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二元論とは何か?
- 二元論は、世界や事物の根本的な原理として、背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念です。
- この概念では、善と悪や精神と物体など、二つの要素が対立する関係にあると考えられます。
- 一方、一元論はすべてのものをひとつの根元から捉える考え方であり、二元論とは対照的です。一元論では、世界や事物は複数の要素に分けられるのではなく、ひとつのものとして統一されるとされます。
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>《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 誤読です。そんなこと言っていない。 たぶん、説明文を (世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から 構成される、)または(二つからなる区分に分けられる)とする概念のこと。 と読んだからこういう結論になったものと思われます。 日本語文法上、こう読むことは可能だけど、そういう意図でかいたわけじゃないでしょ? (世界や事物の根本的な原理として、)それらは<(背反する二つの原理や基本的要素から 構成される、)または(二つからなる区分に分けられる)>とする概念のこと。 と読めばよいだけ。日本語文法上、こちらの読み方も可能。というより、こちらが普通。 二区分に分ける場合も、根本的な原理で区分しないとなりません。 根本的な原理で区分したのだから、当然、勝手に統合することはナシです。 根本的な原理を統合したら、意味が変わってしまいます。 >どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。 そうですよ。そのとおりです。 でも、以下の意味であり、条件限定です。たとえば、 善悪二元論:行動Aと行動Bで、どちらが究極的に正しいかわからない。(最終で勝ったほうが善、なんだろうな。) 善悪一元論:行動Aと行動Bで、どちらが正しいかは最初から決まっている。(けれども、当事者はどちらが正しいか判明できない。) この二つを同一視してよいような議論のたてかたであれば、二元論を一元論として述べても差し支えない。 (たとえば、ごく普通に倫理を語る(=二律背反を語る)とき。) 要するに、根本的な原理そのものを語るのではなく、根本的な原理が単なる前提条件となったとき。 ゆえに、結論。 >そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 そんな用法は無いし、そんな用法を述べているという事実すら存在しない。
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- mediafreakcity
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自分と周りとは同じでしゅか。
お礼
めでぃあふりーくしてぃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ですが その内容がよく読み取れなくて。 つまり 周りは自分と違うのだから 同じになれと言っても 仕方がないということでしょうか? そんなことは あたりまえですよ。 そこを 主題についてその答えをめぐって その内容の妥当性を言わば競います。 よりよい内容を互いに目指します。 そういうことです。
- 来生 自然(@k_jinen)
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前回回答を書いた後、「無限」という言葉を比喩として提示したのは、あまり良くなかったかなと思い、こちらで回答し直すことにします。 「無限」とか「神」とかいった言葉を「はじめから」使うのは良くないですね。そもそもの誤解は、そこから始まるかも知れません。。。 「神」とか「無限」とか言った言葉を「はじめから」使うと、一つの概念が形成され「同じ土俵の上で」思索・議論が行われるかのごとく錯覚します。すなわち、いくら「否定神学」とか「○○ではない」とか「語り得ぬもの」といっても、「土俵内部」での話として捉えられかねないでしょう。 「否定神学」とか「語り得ぬもの」は >>> No.15 お礼欄 (4) つまり ★ もう一種類の存在、それは、ある種否定神学的な存在です。「はじめ」も「おわり」もない、というよりも、時間概念すら存在しないものです。 ☆ この場合に――ただし《否定神学》というのは よく知りませんが―― つまり時空間を超えた《非経験の場》として想定する場合に 哲学は《元》を用います。 (中略) (7) ただしまた ★ 「経験事象の内に収まらない」存在 ☆ これについては もし(4)の場合に当てはまるのなら それは 《非経験の場》として想定されたものとしてのみ――概念として――存在するものゆえ 《元》という言葉を当てはめます。 <<< での「非経験」に該当するといえば該当します。 ただし、「経験-非経験」という用語を用いた途端、その言葉に縛られる(土俵を同じくする)ので、個人的にはあまり好ましくはないと思います。 また、逆説的ではありますが「経験-非経験」という用語を用いる限り、「経験」と「非経験」との間の壁・境界を含めて「○○にとっての」という接頭辞を避けて通れないでしょう。 それゆえ「ヒグマと人間にとっての経験-非経験」という図式も同等に成立し、哲学的な意味において「元」という言葉をつかうことになるでしょう。 野生のヒグマに出会ったことのない人間にとって、初めての出会いにて逃げ帰ることもあるでしょうし、「繋がり合いたい」という思いから「供物」に相当する「食物」を差し出すこともあるでしょう。 まさに、 >>> No.16 お礼欄 つまりは 或る日或る時 ナゾの何ものか――神としましょう――がわが心の窓をノックする。このノックに応えて そのおとづれを受け容れる。このとき 非思考の庭が成ります。 <<< での「ノック」に相当する出会いです。 そうして「ヒグマと仲良くなれる」という「信」が生じ、「供物」に相当する「食物」を差し出すのですが、結果的に「裏切られる」(仲良くなれない)という構図になるわけです。 それを「文学」として捉えるのは、「既に知識として知っている」からであり、「非経験」である人々にとっては、まさに「哲学」に相当するわけで「元」をつかうべきでしょう。 人間として生まれ、成長し、思索する過程において、「経験-非経験」の境界は経験を積むにつれて移動していきます。その境界では、常に「個々の人々にとっての哲学的な思索」という行為がなされているわけです。境界の外部への「思い・情」(「知を愛する」)があるからこそ、非経験が一つの(あるいは複数の)極のような場所まで押しやられてくるわけです。 そういった「経験」なしに「bragelonneにとっての哲学ではない」という一方的な解釈のみで「元」をもちいるべきでないというのであれば、人類にとって「経験から学ぶ」ということをも否定しかねないと思います。 したがいまして >>> 19. けっきょく哲学としては――広義にも狭義にも―― 《神》の次元についてのみ《元》という用語を用いる。これが 原則であるのではないかと問うています。 20. 神が《善》であるかどうか 人間にはほんとうのところ 分かりませんが 少なくとも神について《善悪二元論》が成り立つという見解が従来出されて来たそのことについて それは ないだろうと言えるはずです。 21. このようであるならば 人間とヒグマとで《二元論》を構成するというのは その表現がいかにも愛嬌であるけれども それは哲学としては 愛嬌だけのものである。こう結論づけられましょう。 <<< には賛同しかねます。
お礼
つづきまして。 ★ 前回回答を書いた後、「無限」という言葉を比喩として提示したのは、あまり良くなかったかなと思い、こちらで回答し直すことにします。 ☆ 前回は前回分として 応答しています。やり取りとして成り立っていると考えます。 ★ ~~~ 「否定神学」とか「語り得ぬもの」は >>> No.15 お礼欄 (4) つまり (中略) (7) ただしまた ・・・ <<< での「非経験」に該当するといえば該当します。 ~~~~~~~ ☆ 《語り得ぬもの》については 問題なくそうでしょう。《否定神学》の言う《神》が 《非経験の場》に該当するという意味でしょうか? 特に異存はありません。 ★ ただし、「経験-非経験」という用語を用いた途端、その言葉に縛られる(土俵を同じくする)ので、個人的にはあまり好ましくはないと思います。 ☆ これは ひとつのことを忘れてしまっていることから来る発言です。《非経験の場》は あくまで《経験世界における因果関係や相互依存関係なるたぐいの経験事象から自由である場》と想定するというひとつのことです。 《想定》として定義するかぎりでは ★ その言葉に縛られる ☆ ことはありません。縛られたなら 定義から逸れたとすぐ分かるからです。 ★ また、逆説的ではありますが「経験-非経験」という用語を用いる限り、「経験」と「非経験」との間の壁・境界を含めて「○○にとっての」という接頭辞を避けて通れないでしょう。 ☆ これが 定義マチガイです。《想定》ではなく あたかも経験事象を定義するように《非経験の場》をも規定してしまった場合に落ち入るマチガイです。 そのひとつの証拠は 《想定》であるからには 《境界》が分からないのです。あるか無いかも分かりません。そして 直前のNo.17補足欄の(23)に書きましたが 《絶対で無限である非経験の場》からは この仮りのへだたりとしての境界をも突き抜けて 経験世界と関係しあうと見る結果を 人間は得ます。これは 《想定》からの派生事項です。《含み》であったとも言えます。 ★ 「○○にとっての」という接頭辞を避けて通れないでしょう。 ☆ これは 《特定の誰だれの主観にとっての》ということでしたら そのとおりだとわたしも考えます。《非経験の場つまり神》は あくまで主観の内面における《非思考の庭》における動態です。人間にとってはという意味です。 ★ それゆえ「ヒグマと人間にとっての経験-非経験」という図式も同等に成立し、哲学的な意味において「元」という言葉をつかうことになるでしょう。 ☆ 成りません。この《人間にとっての経験‐非経験》の中の《非経験》について《元》を使うのですが そのほかには使いません。 そして 《ヒグマにとっての経験‐非経験》なる図式は 仮りにそう捉えても構わないでしょうが それは あくまでそう捉えた一人の人間の主観における図式です。このとき 《非経験》のほかの事項には 《元》は使いません。 ヒグマに人間が成り切ることは出来ません。仮りに出来たとしても どうということはありません。その《ヒグマに成りきったと思っているその人の主観》の問題でしかないからです。ヒグマを代弁することは ほんとうには出来ません。 だったら ヒグマの世界は 人間とは別の無関係なる領域ではないか? もしそうだとしても ヒグマの世界から その他の人間やもろもろの世界が生じて来たとでも言うなら別ですが ただ並存・共存しているだけですから 元とは言いません。 ★(あらまし) ヒグマとの出会いと そして非経験の場のチカラがハタラキを持ってのように――つまり神が―― わが心の窓をノックするといった出会い ☆ これらは 互いにまるっきり違います。ヒグマがいつから非経験の場になったのでしょうか? ★ そうして「ヒグマと仲良くなれる」という「信」が生じ、「供物」に相当する「食物」を差し出すのですが、結果的に「裏切られる」(仲良くなれない)という構図になるわけです。 ☆ 成りません。《信》という言葉をまちがって使っています。経験事象については 文学的表現として強めのために使ったりする場合を除けば 《信じる》とは言いません。あくまで《考える》です。 《考える》世界では あやまちがあり得 ものごとは うつろいゆくものです。 ★ それ(* ヒグマとの出会いを 神との出会いに当てはめること)を「文学」として捉えるのは、「既に知識として知っている」からであり、「非経験」である人々にとっては、まさに「哲学」に相当するわけで「元」をつかうべきでしょう。 ☆ 意味が取りにくいのですが まづ ★ 「非経験」である人々 ☆ がおかしいです。人びとのそれぞれ主観において持たれている《非経験の場》という意味でしょうか? ですが ヒグマは経験事象であり 神とは別です。このことは 《文学うんぬん》の問題の以前です。 ★ 人間として生まれ、成長し、思索する過程において、「経験-非経験」の境界は経験を積むにつれて移動していきます。 ☆ あり得ません。どうしてもということでしたら それは 主観の内で 神のほうが境界を突き抜けて わが心の窓をノックするということ そしてこの神のおとづれ体験ののち なおもこのマボロシとしての神とのあいだに――主観的に――その溝が狭まったとかという体験を持つ。こう――主観の内においては――主張することは 自由です。 ただし ★ 境界の外部への「思い・情」(「知を愛する」)があるからこそ、非経験が一つの(あるいは複数の)極のような場所まで押しやられてくるわけです。 ☆ この《外部》という認識は ほんとうには あり得ません。絶対的にへだたっている神とのあいだというものが ほんとうには境界であるかどうかさえ分からないのに 内部と外部だなどと規定しうるわけがありません。(むろん錯視としてなら そうすることがありえましょうが)。 境界も隔たりも ほんとうには認識できないのに 《非経験が 一つないし複数の極のような場所にまで押しやられる》というのは いったいどういう《神体験》なのでしょう? 錯視ではないでしょうか? せいぜいが 神の代理のような言葉や概念――愛だとか義だとかあるいは 無根拠とかナゾの何ものかだとか――を持つに到って その言葉を中心にして思考の世界で理論化するといった場合があるだけです。 ★ そういった「経験」なしに「bragelonneにとっての哲学ではない」という一方的な解釈のみで「元」をもちいるべきでないというのであれば、人類にとって「経験から学ぶ」ということをも否定しかねないと思います。 ☆ そのたぐいの経験を ひとつ 例示していただければさいわいですし そのことは 論証のために必要なことでしょう。ヒグマ体験は かんばしくありません。《多元(多種)宇宙論》も 見劣りがします。 ☆☆ 21. このようであるならば 人間とヒグマとで《二元論》を構成するというのは その表現がいかにも愛嬌であるけれども それは哲学としては 愛嬌だけのものである。こう結論づけられましょう。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
「元」を「哲学」の用語とするかどうかを思索するにあたり、「否定神学」は外すことのできない概念になるでしょう。。。 >>> (11) ★ 本質的には「総体・全体」という概念に対し「否定神学的な存在」です。 ☆ この《否定神学的な》という用語の意味が分かりません。おしえてください。 <<< 肯定神学と否定神学は2種類の無限とも関連します。 肯定神学が実無限とすれば、否定神学は可能無限に該当すると考えて差し支えないでしょう。 「無限」を「最初から全体として存在する」と積極的に述べるのが肯定神学であれば、「無限」を「いままで数え上げた数では無い、それ以上」として、順に数え上げていきつつ、数え上げた物自体を否定していくことで間接的に「無限」を表象しようとするのが否定神学という概念に該当します。 可能無限と実無限、および神学との関係については、こちらに詳しい記述がありました。 よろしければ参考にしてください。 哲学するサラリーマン 2011年06月27日平行線が交わる点 http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/10216164.html あと、下記も参照になると思います。 (私は、下記掲示板でのやり取りから否定神学という概念に入りました) Re:否定神学 In Reply to: Re:否定神学 投稿者:落合 投稿日時:2003年03月04日 13時24分22秒 http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/@geoboard/348.html >>> > このスレッドの後半はジンプリチシムスさんと落合さんのお話で進行しているのですが、お二人の話の中で一箇所だけ全く理解ができない個所がありました。 > 「デリダが単数の超越的なものから複数の可能性にシフトした」 > ここの部分です。 > ここは「デリダが単数の超越的なものから複数の超越的なものの可能性にシフトした」と言い換えられると思いますが、はたして「複数の超越的なもの」というのは一体? > 私にはこの言葉の指し示すところを全く表象できないのです。 まず、前提として、このスレッドの後半の議論は、 東浩紀の『存在論的、郵便的─ジャック・デリダについて』に ジンプリさんが興味をもったというコメントに対して私が横レスを 入れたことから始まっています。 従って、 東のジャック・デリダ解釈が議論の前提となっているわけです。 で、 ここの議論ではあまり論点に絡んでこなかったので あえてこだわりませんでしたが、 もともとの東の議論で問題になっているものはあくまで 「超越論的なもの」であって「超越的なもの」ではありません。 「超越的なもの」とは「経験を超えたもの」のことで、 神がその典型でしょう。 じねんさんがおっしゃるように、多神教の形態をとる宗教も多いので、 「超越的なもの」が複数ある可能性はあります。 ただし、多神教は確かに神という超越的なものを複数認めるわけ ですが、そのぶん一人一人の神の超越性は薄まりますし、 複数の神が認められている土俵自体は(例えば八百万の神を認めても それらの神が属している世界=物語は単一であるように)単一です。 従って、「超越的なもの」を複数認める立場というのは、 いわゆる「宗教多元主義」になるかと思います。 ただし、これも主流の考え方は、「どの道から登っても頂上は同じ」 みたいな考え方で、結局、単一の「超越的なもの」に収斂してしまう ようです。 これに対して、 「超越論的なもの」というのは「経験を可能にする条件」のことで、 カントの場合、理性的存在者があらかじめ持っている直観の形式(時 間・空間)や悟性の判断形式(因果関係などのカテゴリー)という ようなものであるわけですが、レヴィナスの場合、それが他者になる。 我々は普通、経験の中で他者に出会うと考えますが、 レヴィナスは逆に、そもそも経験を可能にしているのは他者の他者性 だ、と考えるわけです。 それまでの哲学は経験を可能にしているもの(超越論的なもの)を 自己(理性や意識)の内部に求めようとしていたのですが、 そもそも「他なるもの」、自己同一性の「外」にあるものがなければ 経験というのは成り立たないのではないか。 これはカントが「物自体」を締め出した時から考えられるべき問題 だったわけですが、こういう経緯から特にポストモダン系では 「超越論的なもの」=「物自体」=「他者」というような 感じで考えられているようです。 ただし、レヴィナスはこの他者を「存在論的」に語ると 従来の認識論や存在論の説明とあまりかわらない(経験の条件が 外に行っただけという)ことになってしまい、 他者性が死んでしまうと考えたので、存在論や認識論に先行する 「倫理」の文脈でこれを語ろうとした。 このため、レヴィナスは他者への責任とか、そういう倫理学的な 文脈で語られることが多くなってしまったのですが、 もともとは近代の認識論が陥っていた袋小路を突破するという意図 があったわけです。 しかし、この「超越論的な他者」という考えを突き詰めていく 過程で、レヴィナスは他者を絶対化していくことになり、 最終的にはほとんど「単一の超越的なもの」について語っている のと同じになってしまいます。 神のような無限の超越者は人間の言葉で積極的に語ることができない ので、「~はではない」という否定的な形でしか示すことはできない。これが「否定神学」の基本的なパターンですが、「否定神学」は このように「~は語り得ない」といいながら、実はそうすることで 語り得ないものを神秘化し単一化しており、かえって雄弁に語って しまっているわけです。 レヴィナスが「否定神学」といわれるのは、「超越論的な他者」を 語っていたのが「超越的な一者」を語ることと同じになってしまう そのプロセスが、上の「否定神学」の基本パターン同じだからです。 デリダの批判によってレヴィナスはここから抜け出そうとしますが、 あまり成功したとはいえず、逆に、もともと彼が「他者」という概念 に込めていたラディカルさが失われていくことになります。 最大の問題は、レヴィナスの「超越論的な他者」と「それによって 成立した主体」という二項関係では、社会という多項関係、いわば他 者と他者との関係が問題にできず、それに対して主体をどう位置づけ たらいいのかわからない、また、複数の他者に関わる分配の正義とい うようなものが導出できないという問題です。 レヴィナスはこれをなんとか「超越論的な他者」と「それによって 成立した主体」という二項関係の枠内で解決しようとしますが、 やはり無理があったようです。 ここで、「超越論的な他者の複数性」ということが問題として浮上 します。 レヴィナスを批判したデリダも当然、この問題に直面することになりました。 従って、このスレッドで議論されている「超越論的なものの複数性」 とは、正確には「超越論的な他者の複数性」ということです。 「超越論的な他者の複数性」を語ろうとすると、なぜか「超越的な 一者」を語ることと同じになってしまう。 この思考の罠を「否定神学」と呼んでいるわけです。 ただ、私としてはデリダやレヴィナスの議論にとらわれる必要はないと 考えていますので、「超越論的なものの複数性」ということを もっと広い意味で考えています。 「超越論的なものの複数性」とは、経験を可能にする条件の複数性 ということですから、これは他にもいろいろ考えられると思います。 <<< 否定神学という用語については既に何度か用いておりますが、bragelonne様の思索(哲学)の範疇では、否定神学を含む概念形態そのものを端から排除する傾向にあったようです。。。 たとえば、下記を参照してください。 《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか http://okwave.jp/qa/q5151923_7.html#answer での回答No.2 どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか http://okwave.jp/qa/q6174142_8.html#answer での回答No.9 ※2種類の無限については、上記内部でもやり取りしています。 根本的な思索方法が変わらない限り、「哲学には否定神学を含まざるを得ない」とする私の論とは「無限に平行線」なのかも知れないですね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 (1) ▼ (哲学するサラリーマン:平行線が交わる点⇒ 無限集合とその部分集合) http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/10216164.html この議論を ご回答内容に先立って 吟味・検証します。 (2) ▼ (同上) ~~~~~~ この〔* 《無限》においては〕部分と全体との同一という定理は、先ほどの神の受肉という事態を合理的に説明することができます。 すなわちある無限集合(* =全体)を神の本質、その部分集合を神の実存と解釈すれば、神の本質はその実存と同一でありえます。つまり、神の実存は、神の本質の部分であることによって、神の本質から差異化されると同時に、また同一でもありうるのです。 ~~~~~~~~~ ☆ これは もし妥当であるとしても 説明の中のひとつのことで 用語を間違えています。 偶数の無限集合といった《部分集合》は 実無限ではありません。可能無限です。《偶数》という思考・認識の対象になっているからです。つまり言いかえると 経験事象に属します。つまり 元を用いて示される神のことではありません。 (3) ただし もしその全体としての説明が妥当であると考えられるとしたら それは 全体として仮りに経験事象のことがらとして神の世界から神の三位一体説が――つまりは特に子なる神が 肉(=人間)となったという仮説が―― 逆に投影されている。と思える。そこからでしょう。 神としての実無限である《本質》とそれの投影としての可能無限版と言うべきような《実存》という区別で説明されているそのゆえでしょう。 (4) けれどもたぶん げんみつに言えば この説明は適宜性に欠けましょう。 本質=実無限と 実存=可能無限 これらのふたつの《無限》が 互いに差異化されていると同時に互いに同一であると無理に言おうとしているからです。 ことば(=ロゴス=子なる神)が肉(=人間)となったという場合 それは 何も《実無限たる神が 可能無限のかたちを取る》というよりも そうではなく まづ一面として あくまで――聖霊であることにおいて――実無限のままであるのであり もう一面としては むろんヨセフとマリアというふたりの男女から生まれたふつうの人間であるということ。このふたつの面が 同時に存在するということ。こういう想定で 物語は語られている。 人間イエスは 神の子でありみづからも神であるキリストである。という物語上の想定です。 イエス・キリストは 神の貌(かお)と人間の――神に対して言わば《しもべ》の――貌とを同時に持つ。これです。 これが 三位一体の理論でありましょう。 (4) ▼ 無限集合にはその大きさの大小があるという定理によって、先ほどの人間の神化という事態は合理的に説明できます。 ☆ これは 落合仁司がその著書『〈神〉の証明』において ギリシャ正教が説く《神と人間との関係》を カントールの無限論を用いて証明しようとしたものです。 カントールの《無限集合にはその大きさの大小があるという》その二つ目の定理です。 (5) ところが ▼ 無理数全部の集合と自然数全部の集合とはどちらが大きいでしょうか。 ☆ と問うて始める証明は 出来ていないとわたしは考えます。 あたらしく得られた無理数の集合は 自然数の集合よりも――このときどちらも 無限集合であるのですが―― 濃度において大きいと言っていますが たぶんアヤマリでしょう。 というのは 自然数からあたらしく無理数を作り出すときに 初めに取り出した自然数の集合が無限であることを忘れていると思われるからです。 新しく得た無理数が 初めの自然数の集合の中にはないと言うのは 初めの《自然数と無理数との対応》のさせ方が すでに《無限》ではないかたちにとどめてしまっている。ことを示すからです。 いくら可能無限だからと言って どこかで《限り(果て)》があるとしてしまうのは おかしい。経験事象におさまるものであるからと言っても つねに無限大のその先に そのさらに別の数値がある。というのでなければおかしいからです。 (6) したがって ▼ この、無限集合にはその大きさの大小があるという定理によって、先ほどの人間の神化という事態は合理的に説明できます。 ☆ というのは アヤマリです。人間は人間 神は神です。人間の貌と神の貌とは 峻別されます。しかも キリスト・イエスにあっては それらが同時に存在するという幽霊話を聖書記者たちは語ったのです。 神については――《元》の問題としては―― 《非思考》なる事態です。 雲をつかむような話であり 与太話なのです。 (7) 神は三つの位格に分かれて しかもそれらの部分的な位格は――もともと神が無限(実無限)であるのですから―― それぞれやはり実無限である。こう聖書は語っています。 そのうち 子なる神が 実無限なる存在――つまり神の貌――でありつつ 同時に人間という有限なる存在――つまり人間の貌――に成るという歴史的な事件が起きたと 大嘘(虚構)を語ったのです。⇒【Q:イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。】http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7725897.html 三つ目の位格としての聖霊なる神は あたかも同じようにこの経験世界に送られたけれども このペルソナは 人間に成ることはなかった。 そして これらの《子なる神の経験世界への派遣》なる事件および《聖霊なる神の その聖霊のままでの経験世界への派遣》といった事態によって 父なる神とは別だと――いちおう――語られます。 しかも この両者の派遣については 父なる神とともに子なる神みづからもがそして聖霊なる神もが おこなっています。つまり 三つの位格は 個はほかの個と そして各個はそれぞれ全体と 全体は各個とそれぞれ ともにひとしい。一体である。 (8) すなわちさらに話はつづいていますので それにも触れます。 ▼ ~~~~ 以上見てきたように、非ユークリッド幾何学、あるいは集合論という現代数学の理論を援用することにより、われわれは内部と外部という、本来交わることのない2つの世界が交流することの可能性を垣間見ることができます。そしてそれは、無限というものを完結した実体と見る実無限の立場に立つことによって可能となるのです。 ~~~~~ ☆ おそらく ▼ 本来交わることのない2つの世界が交流することの可能性 ☆ この表現では きちんとしていないでしょう。《交わり・交流》ではないでしょう。神の貌と人間の貌との同時なる存在と表現すべきでしょう。 それは ▼ 内部と外部 ☆ このように表わして認識することが 事態の捉え方としてマチガイであるでしょう。《非経験の場》としての想定 これが ふさわしいと見られます。《外部》というのは 思考・認識の対象だからです。まだ経験事象に属するという意味です。 (9) ▼ ~~~~ 現に、神の証明に利用されたカントールの集合論にしても、さまざまな問題点が指摘されてきました。・・・この集合論の崩壊は、すべて無限集合を完結した実体としてとらえることによって必然的に引き起こされてしまうものなのです。 ~~~~~~~~ ☆ と話をついで 《サラリーマン哲学者》はなお次のようにまとめようとします。 ▼ われわれは普通、実無限の立場ではなく、無限をどこまでも延長する可能性としてとらえる可能無限の立場に立っているのではないでしょうか。 ☆ すなわちこの言明は われわれが初めから見てきたように 《本質と実存》や《自然数の集合と無理数の集合との比較》などによって 《神の受肉》や《人間の神化》を証明するとき そのまま《可能無限》の話を語っていたということと符合します。 初めから そのような話をすすめて来ていたわけです。 (10) 前項の話には ドストエフスキーの小説から 死(刑死)を前にした人間の心理が描かれたくだりを引いてさらに論じる話が添えられています。 意味がない。と判断しました。 ▼ そしてわれわれの内部と外部がどこか無限遠点で交わっていることも確かでしょう。あくまで自己の内部から出発し、その立場を徹底させながら、しかもどうやって外部を自己の内に取り込んでいくのか、これこそわれわれの取りうる唯一にして困難な課題だと思われるのです。 ☆ このようにあくまで《内と外》としてしか――つまりは 可能無限にかかわる経験事象の範囲内のこととしてしか―― 捉えていないからです。《元》とも《実無限=神》とも関係のない話で終わっています。 このあと 補足欄につづけます。
補足
お礼欄からつづています。 (11) ★ 肯定神学が実無限とすれば、否定神学は可能無限に該当すると考えて差し支えないでしょう。 ☆ きわめてあいまいな定義ですが まづは従いましょう。 (12) ★ ~~~~ 「無限」を「最初から全体として存在する」と積極的に述べるのが肯定神学であれば、「無限」を「いままで数え上げた数では無い、それ以上」として、順に数え上げていきつつ、数え上げた物自体を否定していくことで間接的に「無限」を表象しようとするのが否定神学という概念に該当します。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 後者について それは《可能無限》のことだと分かりますが――そしてその手法を用いて《神は何々ではない》というかたちで神を定義するということが 《否定神学》だとすれば そのことも分かりますが―― ひとつに その手法(つまり 神は何でないかという問い方)はふつうのことであり もうひとつに 前者すなわち肯定神学のことが 一向に分かりません。 (13) ★ 「無限」を「最初から全体として存在する」と積極的に述べるのが肯定神学 ☆ 分かる人がいましょうか? (あ) 無限は あくまで想定するものですよ。経験事象ではありません。(しかもその有限な経験存在であるわれわれ人間が この無限や絶対なることを想像しうるということは ひとつの驚異です)。 (い) 《無限》――実無限――については ですから 《有る》と言っても《無い》と言っても 無限じたいは 痛くも痒くもなく ただただその神学は人の自由にゆだねられています。有神論を採っても無神論をえらんでもかまわない。両者は――無限なる想定について―― たがいに同等である。 (う) そういう内容をもった無限について 《「最初から全体として存在する」と積極的に述べる》こととして定義する。のですか? 何とも言葉が出ません。 (え) いったい無限ないし神を何だと思っていましょう? つまり この主題については お礼欄でのわたしの応答を参照してください。 (14) ★(たぶん じねんさんの文) はたして「複数の超越的なもの」というのは一体? ◆(落合さん) ~~~~~~ 複数の神が認められている土俵自体は(例えば八百万の神を認めても それらの神が属している世界=物語は単一であるように)単一です。 ~~~~~~~~~~~ ☆ これは――文学的な表現になりますが―― 多神というのは 《全体としてのひとつの元〔なる神〕》の分身と捉えればよいでしょう。 (15) したがって ◆ ~~~ 従って、「超越的なもの」を複数認める立場というのは、 いわゆる「宗教多元主義」になるかと思います。 ~~~~~ ☆ には成りません。もう議論済みなはずですが 《複数》を認めるということは 思考による知解行為の世界です。つまり 経験事象です。《分身なる部分的な神》やそれについてのオシエ これらはすべて経験事象です。《元》は用いません。 ◆ ~~~~ ただし、これも主流の考え方は、「どの道から登っても頂上は同じ」 みたいな考え方で、結局、単一の「超越的なもの」に収斂してしまうようです。 ~~~~~ ☆ と締めくくってはいるようですが。 (16) ◆(落合さん) ~~~~ 神のような無限の超越者は人間の言葉で積極的に語ることができない ので、「~ではない」という否定的な形でしか示すことはできない。 これが「否定神学」の基本的なパターンですが、「否定神学」は このように「~は語り得ない」といいながら、実はそうすることで 語り得ないものを神秘化し単一化しており、かえって雄弁に語って しまっているわけです。 ~~~~~~~~~~ ☆ これは 神学を単純化しすぎです。 神は 《非経験の場》と想定されますから 《経験世界》のことではないわけです。そのことを示すために 経験事象のいくつかをわざわざ取り上げ これこれではない あれそれではないと言って説明している。ただそれだけのことです。 神は 人間の眼に見えるいわしのあたまではない。いわしの生命というべきような・科学の眼に見えるそのDNA これも 神ではない。このように認識しようとしている人間の知性も いかんせん 朽ちゆき限りある人間存在に属しており 永遠ではない。つまり 神ではない。 精神は 永遠ではなく 神は人間の精神ではない。 じんるいは DNA が生きるかぎり永続するかも知れないが 仮りにそうだとしても その人類の永続と同じように わが精神が永続するのではない。精神がそのように世界についての認識として捉えたに過ぎず その認識の中で《永続している》に過ぎない。 うんぬん うんぬんと言って 神は何であるかを 神は何でないかと問うことによって説明しようとする手法です。そして それだけのことです。 (17) つまり ◆ ~~~~ このように「~は語り得ない」といいながら、実はそうすることで 語り得ないものを神秘化し単一化しており、かえって雄弁に語って しまっているわけです。 ~~~~~ ☆ というのは ただその人の取り様によって そう見える。だけのことです。《雄弁に語った》というのなら その内容は何か? どうであるか? それを吟味すればよいだけの話です。 だいたいが 神学をおちょくっています。 (18) ◆ ~~~~ レヴィナスが「否定神学」といわれるのは、「超越論的な他者」を 語っていたのが「超越的な一者」を語ることと同じになってしまう そのプロセスが、上の「否定神学」の基本パターン同じだからです。 ~~~~~~~~ ☆ こんなことは どうでもよろしい。《非経験の場》として想定する。超越的だろうが超越論的だろうか このひと言で問題はありません。生じません。 ◆ 他者 ☆ という用語が――内と外の《外》と同じく またその概念の《ラヂカルさ》がどうあろうと―― あいまいなだけです。 (19) ◆ レヴィナスの「超越論的な他者」と「それによって成立した主体」という二項関係 ☆ これは もともと――神による主体なる人間の創造といった表現の問題であることから分かるように―― 議論になじみません。 (20) ★ 否定神学という用語については既に何度か用いておりますが、bragelonne様の思索(哲学)の範疇では、否定神学を含む概念形態そのものを端から排除する傾向にあったようです。。。 ☆ (16)に明らかです。手法は手法として用いられている。と見る。それだけだ。です。《排除》はしていません。 (21) そして ただし 内と外 ないしそこに捉えられている《境界》とその概念 これは 《非経験の場》にとって 何ら関係しない。こういうことです。これが 大前提です。 意味は 境界を見て・あるいは人為的にもうけて ものごとを認識するという作業は あくまで経験事象に限られている。だから 神(非経験の場)の定義には 関係しない。これです。 (22) このときには確かに ★ 根本的な思索方法が変わらない限り、「哲学には否定神学を含まざるを得ない」とする私の論とは「無限に平行線」なのかも知れないですね。 ☆ とこちらからも言わねばならないかも分かりません。こちらからは 《経験世界》と《非経験の場》(これは 想定のみ)との峻別をおこたっているのではないかと責めなければなりません。 (23) ところが――この時点で言っておきたいのですが―― ただ想定しただけの《非経験の場》は 経験世界を超えているという定義の内容から おどろくべき《含み》ないし派生事項を持つ。のです。 無限が 有限の世界と絶対的にへだたっているということ(これが 想定としての定義です)からは 無限=神は 有限=経験世界を おおい包むという推理が出て来ます。《絶対的なへだたり》から 《そのへだたりをなおも今度は逆方向に超えて 関係しあう》という推理結果が得られて来ます。 そこから 創造主であるとかといった文学的な表現も生まれました。うんぬん。 この点をも ここで 添えておきます。 すなわち 《否定神学》とはまったく違う内容をも見ている。ことになります。とお伝えします。 (24) ★★(《個人》の概念ないし繭・・・:回答No.2) ~~~~ もしかしたら、「私・境界・外部」の3つは、同時成立的なのではないだろうか? と。。。 どれか一つでも欠ければ、他の二つは存在し得ない。。。 ~~~~~~~~~ ☆ そういう議論もおもしろいでしょうが いま《元》ないし神の話とは 別です。どこまでも経験事象ないし 無限としても可能無限のみを あつかっているからです。これでは 神の問題にとどいていません。 だから――そういうたぐいの議論ばっかりおこなっているものだから―― 人から《神は 人間が想像し造ったものに過ぎない》と何度も言われてしまいましょう。 (25) 【Q:どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか】 これも 回答No.9でのやり取りで 話は足りていると考えます。 (26) じねんさんは いまも《経験世界》と《非経験の場》との区別をしようとなさらない。その後者の想定を受け留めようとなさらない。こういうことのようです。 もしそうであれば どの言語でも持たれている《かみ》という言葉について ご自分の定義を われわれが納得しうるように おこなっておくこと。これが 必須のことです。よ。
- amenhotep2000
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なんとか食らいついていこうと四苦八苦していております。ハイレベルな議論にほとんど理解できていないので、回答と言うより、質問ですが、ぶらじゅろんぬさんの「非思考の庭」というのには、人が意識できるものなのでしょうか?私はNo.12のお礼を理解するために、志向性とは何かと調べて、ネットで意識はなにものかの意識であるという意味もわからず、「意識」というものを本で調べてみました。すると「すべての定義は意識が行なうので、意識の定義はない」が「現代では現象学以後、意識の基本構造を志向性として捉えることが定着したようである。すなわち意識はその対象との関係における方向性であるとされる」とありました。No.12のお礼で求心的志向性、遠心的志向性の両方を含む「非思考の庭」の神を人は意識できるのでしょうか?カントは人間の意識が構成できる対象範囲を経験可能なものの領域に限定して人間に取っての世界(現象界)だけしか、認識できないとしたようですが、ぶらじゅろんぬさんの世界観はどのようなものなのかご教授くださると幸いです。じねんさんのお薦めの哲学入門書の「現象学」も読まないと回答にもなりません。すみませんが、よろしくお願いいたします。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 出来る限り説明してまいります。 ★ ぶらじゅろんぬさんの「非思考の庭」というのには、人が意識できるものなのでしょうか? ☆ 《非思考の庭》とは わが心に出来た或る種の窓ととらえてください。 窓を開けて外を見ると言っても その内と外というようには出来ていないはずですが 《志向性》という言葉も出て来たようですので 心の伸び あるいは 心の明け と捉えてください。それが 《非思考の庭が わが心に成る》という意味です。 つまりは 或る日或る時 ナゾの何ものか――神としましょう――がわが心の窓をノックする。このノックに応えて そのおとづれを受け容れる。このとき 非思考の庭が成ります。 《神なるナゾの何ものか》 これは 意識することが出来ません。思考によっても認識出来ません。わづかに ノックするというかのようなまぼろしを知覚する。のみです。 ただし しかも このまぼろしの知覚を受け留めて さらにこのおとづれを《わたし》は受け容れることが起こる。(こばむことも 自由ですが)。そのときには 相手がまぼろしであるにもかかわらず この《受け容れ》というコトは 《わたし》が意識しており ワタシの意志によっておこなう行為である。という見取り図になっています。 《非思考の庭が わが心に成った》なら どういうことが起きるのか? 問題は わが心が《明け》の状態にある。つまりは はっきりしていることは 《閉じられていない》ということです。これが いわゆる信仰です。信仰という動態です。《ナゾの何ものかを受け容れる》というのが 《信じる》という行為です。 ナゾの何ものかは 非経験の場でありそのチカラです。いっさい分かりません。分かるか分からないかが分かりません。 これを受け容れるというのは 経験的なわが意志行為です。行為そのものは 意識されており 認識もされています。 こういう仕組みになっていると考えます。 《意識》というのは 世界のすべてを知覚し認識したそのものごとと《わたし》との関係です。 意識していない場合にも そのものごととワタシは関係を持っており それは記憶の倉庫におさめられています。 《求心的な志向性》というのは ワタシの内面へ内面へと迫っていくときの意識のウゴキです。反対が 遠心的な志向性です。 このような志向性は 厳密には 《非思考の庭》においてなされるものではありません。それは 記憶行為のほかに生まれつきそなわった《知解》という行為能力によって成されます。 つまり おっしゃるように ★ カントは人間の意識が構成できる対象範囲を経験可能なものの領域に限定して人間に取っての世界(現象界)だけしか、認識できないとしたようですが ☆ ということであるはずです。 そのように記憶の倉庫から必要な知識や情報を探し出すという知解行為は そうしようとする《意志》によってみちびかれています。 かくして 記憶と知解と意志 これら三つが われわれ人間にそなわった自然本性の行為能力だと見られます。 こんなところでしょうか。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
>>> No. 14 お礼欄 世界の基軸となる国が 複数あって二極的とか多極的とか言うとき ジャーナリズムでは多元論といった言い方をするかも知れません。ですが それは 哲学にとって意味がありません。《依存関係から自由な存在》を言っているのではないからです。 <<< おっしゃりたいことは、分かります。 私が「はじめに総体・全体があって、個はそこから派生する。」 というとき、2種類の派生を想定しています。さらにいえば、「派生」以外の存在(最低、計3つのパターン)を想定してます。 2種類の派生は、触れなくてもいい位でしょうが、くり返します。一つは例えば多元宇宙論のレベルIからIVというレベルで、「完全に相互作用・関連性が失われた、依存関係から自由な存在」です。もう一つは「(程度の差はあれ)依存関係のある存在」です。 もう一種類の存在、それは、ある種否定神学的な存在です。「はじめ」も「おわり」もない、というよりも、時間概念すら存在しないものです。 (派生した)多元宇宙という概念は、それぞれの宇宙内部でそれぞれの法則・時間軸という概念を包含しています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%85%83%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96 >>> テグマークは次のような考えを提唱する。抽象数学は非常に一般的なので、(人間の曖昧な言葉から独立した)どんな純粋な形式言語で定義可能な万物の理論 (TOE) もまた数学的構造である。例えば、異なる種類の実体(言葉で表現される)やそれらの関係(さらなる言葉で表現される)を含むTOEは数学者が集合論的モデルと呼ぶものに他ならず、一般的にその集合論的モデルを構成する形式体系を見出すことができる。これは、あらゆる想像することのできる平行宇宙理論はレベルIVの段階で記述可能であることを暗示する。レベルIV 多元宇宙は全ての他の集合 (ensembles) を包含するので、多元宇宙の階層の上限となり、レベルV 多次元宇宙を考える余地はない[8]。 <<< テグマークの言を借りれば、抽象数学で記述不可能なレベルV多元宇宙に相当するといっていいでしょう。 「包含関係にない」存在です。あるいは、「経験事象の内に収まらない」存在です。 ただし、一度でも他の存在と関連性を持ち得た(持ちうる)可能性を排除できないのであれば、そのような「包含関係にない」存在もまた、思考対象としての「総体・全体」として捉えられ得るでしょうが、本質的には「総体・全体」という概念に対し「否定神学的な存在」です。 さて、私が「哲学」というとき、「広義の哲学」を想定します。「科への分科」以前のあらゆる思索を含む「知を愛する」です。 bragelonneさんが、「哲学にとって意味がない」として排除されるとき、たとえば「それは文学だ」とおっしゃるとき、そこには「狭義の哲学」が垣間見られます。まさにbragelonneさんにとっての、境界概念が形成されているようです。 多元宇宙論は科学と非科学の境界付近にある概念ですが、哲学的対象としても捉えられる事項で、狭義の哲学という意味においても「多元」という文字を排除することは困難なのではないでしょうか? さて、多元宇宙の概念は、(抽象数学概念に基づいて)「包含する」を前提としてレベルIからIVまで分類されるようですが、たとえそのレベルIVまでに留まったとしても、「それ以外(たとえばレベルV)」を想定して考えるということをします。結論で用いないにしても、思索過程で必要なものであるかぎり、「包含関係にないレベルV以上」は排除しえないわけです。 bragelonneさんの境界概念からすれば、論理的整合性のある結論としての「レベルIV」までで境界概念を形成し、抽象数学の範疇外、すなわち非論理的な「包含関係にないレベルV以上」は、対象外だとするということではないでしょうか? 私の想定している「広義の哲学」では、そういった「○○ではない」という否定神学的レベルも含まざるを得ないです。 なぜなら、「思索しようとする思い」の過程で生み出されたものだからです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 一つは例えば多元宇宙論のレベルIからIVというレベルで、「完全に相互作用・関連性が失われた、依存関係から自由な存在」です。 ☆ このように経験世界をあつかう場合に《元》を用いることにも 哲学としては 異議をとなえています。 ▼ (ヰキぺ:多元宇宙論) ~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%85%83%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96 (たげんうちゅうろん、Multiverse)とは、 複数の宇宙の存在を仮定する仮説である。 § 1 概要 多元宇宙 (multiverse, meta-universe or metaverse) は、仮説として可能性のある複数の宇宙の集合である。 多元宇宙はすべての存在を含む。これは、われわれが一貫して経験している歴史的な宇宙に加え、空間、時間、物質、およびエネルギーの全体、そして、それらを記述する物理法則および物理定数なども含まれる。 この語は1895年にアメリカの哲学者で心理学者のWilliam Jamesによって造られた。多元宇宙が含むそれぞれの宇宙は、平行宇宙 (parallel universes) と呼ばれることもある。 多元宇宙の構造、そこに含まれるそれぞれの宇宙の性質、およびそれら宇宙の間の関係は、考えている特定の多元宇宙仮説に依存する。 宇宙が一つでないと考える理由(多元宇宙が存在する意味)は仮説によってさまざまである。宇宙論、物理学、天文学、宗教、哲学、トランスパーソナル心理学およびフィクション、特にサイエンスフィクションとファンタジーにおいて、多元宇宙の仮説が立てられてきた。 ~~~~~~~~~~~ (1) ▼ 複数の宇宙の存在 ☆ というとき この《存在》はあくまで経験世界であることを前提としているはずです。ならば 《他には依存せず独立して存在する》の条件を満たしません。《独立》という要素です。 (2) つまり《複数》というように数えることのできる場合――つまり思考によって認識しうる場合―― それは 経験事象であることを物語ります。 たとえ相互に依存していなくても 独立した存在ではない。と考えられるからです。人間の認識の内におさまるゆえ 独立していない。 (3) すなわち ▼ 多元宇宙の構造、そこに含まれるそれぞれの宇宙の性質、およびそれら宇宙の間の関係は、考えている特定の多元宇宙仮説に依存する。 ☆ というように《経験合理性にもとづく経験思考》の対象であるという意味において 依存関係や相関関係あるいは《依存関係になく経験的に並立する〔無〕関係》にあるなら もろもろのモノゴトの内の一つひとつであると哲学は認識します。基本的に《元》は用いません。 (4) つまり ★ もう一種類の存在、それは、ある種否定神学的な存在です。「はじめ」も「おわり」もない、というよりも、時間概念すら存在しないものです。 ☆ この場合に――ただし《否定神学》というのは よく知りませんが―― つまり時空間を超えた《非経験の場》として想定する場合に 哲学は《元》を用います。 (5) 文学的な表現を この場合の自然科学もが借用したということだと考えます。《多数宇宙》もしくは《多種宇宙》というほどの概念であるはずです。 * (6) ★ ~~~~ テグマークの言を借りれば、抽象数学で記述不可能なレベルV多元宇宙に相当するといっていいでしょう。 「包含関係にない」存在です。あるいは、「経験事象の内に収まらない」存在です。 ~~~~~~ ☆ 同じことです。(3)が妥当します。 ★ 「包含関係にない」存在 ☆ であっても 思考や認識の対象であるから 経験事象です。 (7) ただしまた ★ 「経験事象の内に収まらない」存在 ☆ これについては もし(4)の場合に当てはまるのなら それは 《非経験の場》として想定されたものとしてのみ――概念として――存在するものゆえ 《元》という言葉を当てはめます。 (8) 前項への註ですが 《非経験の場》は それを《想定された概念としてのみ存在する》と定義するのはマチガイです。そのように想定された場合 じつは その非経験の場は この経験世界を覆い包むという可能性がありうるからです。つまり《絶対・無限・不可変性》という・人間にとっては非知の領域だからです。《分かるか分からないかが分からない》。 (9) 言いかえると 非経験の場は 《わたし》の主観においては いかようにもその存在が――無と見る場合をふくめて――知覚したととなえたり描いたりすることができる。というふうに帰結される・なかなかやっかいな存在です。つまり 神のことです。 (10) ただしさらに微妙な問題に細かくふれるなら――触れなければならないと思われることには―― ★ 「経験事象の内に収まらない」 ☆ というとき その《おさまらない》ということが 経験事象として観測されたり実験などによって検証されたりするというのなら それは《非経験の場》という想定にはなりません。 《経験事象の内には収まらない》というかたちでその経験合理的な思考ないし認識の内に――つまり経験事象の内に――おさまっているからです。 (11) ★ 本質的には「総体・全体」という概念に対し「否定神学的な存在」です。 ☆ この《否定神学的な》という用語の意味が分かりません。おしえてください。 (12) ★ ~~~~~ さて、多元宇宙の概念は、・・・たとえそのレベルIVまでに留まったとしても、「それ以外(たとえばレベルV)」を想定して考えるということをします。結論で用いないにしても、思索過程で必要なものであるかぎり、「包含関係にないレベルV以上」は排除しえないわけです。 ~~~~~~~~~~ ☆ これは 《想定》する内容が違っています。つまり 《想定して〈考える〉》あるいは《〈思索〉過程で必要なものであるかぎり》と言っています。これは 経験事象の範囲内にあることを前提しているようです。明らかに《元》を――《広義の哲学》においても従わなければならない約束ごととして―― 用いることがらではありません。 (13) あくまで《経験世界》と《非経験の場》とを峻別してください。次のうたがいについても ですから すでにお応えしています。 ★ ~~~~ bragelonneさんの境界概念からすれば、論理的整合性のある結論としての「レベルIV」までで境界概念を形成し、抽象数学の範疇外、すなわち非論理的な「包含関係にないレベルV以上」は、対象外だとするということではないでしょうか? ~~~~~~ (14) 次の言明についても 同じことです。《思索・思い》の問題は 経験事象に属し 《非経験の場》にかかわらないので《元》を使用しない。この原則です。 ★ ~~~ 私の想定している「広義の哲学」では、そういった「○○ではない」という否定神学的レベルも含まざるを得ないです。 なぜなら、「思索しようとする思い」の過程で生み出されたものだからです。 ~~~~~ (15) 《否定神学》というのは 《「○○ではない」》と規定して《境界を置く》ことを言うのでしょうか? それはよく分かりません。何とも分かりません。 (16) わたしが哲学というときには 表現の自由をいかなる制約や約束事にもこだわらず最後まで追求するという意味での広義の文学を内包します。つまり 《文学》的表現としては 科学においても《元》を使用すると言っており そのことをも哲学は含みます。 ただし 哲学としては――広義においても狭義においても―― そのような《元》の使用はマチガイだと言っています。 (17) この《元》の用法は 取り決めあったなら 従うべきだと考えますが そこまでの強制を意図したものではありません。広義にも狭義にも哲学としてなら 《元》の使い方について確認しあっておくことは 大事だと思っている。いかがか? という質問です。
補足
★ 否定神学 ☆ か肯定神学か知りませんが わたしの見解を――つまり《元》としての神についての見解を――明らかにしておくのがよいと考えました。誤解や無駄な議論を防ぎ 意志疎通をなめらかにしましょう。 ○ 三位一体なる神およびこの世界について 1. 神は 三つの位格(ペルソナ)が 絶対として 一体となった一つの本質(存在)である。 1-1. 《絶対》とは 人間にとってその存在が《分かるか分からないかが分からない》ところの《非経験の場》である。 2. 人は 一人ひとりの存在に 三つの行為能力が――相対的に・つまりは時間的な過程として―― 一体となった自然本性を持つ。 3. 三つの行為能力の――時間的な懸隔をともなった―― 一体性が すでに次元を別にしていて はなはだ不類似ながらいくらかは 神の三位一体に似ている。これが 《ひとは 神のかたちに似せて 造られた》(創世記1:27)の意味です。 4. 父と子と聖霊から成る神の三位一体の説明には 光の喩えが 用いられる。 ・《光源》が 父なるペルソナの神。 ・光源からの《発耀》が あたかも父から生まれた子なるペルソナの神。 ・光源および発耀から発出する《明るさ・暖かさ》が 父および子から発出する第三のペルソナである聖霊なる神。 5. 光源も発耀も明・暖も 光として 一体であるように 神の位格も 子の父と 父の子と 父および子から発出する聖霊と 三者は 一体である。 6. その一体性というのは 《絶対》としてであるゆえ 父なる神も 子なる神も 聖霊なる神も 各個が各個と 各個は全体と 全体は各個と それぞれ 等しいというものである。 7. 無限は――絶対であるが―― それを仮りに分割すれば じつは分割しても その各部分はやはり 無限である。こういう想定である。 8. 人は 経験的な知識や知恵を 記憶します。心の体験や あるいは 魂の発動をも 記憶します。また 記憶する前から 精神の秩序が この《記憶》という行為能力には あると考えられる。 9. 記憶という宝庫から 人は もろもろのことを 《知解》します。あたかも記憶から生まれるというかのように。 10. 人の自然本性として備わる行為能力には さらに 三つ目がある。すでに 記憶するに際して あるいは そこからの知解を得るときに 何の問題についてか・またその問題のためにどういうことを知りたいか そういった主題や方法の意識をもって はたらく行為能力。これは 《意志》と呼ばれる。 11. ここで 早道をすれば 単純な類似関係として 《記憶》が父なる神に 《知解》が子なる神に 《意志》が聖霊なる神に それぞれ 比べられるという。 12. 意志は 意志行為として まづ社会にあって相手が存在している。相手との関係が具体化して交通し合うとなれば そこに方向性と向きとが 決まる。こういった関係性を 一般的な意味での《愛》と言う。 12-1. 方向性ないし志向性としての関係性は カカワリである。カカワリにおいて具体的にマジワリを持つとき 正負の向きが決まる。一般に好き嫌いである。この好悪ないし愛情および憎悪を全体として 一般的な《愛》に含める。愛の中身は 基礎としては意志である。 12-2. 神学としてなら 意志ないし愛は 善悪の彼岸というかのように愛憎を超えた内容としての愛を想定するムキがある。しかも これは――《一切衆生 悉有仏性》とも言うように―― 一般的な常識となっているらしい。 13. つまり 意志は 個なる〔社会的な〕独立存在として 自由意志であり ひととの関係性において 愛である。 13-1. 好き嫌いあるいは 愛する・憎む・あるいは両者を超える いづれをえらぶにも 人間の意志は その自由をうったえている。という自然本性。 13-2. 聖霊は 父と子から発出する明るさや暖かさである。この《人の意志》と《神の位格としての聖霊》との類似は その内実が 《愛》である。 14. 意志=愛は 家族にあって 愛。組織にあって 経営。社会にあって 自治・共同自治。 15. 社会全体としては 記憶が 法秩序。知解は 経済。意志は 政治。 16. 三権分立としては 記憶が 司法。知解は 立法。意志が 行政。つまりは 三権分立も 三権の分業かつ協業としての一体性を持つと考えられる。つまり 《三位一体なる神の似像(にすがた)》であると思われる。 17. このような人間と社会の成り立ち つまりは全体として世界の構造 これを見立てるところの神学(ないし信仰= 非思考の庭)を表わしました。 18. これらを図示します。 ○ (三位一体説なる神学とその世界観) ~~~~~~~~ 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ) 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神) ____________________________ スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A ) ____________________________ 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [S者/S圏] 個体・・・・・・・・・・・・家 族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 ) 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 19. けっきょく哲学としては――広義にも狭義にも―― 《神》の次元についてのみ《元》という用語を用いる。これが 原則であるのではないかと問うています。 20. 神が《善》であるかどうか 人間にはほんとうのところ 分かりませんが 少なくとも神について《善悪二元論》が成り立つという見解が従来出されて来たそのことについて それは ないだろうと言えるはずです。 21. このようであるならば 人間とヒグマとで《二元論》を構成するというのは その表現がいかにも愛嬌であるけれども それは哲学としては 愛嬌だけのものである。こう結論づけられましょう。
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。。。なるほど。。。 「何か一つに決まる」というのを(bragelonneさんにとっての)哲学的 (立場によって)「様々にあり得る」というのを文学的 と表現しておられるわけですね? (立場によって)「様々にあり得る」というのも哲学的だとする思考があるようです。。。 関心相関性について。。。構造構成主義に関する私見。。。2。。。 http://jinen.exblog.jp/7155100 >>> 構造構成主義では、竹田氏の身体・欲望・関心相関性などという概念に相当するものとして、関心相関性という用語を用いている。この、関心相関性という概念は、「物事(真実)に対して相関的に(真理を含む)概念・構造※が、たち現れる」ということである。 ※この場合の「たち現れる概念・構造」は、まさに私的概念であるところの「知的切断面」に相当します。また、たち現れ方は、まさに「多義図形的」だといえます。 関心相関性は、ややもすれば、「関心を抱くことで(原因)、概念が形成される(結果)」といった捉え方に陥ってしまいがちになるが、そうであれば、「関心因果性」という言葉になってしまうだろう。 ※07/07/21 04:40補足 さらにいえば、主観・客観的関係の全てを因果論として捉えるならば、通常は、主体側の能動性・恣意性(原因)が意識・認識を決定している(結果)であろうが、前野氏の受動意識仮説は、物質側・環境側(原因)が意識を決定している(結果)という理論になるであろう。 07/07/22 05:00追加 私的には両者共に正しく、両者共に正しくない、というより、因果関係として捉えるべきものではないというのが本来的であろうと考える。 あえて相関性を用いている真意については、西條氏と直接mixiにてやり取りさせていただいたが、以下の通りだと理解している。 関心を抱く主体(わたし)と関心そのもの(情的方向性)と(立ち現れる)概念・構造・知的切断面が、同時に、まさに「相関的」に、(誤解を覚悟で、さらに突っ込んで言えば)非因果的に共時的に、生じる。 ということである。 このことは、主観側の側面に立てば、まさに、当ブログでの「わたし」とその「境界」の動的な変化そのものであり、切り分けることが不可能な主観・客観を結ぶ関係の側面に立てば、まさに、ユング・パウリの対話にても出てくるところの非因果的連関・共時性概念に相当するであろうし、客観側の側面に立てば、ゼノンのパラドックスの私的見解(知の限界に関するパラドックス)や、多義図形の概念(知的切断)そのものになるであろう。 ※動的な境界に関するブログ内既投稿へのリンク http://jinen.exblog.jp/2066753 http://jinen.exblog.jp/2050632 ※多義図形に関するブログ内既投稿へのリンク http://jinen.exblog.jp/1636093 ※情・知の関係(境界および多義図形の観点から見た私的概念) 07/07/22 05:00リンク追加 http://jinen.exblog.jp/6119786 ※ゼノンのパラドックスに対する私見へのリンク http://jinen.exblog.jp/593874 ※非因果的概念に関するブログ内既投稿へのリンク http://jinen.exblog.jp/4044620 http://jinen.exblog.jp/5140052 http://jinen.exblog.jp/4113042 ============================== ※07/07/22 06:20 重大なミスを発見、取消線で消去し、書き換えました。(紫部分) --- 該当部分削除しました。(08/02/24) ※07/07/22 06:25 関心相関性については、「構造構成主義とは何か」のp.75-76にてまとめられている。 本来的には「志向相関性」であるが、研究という営みにおいては、関心相関性という言葉の方が扱いやすいからこれを用いるとある。 また、この「関心相関性」に関する上記ページ以降の数ページに渡り、(おそらく人間科学ないし心理学分野内での)批判に対する応答が述べられているが、結局の所、主観・客観問題に直結した問題を、構造構成主義とそれに対する批判という構造的側面から、再度記述し直している(知的に切断し直している、視点を変えた概念として捉え直している)とも言える部分である。 ※07/07/22 07:20 ここでいうところの「因果的、非因果的」は、現行、心脳問題、あるいは、チャマーズのハードプロブレムと呼ばれる問題に直結しています。 1.因果的 1-1.物質的側面からの精神的側面発生の可能性(物質側を原因として精神側を結果とみなす) 外部刺激や脳の電位に代表される物質的側面での変化があるからこそ、意識に代表される「こころ」が生まれる。 1-2.精神的側面内部(脳内部)での因果性(こころの恣意性・能動性と受動性) 前野氏の受動意識仮説:脳内で決定されたことが、意識として認識される。 1-3.非科学的な因果関係 物質と精神とが(遠隔的な)相互作用を行いうる。 2.非因果的 2-1.広義の非因果的(捉え方次第で、非科学的になりやすい領域) 物質と精神との間に関連性がある。 2-2.狭義の非因果的(概念形成に関与しうる項目間の関連性に限定) 構造構成主義や、上述している主観・客観問題に相当。 物事が因果的であるか、非因果的(相関的)であるかといった捉え方が、それぞれ可能(内部無矛盾な構造として構築可能)である場合、因果的・非因果的といったことは交換可能(それぞれの立場で構成可能)といえます。 このことは、対象を概念に限定した場合、「因果的・非因果的という考え方の両方が正しい(=概念・真理≠真実)」といった捉え方自体、構造構成主義的、あるいは、竹田氏の現象学的な捉え方、ないし、(私的な)多義図形・知的切断的な捉え方として、「あり」だということを意味しています。 <<<
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ 「何か一つに決まる」というのを(bragelonneさんにとっての)哲学的 (立場によって)「様々にあり得る」というのを文学的 と表現しておられるわけですね? ~~~~~~ ☆ ちがいます。 ○ 《他の何ものにも依存せず独立して存在するものを〈元〉と呼ぶ》。すなわち これが 広義の元のことですが それ以外に狭義の元があるとしても それを用いても けっきょく哲学においては 意味がない。 こう言っています。 ★ (立場によって)「様々にあり得る」というのも哲学的だとする思考があるようです。。。 ☆ ということと そのとき《元》という言葉を用いるかどうかは 別の問題です。二項対立や双対と言う用語でじゅうぶんな場合には 《さまざまにあり得る》ことを 二元論とか多元論とかとは 哲学では言わない。と言っています。 世界の基軸となる国が 複数あって二極的とか多極的とか言うとき ジャーナリズムでは多元論といった言い方をするかも知れません。ですが それは 哲学にとって意味がありません。《依存関係から自由な存在》を言っているのではないからです。 ★ 関心相関性という概念は、「物事(真実)に対して相関的に(真理を含む)概念・構造※が、たち現れる」ということである。 ☆ この《真理》という言葉は あくまで経験世界における《事実》か《真実》のことを言っています。つまり 相対的な妥当性のあるものごとのことです。相互依存関係にある事象です。 哲学としては そのものごとに《元》を使わない。こういうことです。使っても意味がないからです。強めのための修辞にしか過ぎない。その意味で文学だと言っています。 ★ 前野氏の受動意識仮説は、物質側・環境側(原因)が意識を決定している(結果)という理論になるであろう。 ☆ この主題は すでにやり取り済みです。意志がはたらいたけれども そのときにはまだ意識に上がっていない。そしてそのあと 意識に上がる。という経過をたどるというのみです。 《物質側・環境側(原因)》だけではなく すでに同時に人間の側の意志が――まだ意識されずに――はたらいているという側面を見落としています。 ★ 因果関係として捉えるべきものではないというのが本来的であろうと考える。 ★ (誤解を覚悟で、さらに突っ込んで言えば)非因果的に共時的に、生じる。 ★ 非因果的連関 ★ 非因果的(相関的) ☆ これらの《非因果的》というのは 中身が明らかではありません。たとえ明らかではなくても 分かっていることは すべて 経験事象の内におさまるということです。 《物と心 あるいは 身体と精神》 これらの双対について たしかに一時期もしくは一部において 二元論という呼び方をしたかも知れません。が あくまで経験的な事象をふたつ取り上げて 狭義の二元だと言っているのみです。 実質的には《ふたつのものごとを取り上げた》と言うに過ぎないのに それら二つのものごとの間にはきわめて強い対立が起きているという事態を強めて言うために この元という言葉を用いているのみです。 相互依存の関係にないという事態が その中にありますか?
- 来生 自然(@k_jinen)
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広義・狭義という捉え方もいいかもしれませんが、個人的にはすっきりしないですね。 個人的には「すべて、同一レベル」という見方をしています。 「一元論が広義」で「二元論や多元論は狭義」というのはどうも納得いかないところです。 であれば、 「一元論が狭義」で「二元論や多元論が広義」というのも同時に成立すべきだと思います。 私が思うところでは、「元」という概念、(ぼやけている場合、幅を有している場合、動的な場合も含めて)その「境界」、そうして認識主体の「視点」、その三者が同時に成立する図式ですね。。。 一元論でさえ、真の姿ではない。 そういうことです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「一元論が広義」で「二元論や多元論は狭義」というのはどうも納得いかないところです。 ☆ 《元》についての広義と狭義の区別には けっきょく《非経験の場》と《経験世界》との区別が対応しています。 ☆☆ (趣旨説明欄) 他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていた ☆ という意味のことです。広義の元が この意味で本来の用法だと見るというものです。 つまり ヰキぺの記事がマチガイではないのか? というところまで言おうとしています。 なぜなら もし広義の用法ではなく ふつうに経験世界におけるたとえば《人とヒグマ》とを取り上げて そこに生活原理の違いがあるから 二元論として見ると言ったばあい だとすれば 《人》なら人 《ヒグマ》ならヒグマというように《ひとつのものごと》を取り上げても それぞれに一元論が成り立つということになります。 つまりは このように経験世界の事象についての・狭義の元を用いて 一元論と言ったところで意味を成さない。話は始まらない。ではないか? こういう物言いです。 《ヒグマ》の世界を取り上げて 一元論として議論をすると言ったところで その話には内容があり意味があるとしても その呼び名としての《一元論》は 何の意味もない。《ヒグマというひとつの事象を取り上げました》という意味しかない。 というように もし狭義の・経験世界における事象を《ふたつ》取り上げたというだけで それは《二元論》だと言っても 哲学としては無意味である。こういう物言いです。 文学やジャーナリズムでは 可能性があるとまでは言っておきますが。 ★ 個人的には「すべて、同一レベル」という見方をしています。 ☆ これが 文学の視点だという物言いです。哲学としては 経験世界のことなのか・それとも非経験の場にかかわることなのか その区別によって 《元》という用語は 狭義と広義とに分かれる。とまで譲歩しました。 けれども けっきょく狭義の元という用法は やはり意味がない。哲学にとってはです。
- amenhotep2000
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bragelonneさんとじねんさんのハイレベルの思考にどこまで、ついていけてるかわかりませんが、回答してみます。考えを変えてみました。またイメージを図で考えますので、文章で書くにあたり不備があったら、bragelonneさんよろしくお願いいたします。bragelonneさん今回の投稿に「他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶ」とありましたので、宗教的には「神様」や「仏様」という超越したものの認識とします。これを「紙」と考えてください(全体的には一元)。しかし、じねんさんの言うように、この「紙」は境界はあるようでないものとします。この紙を認識する場合の思考方法として、一つは私が先に提示したように、善悪など対象を作り円を2つ書いて(先はデカルト的に完全なものとして円としましたが、この考えは捨てます。)外へ外へと思考するやり方、つまり2つの円を包括する更に大きな円を作る「有」の思考方法ですが、この方法では、最大に大きな円が真理としても、さらに対立する円を考えてしまえばきりがありません。そのような意味で「他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶ」なら、現在の人間により認識できていると仮定する円の内と外である「紙」に真理があるとする。この思考方法がこの世の世界観における2元論。もう一つは、円(現在最大に認識して物事に執着している煩悩の塊の自己でもいいですが)内へ内へと円をどんどん小さくしていく思考方法。最後は点もなくなり「無」になることで紙と一体になるという思考方法が一元論。現在の自分に出来うる限りの理屈をこねて見ましたが、屁理屈かもしれません。もう少し本を読み学んでみます。ご検討くださると幸いです。
お礼
あめんほてぷさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 この質問は じつは 何を隠そう じねんさんとのやり取りから出て来ています。 (α) 【Q:空仏一如!?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7730857.html じねんさんのご回答は No.4&6&9です。そこでどうも《二元論》という用語の用い方がちがうのではないかと思ったものですから このようにあらたな質問として立てたものです。 そして今回あめんほてぷさんが提出された《円から外へ向かう志向性と内へ向かう志向性》とでも言えるような例示は じつは すでに じねんさんもそのご文章の中に記しているようでその箇所を紹介してもらっています。回答No.11に掲げられた画像がそれですね。 質問者のわたしとしましては 直前(No.11)のご回答へのお礼欄でのご返答にて かなり問題は整理されたと思っています。解決になっていないとしても 問題の整理は出来たと思っています。つまりそれは 広義の元と狭義の元とに分けてこれらを使い分けすればよい。これです。 ですが あめんほてぷさんのご見解との兼ね合いにおいても あらためてこの・特には《狭義の元》の用法のあり方をめぐって 考えてみておきたいと思いました。 * (1) まづ ことは じねんさんの次のような世界観の一端をどのように受け取り哲学としてどう取り扱うか ここから出発します。 ◆〔じねんさん (α)への回答No.4〕 ~~~~ この「生死を超えない魂の同一・非同一性」(個)と「生死を超えた【魂】の同一・非同一性」(全体・総体)における、「魂」と【魂】という概念は、「多義図形としてのだまし絵」の一形態ないしメビウスの輪であることに気づく。 なぜならば、それらは表裏一体であり、分派・吸収という過程にて連続して変化する概念の母体(イデア的存在)と派生する(様々に異なる)個体という関係になっているからである。 具体的には、生者ないし個を主体に見る側から見れば「生死を超えない魂の同一・非同一性」が見え、死者ないし全体・総体(というより時間を超越した概念)から見れば「生死を超えた【魂】の同一・非同一性」が姿を現すという図式である。 ~~~~~~~~~~~~~ (2) すなわち次のように図式化し得ましょう。 つまり 《生死》というのは 時空間としてけっきょく世界ないし宇宙ということだと見られます。 そして ここでは 《おのれ》と《おのれ以外》とのあいだに取り敢えず《境界》があると前提されています。 ( a ) 求心的な志向性としてある《わたし》 ◆(じねんさん) 「魂」:「生死を超えない魂の同一・非同一性」(個) ☆(ぶらじゅろんぬ) 単純に言えば 《わたし》の内向きの自己認識 ★(あめんほてぷさん) ~~~~~~~~~ 円(現在最大に認識して物事に執着している煩悩の塊の自己でもいいですが) 内へ内へと円をどんどん小さくしていく思考方法。 最後は点もなくなり「無」になることで神と一体になるという思考方法が一元論 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( b ) 遠心的な志向性としてある《わたし》 ◆(じ) 【魂】:「生死を超えた【魂】の同一・非同一性」(全体・総体) ☆(ぶ) 《わたし》の外向きの世界認識 ★(あ) ~~~~~ 「他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶ」なら、現在の人間により認識できていると仮定する円の内と外である「神」に真理があるとする。 この思考方法がこの世の世界観における2元論。 ~~~~~~ (3) ここで 質問者が言おうとしていることは まったく単純に( a )と( b )とを総合する見方に立とう。これです。それが 広義の元としての一元論であるという意味です。 (4) あめんほてぷさんの( b )の定義においてその《二元論》は けっきょく たとえ円がひとつであってもその《内と外》を捉えているかぎりで 狭義の元としての二元論です。つまり広義の元としての二元論ではありません。 しかも同じあめんほてぷさんの( a )の《一元論》も じつは ほかに円が存在するという限りで 狭義の元を捉えたものだと言えそうです。 (5) つまりは じねんさんの見解としても まづ( a )( b )を総合する見方に向かっています。そのウゴキを確認することは出来ます。 ◆ それら〔* ( b )=『魂』と ( a )=「魂」〕は表裏一体であり、分派・吸収という過程にて連続して変化する概念の母体(イデア的存在)と派生する(様々に異なる)個体という関係になっているからである。 (6) つまりは ここで元を問題にするなら ( a )も( b )もそれぞれ明らかに狭義の元です。まづ ◆ ( a ):派生する(様々に異なる)個体 ☆ は 狭義の元でしかない。 (7) そして ( b )=『魂』は 広義の元であるように見えるかも知れません。ですが おそらくそうではないでしょう。 ◆ ( b ):分派・吸収という過程にて連続して変化する概念の母体(イデア的存在) ☆ という定義によるからには これは あくまで《経験思考》の範囲におさまる概念です。 いくら《イデア的存在》が この経験世界を超えていると仮りに言ったとしても 人間の思考や想像の産物であるに過ぎません。この限りにおいて ( a )の個々の《わたし》を総合しているようでいて まだその思考作業に《依存》しています。想像力の内側において成り立っている概念です イデアは。 (8) つまりは 広義の元は《他に依存せず独立して存在する》と言う定義にもとづこうとするからには 《イデア的存在》としての( b )=『魂』も 求める元ではありません。 総合する広義の元は ( a )そして( b )をも総合するところの神なら神です。 (9) そして もはやこのように規定した神は 人間の思考を超えています。《非思考》として成るものです。言わば《非思考の庭》が わが心に成るといったかたちです。 ブラフマン神ならブラフマン あるいはそれと一体なる我れとしてのアートマン(霊我)ならアートマン これらは すでに《霊》なのです。神の霊なのです。あるいは 仏性です。 つまり 雲をつかむような話として想定されている。ただそれだけの概念として――仮りの概念として―― 人間が持つにいたったものです。 (10) という最広義の元を大前提に据えておいてあるなら あとは いくらでも自由に狭義の元を 使おうと思うのなら使えばよい。こうなります。 (11) (2)の図解における次の規定では おそらくわが心における《非思考の庭》を突き抜けて《最広義の元》に到ろうとする志向性が見て取れるとは受け取っておかねばならないでしょう。 ( a ) 求心的な志向性としてある《わたし》 ★(あめんほてぷさん) ~~~~~~~~~ 円(現在最大に認識して物事に執着している煩悩の塊の自己でもいいですが) 内へ内へと円をどんどん小さくしていく思考方法。 最後は点もなくなり「無」になることで神と一体になるという思考方法が一元論 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (12) すなわち 《最後は点もなくなり「無」になることで神と一体になる》というところに 何とかして《非思考の庭》がおのが心に成るという地点を見ようとしている。 言いかえると その志向性は じつは 《思考方法》ではないわけです。初めはそうであったかも知れなくても どこかの一点で それでは済まないという地点にさしかかっているはずです。 どこか一点において《思考》を超えるということでなくてはならない。《非思考の庭》として成り立つのでなければ 最広義の元にはならない。 こう考えますが いかがでしょう?
- 来生 自然(@k_jinen)
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「元」という言葉で、最もよく使われているのが「次元」です。 3次元空間という概念は、空間上の点を表現するのに、それぞれ独立した3つの要素(座標)が必要だということです。 3次元の空間を1次元の線や2次元の面のみで表すことは不可能です。(限定された空間で、無限分割不可能とすれば現すことも可能なのですが、ここでは、一般的な空間を扱うので、対象外としておきます) 「空間」という「一つの概念」(一元)の、「位置・座標」という性質については、「ひとつやふたつの元」では表すことができず「3つの元」が必要だということです。 「全宇宙」ないし「全体」あるいは「世界」という概念(一元)の内部において、 たとえば時空間という性質に目を向ければ「4次元」という概念で捉えられ、 物質という概念で捉えれば、精神的なものを物質のみで表すことができるのかどうか?という疑義が生じる場合には「心身二元論」や「物質一元論」という概念で捉えられるでしょう。 生物という概念で捉えるなら、生物として表しえない無生物という概念が生じるでしょう。(二元論的) 人間という概念を考えるなら、ヒグマに限らず、様々な生命体の種という概念が生じるでしょう。(多元論的) 「独立したアイデンティティを有する人」という概念で捉えるなら、(別の人で代用不可能、表現不可能な)独立した「個人」という概念が生じることでしょう。(多元論的) 一つの世界が何らかの観点で捉えられるとき、そうして、その観点を「ひとつのもの」で表しうるのであれば、「一元論的」でしょうし、もうひとつ必要なら(一つのみで表せない別のものがある場合)「二元論的」でしょう。(本来、繋がり合っていて、切り離せないにもかかわらず)独立した「個」という概念で捉えるなら「多元論的」でしょう。 人とヒグマという視点において、ヒグマを人によって表すことができるというのであれば、一元論的だということです。早い話、人間によってヒグマを作ることができのかどうか?ということと同じです。 個人という概念の場合、二人の個人から多数の個人を生み出すことができるので、多元論的ではなく二元論(ないし一元論)的だといえるかもしれませんが、生命体としての「個人」を誕生させ育むには、周囲の環境(食物・生命体・他者等)が必要不可欠であり、多元的でありつつ全体との関連性から一元的でもあるわけです。 このことについては、No.8,9にてamenhotep2000さんが提示された方向性を有する円という概念は、まさに鋭いところを突いておられると思います。 このあたりは、私が「移動する境界」という概念で一神教と多神教の概念を考えたときの状況に重なる部分と思われます。 「私」と「境界」と「宗教」について。。。 (補遺)。。。 http://jinen.exblog.jp/2157814/
お礼
でしたら ○ 《元》を 広義の元 および 狭義の元 これらふたつに区分して 使い分けて用いる。 とよいでしょう。 そういう問題ですし それだけの問題です。よ。 じねんさん ご回答をありがとうございます。どうですか? ★ ~~~~ 「全宇宙」ないし「全体」あるいは「世界」という概念(一元)の内部において、 ・・・(中略)・・・ 物質という概念で捉えれば、精神的なものを物質のみで表すことができるのかどうか? という疑義が生じる場合には「心身二元論」や「物質一元論」という概念で捉えられるでしょう。 ~~~~~~ ☆ 《全宇宙の一元論》そしてこれにそのまま《次元》として一対一に対応するところの《物質一元論》つまり唯物論 このような使用が 広義の《元》です。 《心身二元論》という場合は 狭義の元です。 あるいはまた ★ 「私」と「境界」と「宗教」について。。。 (補遺)。。。 ☆ の記述に関連して言えば: 《多神教》というときの《神》は 広義の一元論としての唯一神体系の中における狭義の神のことです。いわば 広義の一元(つまり全体として)の神にとって分身というような位置づけになりましょう。 つまり そういう表現の問題におさまります。 ですから 多神の中の一神を自分の世界観とする場合 その場合にも世の中には その同じ《多神中の一神》論を信奉する人のほかに 唯一神を信じる人もいます。これらをまとめて全体を 広義の一元論のもとに捉える全体観としての〔一元なる〕神を想定することも可能です。 このことは 規定されているところの《一神教的方向性》の世界観の場合にも 適用されます。世の中には 一神教を奉じる人しかいないわけではないからです。 しかも 仮りにもし世の中がぜんぶ一神教を奉じる人ばかりになったとした場合――そのような事例が 図示されていますが―― それでも 決して・ほんとうは その唯一神体制として人びとが束ねられるということは ただの現象として起こるのみであって 世界観は 理論として別にあり得ます。 なぜなら 神は 広義にしろ狭義にしろ すでにつねに《ひとりの人 すなわち 〈わたし〉》の神でしかないからです。いかに同じ神の名のもとにあつまる人びとであっても 信教や良心はそのような《組織宗教の唯一神体制》によって合一化されるということは あり得ません。ただただ行動を同じくすることを余儀なくされているという現象だけの問題です。 いづれにしましても このように世界を捉える場合には 神を《非経験の場》と想定すればよいのです。 《このわたし》の神でありつつしかも同時に《全体》としての神でありうるというそのわけは この《非経験の場》なる神が 《経験世界における因果関係から自由な場》という想定であるからです。 これは別様に言い表わすなら 《人間にとってその経験合理性にもとづく思考によっては分かるか分からないかが分からない場》となります。 この広義の一元論のもとに 狭義の神――すなわち 全体の神の分身――や いろんなものごとに関する狭義の元がおさめられます。
- Y Y(@yy8yy8az)
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「他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》」と呼ぶのであるから、《単にふたつに区分されたもの》を《元》とするならそれは二元論と云えます。 それを一つから発生したものと観れば、一元論になります。 ブラジュロンヌさんの主張は、二元論を一蹴しているのではなく、包括して「一」とした考えです。
お礼
わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ブラジュロンヌさんの主張は、二元論を一蹴しているのではなく、包括して「一」とした考えです。 ☆ よくぞ言ってくださいました。 その考え方で ちょうど直前のNo.9で 善悪の〔見かけ上の〕二元論について おおきく一元論にまとめることが出来るのではないかという試みをしるしました。その方向が捉えられるかも分かりません。 いやぁ こんなに議論がつながって行くとは初めには思っていなかったです。 みなさんも どしどしご投稿ください。
お礼
やっぱそうなんですか? まづは まさ2211さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうなんですかねぇ。 つまり そう読むとですね。 ★ ~~~~ (世界や事物の根本的な原理として、) それらは<(背反する二つの原理や基本的要素から構成される、) または(二つからなる区分に分けられる)>とする概念のこと。 と読めばよいだけ。 ~~~~~~~ ☆ こう読むとですね 後者は 次のように理解されます。 ▼ 《世界は ふたつの原理に区分されて捉えられる》 ☆ と言っていることになります。言いかえると 《二つの原理としての区分》は すでに前者の意味内容として言っていますから それとの関係からは 次のように理解されることになります。 ▼ 《世界は 互いに背反するのではなくとも・つまりは言ってみれば互いに並列されるような ふたつの原理に区分されて捉えられる》という場合が 二元論のひとつのかたちである。 ☆ こうなりますよね? 《ふたつの原理は 互いに背反しない》場合です。 だとすると 回答No.3以下の じねんさんのご見解も 二元論と言えるようになるのではないか? という懸念が出て来ます。 つまり ○ 人間と自然 あるいはその当地の住民とそこに生息するヒグマ とのあいだに 《互いに背反しないけれども 互いに区分されるふたつの生活原理がある》 よって この場合にも《人とヒグマとの二元論》が成り立つ。 と言えるようになってしまいます。まいか? これは おかしい。そんな用法はないはずです。ジャーナリズムでもそんな奇異な表現は使わないでしょう。 こうなりゃぁ ひとえにオシエを乞います。
補足
文章の読み方は別として とうぜんおっしゃるように読む・またはむしろすでに理解している というのが ふつうであるはずです。 その意味で BA と受け留めました。