対立や双対という表現を使っても ふたつのものごとの間に違いがあり境界があるということに変わりはありません。そしてときには埋められない溝があると言ったり認識したりします。  もし仮りにたとえば霊と肉とのあいだは ふたつの原理がぶつかりあうふたつの世界があり まさに二元論として捉えるべきだと言ったばあい――仮りにこう言ったばあい―― その場合には 《境界》はとうぜん認識されていて 確かに余計につよく認識されるようになります。  ですが この対立を何とかしようと思うなら――つまり《愛》としての意志を発動させるなら―― まづはこの二元論としての認識は 見かけ上のことであって 世界は大きくはひとつの原理のもとに成り立っている。こう想定してかかることになる。  このことを見越したうえで言えば 一元論を持ち出したからと言って ものごとの対立を大目に見るとかあまり対立として見ないようにするとか そういうことには成りません。  ★ 究極的に「一元」として捉えうるとしても、「決して越えることのできない境界」を想定しうる以上、「二項対立」ではなく「二元論」という言葉を使用せざるを得ない状況はありうるわけです。  ☆ ほんとうにこのようにお考えでしょうか? その用語の使用は あくまで文学としての表現 あるいは ジャーナリズムの慣用のたぐいである。哲学は世界観の問題として そのようには言い表わさない。こういう問題です。  ★ 人間・ヒグマといった、それぞれのアイデンティティを保ちつづけ、ひとつに合わさった途端に両者のアイデンティティが消滅するのであれば、それぞれの世界は根本的に異なる「元」を持つと(仮想的にでも)認識することは、非常に大切なことだと思います。  ☆ きすぎじねんという知性は どこへ行ったのか? とうたがわざるを得ません。

回答No.5

>>> No.3 お礼欄 ★ ~~~~  人間もヒグマも元来、大自然から生まれ、一つの世界の内部で生きています。  完全に切り離されていないにも関らず、境界を保つ必要があります。  一つの世界にもかかわらず、二つの世界。。。  ~~~~~~  ☆ この《二つの世界》というのは 文学としての表現であって 世界観ないし哲学の用語として出されているものではない。と言えるのではないでしょうか? またそう言わなければならないのだと。  《境界を持つ》ことは 《原理としての成り立ち》の問題ではない。からです。 <<< リンク先をご覧になりましたでしょうか? 「ヒグマの死」は、決して「文学としての表現」という問題ではありません。まさに「人間とヒグマ」の世界観の問題です。そうして、まさに両者を含む「哲学」の問題です。 >>> 知床財団キャンペーン「エサやりがクマを殺す」…注意喚起 表現強く  http://hokkaido.yomiuri.co.jp/shiretoko/shiretoko_article/2012082801_article.htm 「エサやりがクマを殺す」。知床財団(事務局・斜里町)は、世界自然遺産の知床で、刺激的な文言と写真を使って観光客らにヒグマに餌を与えないよう訴えるキャンペーンを始めた。野生動物への人間の過剰な干渉や善意が、野生のクマを死に追いやる現実を強く訴え、観光客らに自制を促す戦略だ。  クマは人の食べ物の味を覚えると、ごみ置き場を荒らしたり、キャンプ場や車に寄ってきたりする。地元住民や観光客に危険が及ぶと判断されると、クマが駆除される場合がある。  同財団はこれまで、クマと人との遭遇による事故を避けるため、人前に現れたクマに、花火で大きな音を立てたり、ゴム弾を撃って痛みを覚えさせたりして、クマが人間を嫌うように学習させてきた。  その一方で以前から、知床を訪れた観光客が、人里や道路に現れたクマに車中から餌をやる迷惑行為の情報が、同財団に寄せられていた。さらに今年はクマの出没数が多く、人がクマに餌やりをする場面が、初めて撮影された。8月には、不法投棄された生ごみをあさるクマの姿を、同財団の職員が確認した。  このため財団は、野生動物とふれあおうとして餌をやるなどの行為は、個人のマナーの悪さという問題にとどまらず「日本人として一般的な行為と再認識した」。これまでも看板などで自制を促してきたが、「人間側への強い対応も必要で、ショッキングな表現で訴えるしかない」と、キャンペーンを張ることを決めた。  同財団は8月下旬、クマへの餌やりをやめるよう訴える縦約10センチ、横約15センチのカード1万5000枚を印刷した。カードには、実際に駆除されたクマの写真と、ソーセージを与えられた知床のクマが小学校に近づき、射殺された実話などを掲載した。カードは、道の駅や知床自然センターなどの施設のトイレの個室に貼るほか、観光案内の窓口などでも配布している。 <<< 上記サイトで紹介されているカードを添付しておきます。。。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ちゃんと読んでいますよ。  問題は 《元》を使うかどうかです。  そしてそれは 質問者の言い分としては   ☆☆(No.3お礼欄) 《境界を持つ》ことは〔――それによって 《二つの世界》が発生したとしてもそれらの世界についての――〕《原理としての成り立ち》の問題ではない。から  《元》は使わないのだというものです。だから このように《人と熊とのあいだで ふたつの世界がある》と言っても それは《文学としての表現》であると言いました。  ★ 「ヒグマの死」は、決して「文学としての表現」という問題ではありません。  ☆ ヒグマやその生存あるいはそれに関連して人びとやその生活 これは 文学として表現されうるだけではなく それら自体において おおきな現実の問題であることに変わりはありません。ですが 話の筋は 丸きり違っています。よね?  ★ まさに「人間とヒグマ」の世界観の問題です。そうして、まさに両者を含む「哲学」の問題です。  ☆ 人間には人間の世界があり ヒグマにはヒグマの世界がある。ゆえに 両者によって成り立つ大きな世界は 二元論として捉えられる。――ということにはなりません。野生のヒグマの生存ないしその生態をめぐっての人間とその社会のあり方 という問題です。  いくら哲学として考えても ここに《二元論》は成り立ちません。世界の成り立つ原理を扱うのではないからです。

回答No.4

あまり、こういった目的には使いたくないのですが、この場を借りて一言申し上げたく存じます。 (bragelonne様、勝手に利用いたしますこと、お許しください) amenhotep2000さんは、「仏様に人格はあるか」の私の回答(No.11)に対するお礼欄にて、私を「量子力学と思われる研究をされているようですが」と捉えられておられます。 しかし、それは誤りです。 幾度か稚拙ブログの量子力学関係にても記述していますが、私は「物理学者」ではありませんし、「量子力学の研究」はしておりません。また、「哲学者」でもありません。 遥か昔(いや、遥か未来かもしれません)、哲学が未分化であった頃へと思いを馳せるとき、物理学的な思索もまた哲学の一部であり、諸科学には境界はなく、「私は物理学者ではない」といったことは無意味かもしれません。。。 しかしながら、相互に関連し合い、思索の境界部分が揺れ動いていたとしても、「いま・ここ」においては、しかるべき「境界概念」を越えることはできません。「物理学」という思索において、その「元」となるような中心的な概念があり、「化学」とか「社会学」とか「文学」とか「生物学」といった諸科学の、それぞれの概念の「元」となるものが「いま・ここ」にはあるわけです。いつの日にか、その「境界概念」は消え去るかもしれないでしょうが、「いま・ここ」においては、知的・幻想的に、いや、認識論的に存在しうるというべきでしょう。。。 たとえ、私の思いが「量子力学」を含む全体へと向かっていたとしても。。。です。。。

bragelonne
質問者

お礼

 あめんほてぷ2000さんに伝わったと思います。  《境界》と《元》との対応は ないのではないか? これは 直前のご回答No.3でのやり取りからつづいています。

回答No.3

知床財団キャンペーン「エサやりがクマを殺す」…注意喚起 表現強く http://hokkaido.yomiuri.co.jp/shiretoko/shiretoko_article/2012082801_article.htm 人間もヒグマも元来、大自然から生まれ、一つの世界の内部で生きています。 完全に切り離されていないにも関らず、境界を保つ必要があります。 一つの世界にもかかわらず、二つの世界。。。 私が「二元論」という言葉を使うのは、そういった「境界概念」を念頭においています。「いま・ここ」という離れることのできない流れの中において。。。 また、アイデンティティが芽生えるとき、自他の区別が生じるときには、元来は一つという概念にいたるまでの間、たとえ混ざり合う「二項」(あるいは二つの方向性)であっても、「二元」的に捉えたくなる時期はあるでしょう。 「わたし」と「あなた」は区別されるべきでしょうし、「この国」と「かの国」は区別されるべきでしょう。数学などでよく用いられる「独立事象」は、理想的な状態として考えるなら、完全に切り離された事象として数学的に処理されるべきものです。 時間の経過とともに、死は「わたし」と「あなた」の境界を消し去るでしょうし、更なる時間が経過するならば「この国」と「かの国」の境界も消し去るでしょう。 「独立事象」だと信じていたことも、極めて微小な領域まで踏み込んだなら、僅かでも関連しあっているところを排除しきれない。量子力学でのEPR相関などにそういった繋がりを見ることができるわけです。 そういった認識の変遷の過程(途中)において存在しうる知的・認識論的に捉えられうる「二元」という概念を「ない」とはいえないわけです。 いくらそれを「一つ」とか「完全な二元はありえない」といったところで、「いま・ここ」においては知的に「境界」を「境界」として認識しなければならないということです。 。。。そうして、そういった「境界」を越えることのできるのは、まさに「情」「愛」になるのでしょう。。。

bragelonne
質問者

お礼

 じねんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  まづこの質問では ふたつの論点(主題)があります。  (あ) 二元論と もし世界観として言う場合には その《元》とは 世界についての究極的な原理を言っている。その当否・是非を別として言えば ふたつの相容れない原理から世界は成ると言っている。  (い) 世界観に《二元論》は ありえない。言いかえると 《世界》が 互いに異なる原理によって相容れないふたつの世界に分離している――ということは考えられない。このことを問うところまで視野に入れている。  このとき(い)の論点は 次の段階としてもよい。と考えます。とりあえずは (あ)に焦点をあてています。  しかもこの(あ)の論点は じつはきわめて簡単な問いになっています。次の一点に収斂して行きます。  (あ-a ) 世界観においては その成り立ちを原理として示すものでなければ 《元》という用語は使わない。のではないか? 《ふたつのものごと》を呼ぶとき 二項対立とか双対と呼ぶにとどまる。のではないか?  です。  ヰキぺを参照してみます。  ▼ (ヰキぺ:世界観) ~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3  § 4 哲学的世界観の諸相  § 4-1 原理次元における分類   ○ 二元論は、       世界内に二つの対立的な原理を想定し、その間の闘争や予定調和を説くことによって世界の存在理由を設定する。    宗教的にはゾロアスター教などの善悪二元論、哲学的にはデカルトの物心二元論が有名である。    この思考法はしばしば行為の善・悪といった価値判断と結びつき、社会における道徳を構成する基となっている。  ~~~~~~~~~~~  ☆ とあります。  ▼ 二つの対立的な原理を想定し、その間の闘争や予定調和を説くことによって  ☆ この部分において この二元論もけっきょく それらのふたつの原理を総合して《世界は 大きくひとつの原理により成る》と見るところに落ち着くであろうと見ます。つまり (い)の主題です。  ですが この論点は いま措いておいて (あ-a)の問いが問題です。  すなわち:    (あ-a ) 世界観においては その成り立ちを原理として示すものでなければ 《元》という用語は使わない。のではないか? 《ふたつのものごと》を呼ぶとき 二項対立とか双対と呼ぶにとどまる。のではないか?    ですから たとえば  ★ ~~~~  人間もヒグマも元来、大自然から生まれ、一つの世界の内部で生きています。  完全に切り離されていないにも関らず、境界を保つ必要があります。  一つの世界にもかかわらず、二つの世界。。。  ~~~~~~  ☆ この《二つの世界》というのは 文学としての表現であって 世界観ないし哲学の用語として出されているものではない。と言えるのではないでしょうか? またそう言わなければならないのだと。  《境界を持つ》ことは 《原理としての成り立ち》の問題ではない。からです。  ★ 私が「二元論」という言葉を使うのは、そういった「境界概念」を念頭においています。「いま・ここ」という離れることのできない流れの中において。。。  ☆ という二元論の《元》という用法は 哲学としてはマチガイではないでしょうか?  ★ ~~~~~  また、アイデンティティが芽生えるとき、自他の区別が生じるときには、元来は一つという概念にいたるまでの間、たとえ混ざり合う「二項」(あるいは二つの方向性)であっても、「二元」的に捉えたくなる時期はあるでしょう。  「わたし」と「あなた」は区別されるべきでしょうし、「この国」と「かの国」は区別されるべきでしょう。・・・  ~~~~~  ☆ 文学として・または哲学から離れてなら よいのかも知れません。ですが 世界観としては 成りません。ただ《区別》のあることだけによって 原理を示すことは成らないからです。  (あ-a)の論点は 《純粋に》用語の問題です。  ★ いくらそれを「一つ」とか「完全な二元はありえない」といったところで、「いま・ここ」においては知的に「境界」を「境界」として認識しなければならないということです。  ☆ 《境界のあるところ そこで世界が二つに分かれ それらは二元論を成す》とは言えないということです。《元》という言葉の使い方だけの問題です。  ★ 。。。そうして、そういった「境界」を越えることのできるのは、まさに「情」「愛」になるのでしょう。。。  ☆ これは (い)の主題です。《分裂・決裂を乗り越えることができる》と見るのは そもそも世界観が《一元論》から成るとしていることを物語ります。  何によってか? これはいま深入りしませんが おそらくもっとも大きく捉えて言うならば 《自然史過程として》となるでしょうね。  その次に 《意志としての愛》 これが来ましょう。  というふうに議論は進められると考えます。  そしてまづは (あ)の論点を片づけたいと考えます。

回答No.2

気づいてしまったか....

bragelonne
質問者

お礼

 ええ。けっきょくヰキぺの記事のあやまち(または あいまいさ)について検討するという単純な問いです。  れっがえおんげんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そして確かに一元論についての具体的なかたち――それが世界の中でどのように展開されたか――については 別の質問を用意していますので ほとんどもう用が足りたとは思います。  回答No.1のあめんほてぷさんは ただし 二元論と二項対立との違いにかかわるような《二元論もどき》のその内容についての吟味検証を目指してもおられます。  つまりは 一元論の具体的な中身を探求しておられる。  いましばらくこのままここも開いていて 様子を見て対処することとします。  《ひとつのものごと》を取り上げたなら 一元論だと言えるようなかたちで 《ふたつのものごと》を取り上げた際に二元論という用語を当てはめるのは いかにもおかしい。こういうご回答内容として受け取りました。ありがとうございました。  (たしかに もう少し開いていて ほかの方々からもご見解を寄せてもらったほうがよいかも知れません)。

回答No.1

先ほど、bragelonneさんをベストアンサーにさせていただいた、ひよっこアマチュア哲学者です。私もこの質問がいろいろの回答者によって発展していくのを期待しております。私のにわか知識で、まだ整理されてない(かじっただけ)の知識ですが、ベリクソンは事物の中に入り込んで内側から真理を捉えようとするのを「直感」と言い、逆に外側から捕らえようとすることを「分析」といったそうです。事物の内側に入り込み、探求するのを一元論といい、自分に対して対象を作り外側から他の対象と共通要素を見出すように探求するのを二元論というのでないしょうか?例えば、私も、自然に接し、花のスケッチをしている時、花(自然)と一体となったような感覚、あるいは、美術館で絵画を見ているとき、まるで絵画の中に自分が入っていったという感覚があります。そのような一体感という感覚によって物事の本質を見極めるというのが、一元論である仏教の世界観なのではと漠然と理解している状態です。bragelonneさんは私の考えをどう思われますか?他の人の回答もお待ちしたいです。

bragelonne
質問者

お礼

 あめんほてぷさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  まづ ブディズムのご質問への回答を この場を借りて 次のように補いたいと思いました。勝手ながらですが  ☆☆(わが回答) ~~~~  《無縁慈悲》は われわれがそれぞれ仏性をやどす姿のままで 他人(ひと)に世界との和解を得させる・または得るきっかけをあたえることだと考えます。  〔おぎなう部分です〕:世界との・あるいはそしておのれとの和解を得たなら さとりはみづからが実現して行くものと思われます。  ですから 《サトリを得させる・求めさせる》というのは 慈悲ではなく 単なる《執着心》だと見ます。《無明》とも言います。  ~~~~~~~~~~~~  お粗末でした。       *  さて 二元論についてです。  別様のと言いますか ひとつの哲学としての切り口を提示しておられます。  ★ ~~~~~~~  ベリクソンは  ( a ) 事物の中に入り込んで内側から真理を捉えようとするのを「直感」と言い、  ( b ) 逆に外側から捕らえようとすることを「分析」といったそうです。  ( c ) 事物の内側に入り込み、探求するのを一元論といい、  ( d ) 自分に対して対象を作り外側から他の対象と共通要素を見出すように探求するのを二元論というのでないしょうか?  ~~~~~~~~~  ☆ ( b )の《外側からの認識および分析・検証》は 一般的な事物の把握でしょうね。  ( a ):《事物の中に入り込んで》ですか。  《内側から真理を捉えようとする》。――これは 想像力によるのでしょうか? ふつうに《相手の身になって》とか《相手の気持ちを思いやって》とも言ったりしますが。あるいは 《当事者になる》といったことを言いましょうか。それだと《想像力》の問題になるかとも思われますが。・・・  でも   ★( a ) 直感  なのですね。かつすでにそのものごとの本質をつかまえるといった直観をもふくめたヒラメキでしょうか。  本質直観などという言葉もあるようですが 一般に《ひらめき・インスピレーション》は おそらくつねに全体観に立つものだと思われます。だとすれば 《全体》という意味での《一》となって そのヒラメキ直感による事物の把握は 一元論となる。でしょうね。  この( a )≒( c )にくらべるなら ( b )および( d )は 一般に《当事者が二人いる》ということであったり 《そこに仲介者ないし調停者がくわわる》ということであったりしましょうね。あるいはつまり 事物の内と外とで 一たん立ち場や視点を区別してそのようなふたつの立ち位置を据えるということかも知れません。  これは 大前提としてすでに 二項対立といった見方になるものと思います。光と影といった区分のばあい 双対といった呼び方もあるかと思います。  ここで( d )の切り口を《二元論》ではなく わたしがわざと《二項対立》と呼び変えたのですが つまりは質問の趣旨としまして 《当事者や事物がそれぞれふたつある》といった見方については それら両者ともいづれも特別に《根元》なのではない。と考えられるからには 《二元論》と呼ぶのは 控えたほうがよいのではないか? という問いではあるのです。  つまりは もしふたつの事物がある場合を 二元論と呼ぶことにしたなら ひとつの事物がある場合には それは では 一元論と呼ぶのか? ということになるのではないか。これは おかしい。  ひとつの事物を取り上げただけのことです。それと同じように ふたつの事物を取り上げただけの場合 どうして二元論と呼ぶのだろう? そう呼んでよいのだろうか? と問うています。  どうでしょう?  すでに少し触れ得たと思いますが  ★ ~~~~~~  例えば、私も、自然に接し、花のスケッチをしている時、花(自然)と一体となったような感覚、あるいは、美術館で絵画を見ているとき、まるで絵画の中に自分が入っていったという感覚があります。そのような一体感という感覚によって物事の本質を見極めるというのが、一元論である仏教の世界観なのではと漠然と理解している状態です。  ~~~~~~~~  ☆ ヒラメキに発する全体観としての一元論。だとわたくしも 思います。

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