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われわれ一人ひとりがブッダであるとは何か?
- われわれ一人ひとりがブッダであると何故言わないかについて議論する。
- ブッダの範囲や過去の仏陀たちについて解説し、何を言おうとしているかを明らかにする。
- 唯我独尊や宇宙の原理について考え、われわれがブッダであることについて疑問を提起する。
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質問者が選んだベストアンサー
こんばんは。 ☆☆☆ 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。 《唯仏与仏》つまり《仏と仏でないと分からない》は、法華経が説かれる以前、すなわち、釈尊によって真理が開示される前の話で、法華経前史、pre-historyです。つまり、法華経が説かれた段階で、法華経前史の《唯仏与仏》は、もはや成立しない。《真理の開示》があったからです。 法華経の方便品を聞き、聴聞者は仏の立場に立った。(その場を立ち去った高慢の人間はいますが、それは、ここでは、ひとまず除外) だから、《若有聞法者 無一不成仏》。《法華経を聞いた者は、一人として成仏できないものはない》となる。 なので、《唯仏与仏》は、《若有聞法者 無一不成仏》の観点から、もう一度、考え直さなければならない。少なくとも《法華経前史》の立場で《唯仏与仏》は語られるべきものではない。 法華経の説く《生命の普遍平等性》の哲学を理解していない。 それでもなお《唯仏与仏》を口にしたいのなら、 これは《ただ法華経と佛の立場に立つ私》と理解するべきものと考えます。 《唯仏与仏》は、法華経と向き合う自分でよい。もっとも純粋な信仰の形と解釈すればいい。 あるいは《同じ仏の立場にたつあなたと私》でいい。 《一切衆生 悉有仏性》が本当なら、《あなたと私》でもよい。 法華経の至る所に出ている、「法華経の一句たりとも、ホニャララホニャララ」みたいな言葉の意味は何ぞ!! 部分でとらえるな!!! 少なくとも《唯仏与仏》を排除の理由に使うな!!!! などと、《眠り猫》の分際で、生意気なことを考えています。 ☆☆☆ ◇わたしの《唯我独尊》解釈 わたしは、ゴータマブッダが語ったとされる《唯我独尊》の意味を《ゴータマブッダだけがただひとり尊い》とは解釈していません。 アートマンという言葉を使うと御幣がありますが、 《ただアートマンのみが尊い》 このアートマンを仏性、如来蔵と呼ぶのなら、仏性、如来蔵の本来の一味・平等性から、《唯我独尊》を 《万人すべてが平等に尊い》 と読み替えることもできます。 あるいは、もっと卑近に 《人間、誰しも、自分がいちばん大切》 でもいいと考えています。 「《唯我独尊》は人間の自己愛の強さ、我執の強さを言ったものだ。悟りを開く前のゴータマ・ブッダにも強い我執があったのだ」と解釈してもいい。 でないと、《唯我独尊》が薄っぺらいものになって、まったくつまらない!! ゴータマブッダの真意をまったく読み違えているけれど、この方が《唯我独尊》って言葉に深みが増すじゃないですか(笑い) 《あほう》ですんで、わたし。 ☆☆☆ と思い切り脱線したところから出発しました。 ○ 法を知らぬ者は仏を語りえない となるのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~ ☆ 一応そうではあっても 《法を知らぬ者》も まったくのかたちでシャットアウトされているのではないと ひとこと添えていただきたい。こう思いますが どうでしょう? ◇「真理の体得は難しい」という意味ならば別ですけれど、 「法を知らぬ者は仏を語りえない」など論外でしょう。 この論理に従えば、ブッダ以外は、誰も仏について語れないことになってしまう。 日蓮を含め、あらゆる宗派の祖師たちを含めてです。 《法華経前史》の《唯仏与仏》の論理ですよ、これは。 すでに真理の全面的開示はあったのですから。 あとはそれから何を読み取るか、個人の問題だと思います。 ○☆ これは ゴータマ・ブッダと日蓮とのあいだの《唯仏与仏》を言っているところですが もし――もし です もし――このことがほんとうであるならば このことを持ち出している けいえす5518さんご自身も そのゴータマ氏や日蓮氏とほぼ同じ境地にあると 自認し自称しているということになると思います。 そういう理解でよろしいでしょうか? つまりは おまえらには――いえ ぶらじゅろんぬには――分からないことだ というご回答なのでしょうか? ◇だと思います。《ぶらじゅろんぬ》さんと私には分からない話だ、いう意味でしょう。 そして、おそらく、控えめな表現での《仏道修行の勧誘》です。 ☆ (え) この(あ)は 仏性ないし如来蔵の立ち場と矛盾しないと理解します。≒(う)。 ◇はい、本当に悟ってしまえば。 そして、悟ってしまえば、《本覚》《始覚》の区別も生滅します。 《本覚》は《勝義諦》の立場で述べたもので、《始覚》は《世俗諦》(世間的な道理)で説かれたものですから。般若経的な言葉を借りれば、《本覚即始覚・始覚即本覚》なので。あるいは、《本覚始覚不二》なので。 始覚的な《仏の種》も、法界・法身から流出したものなので、梵我一如の観点からその差別は消失してしまいます。《仏の種》は、法身から来たと言ってもいいし、それは実は《如来蔵》であると言っても、同じことを言っているにすぎません。 ☆(こ) それとも キリストも背景にしりぞき ブッダも背後へ隠れてしまうのだという・《あたらしい天とあたらしい地》の世界と時代を言っておられましょうか? ◇「はい」とはっきりと明言するほどの勇気も度胸もありませんが、「YES」です。 超越者としての、支配原理としての《キリスト》と《ブッダ》は、もうこの世にいない。 《キリスト》、《ブッダ》というこの世で作り上げられた偶像を信じ、そんなものに祈っても、けっして答えてはくれない。 キリストやブッダの残した言葉などを頼りに、あとは自分で何とかせい!! という立場です。 ☆◇ (う) 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」で十分であるならば ☆☆(趣旨説明欄) (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか? の問題をも通り越して ひょっとして《地涌の菩薩》たちのあたらしい時代の到来なのでしょうか? 末法も弥勒菩薩も 屁の河童であると。 ◇ 《末法も弥勒菩薩も屁の河童》 たぶん。《弥勒菩薩》が下生して救ってくれるなど、到底、信じていません。 が、こんな私でも「救ってくださる」とおっしゃるのなら、そのご厚意には甘えちゃいます。 《地涌の菩薩》の新しい時代ですかぁ~。《地涌の菩薩》について考えたことがないので.... どうでしょう....、《(地涌の菩薩+地涌の声聞)÷2》くらいでしょうか。 ☆ もし印象だけで述べてもよいのでしたら 法華経は それまでの集大成であって ほかのオシエを捨ててしまえというのとは違うような感じなのですが そんなあやふやな言い分は通らないでしょうか。 ◇どうでしょう、正直、法華経自体、その立場が曖昧なように感じられるので。 法華経を受持し、六波羅蜜を行ずる修行者は尊いといったような記述もありますし..... 中立の立場から言うと、法華経は矛盾に満ちた部分を多くはらんでいますので。 特に融和性と排他性!! 個人的な意見ですが、法華経には不足している部分が多いと思います。 いわゆる小乗の教えは切り捨てても問題はないと考えますが、他の大乗経典の理解は必須と言ったところではないでしょうか。
その他の回答 (60)
- codotjtp
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自己の完全な認識客体化による属性把握は、 解脱の後にでも、不可能なのではないでしょうか?
- codotjtp
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続きの回答の為に、下記のページでも、ヒントを賜れませんでしょうか? http://okwave.jp/qa/q7546534.html
お礼
どうぞ。
- ks5518
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No.54です。 ■ 現代もそうですが、質問者様の仰るように、自身の生命境界を覚知し、円満する法を求め、自らをそこに境智冥合させていこうとする民衆は、極稀だと思います。 ☆ ですから 互いに境智冥合を何かにつけ言い合って行けばよい。さらにつけ加えるとすれば そのとき 誰もが《われは ブッダなり》と宣言するということ。これをおこなえば もう大丈夫でしょう。《南無阿弥陀仏》が それほど普及するのなら 同じようにあまねく生活の中に溶け込んで実践されて行くでしょう。 ■多くの衆生が無明の境地にあるのに、はたして、それだけで“法”=“仏”ないし“仏性”を知覚しえるかは疑問です。 ■ しかしながら、以前の回答にも書きましたが、衆生をして“仏性がある”という事は否定していませんし、十界互具を肯定していますのでもちろんその中には“仏界”も含まれます。 ☆ このことをして 《われは ブッダなり》と言うという意味です。 ■衆生を総して“仏陀”とは言えません。 ■ しかしながら、衆生というのは常に“仏界”に固定されて生きるものではありません。 ☆ ええ。一念三千でよいのだと思います。理のだけでなく 事のとしてと言うべきでしょうか。 すなわち ■ 例えば「ランク(レベル)」的に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚(辟支仏)・菩薩・仏といった十界があるのではなく、全てが一念(念心ともいいましょうか)に収まり、何かの縁によって瞬時瞬時現われてくるというものです。 ■ また、法華経では全ての衆生が成仏するとは説いておりません。 ☆ たしかに条件づけてはいるようです。 ◇(回答No.31) ~~~~ 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。 ・・・ 法華経の方便品を聞き、聴聞者は仏の立場に立った。(その場を立ち去った高慢の人間はいますが、それは、ここでは、ひとまず除外) だから、《若有聞法者 無一不成仏》。《法華経を聞いた者は、一人として成仏できないものはない》となる。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《法を聞いたなら》という条件づけです。ただしその条件のもとでは 《一人として成仏せずということはない》と書かれているのですよね? ■書かれています。しかしながら、No.31の言うように、『一人として成仏せずということはない』と捉えるのは誤りです。それはこの方便品は舎利沸を二乗から得道させるために、これから説く法に対して“信”を増長させる目的で進言していることで、この智慧第一とされていた舎利沸ですら“信”を持って仏道に入る⇒以信得入を現しています。その後に続く文言には、法華経を説く場合の事が書かれていて、多くの衆生は疑いを持ち法華経を捨て、悪道に入ることが書かれています。そしてさらにその後に、『当知是妙法 諸仏之秘要』という、諸仏成道の因である“法”の存在が明かされるのです。 さらにその後の、比喩品第三に於いて、『妙法蓮華経』が初めて釈迦牟尼仏より口にされ、舎利沸にたいして未来世において成仏する旨の記別があります。 むろん ■ あくまでも“仏性が有る”ということと、“成仏”=“仏になる”ということは別なのです。 ☆ ということが 前提となっています。 ■⇒全ての衆生をして、仏陀とは言えない。 ■ 全ての衆生が成仏できるとは言っておりません。 ☆ たしかに ねむりねこさんは ◇ 法華経を聞いた者は、一人として成仏できないものはない。 ☆ というように《法華経を聞く》と言い いま上でわたしは《法を聞く》とわざと言いかえました。 これは どういうことかと言うと ダルマとしての法は 遍満している。このことのゆえです。先ほど引用した文章で省略した箇所は 次のようです。 ◇ ~~~ 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。 《唯仏与仏》つまり《仏と仏でないと分からない》は、法華経が説かれる以前、すなわち、釈尊によって真理が開示される前の話で、法華経前史、pre-historyです。つまり、法華経が説かれた段階で、法華経前史の《唯仏与仏》は、もはや成立しない。《真理の開示》があったからです。 法華経の方便品を聞き、聴聞者は仏の立場に立った。 ~~~~~ ☆ 人は 生まれて来て この世界に生きている。このことだけで すでにダルマとしての法に接している。あとは 境智冥合の道をあゆむだけです。互いに声をかけあってすすめばよい。こういう見方に立ちます。 以上のように考えます。どうでしょう? ■十界互具、一念三千参照。衆生の念心が不変ではない事にあると思います。 また、多くの衆生は法華経を聞くと、疑念をなし、法華経を謗り、法華経の行者をも迫害する。この報いは、無間地獄の業となり、再び人間として生まれる事も、仏にすら縁を出来ない者となることを説かれています。 逆に、仏に会い、仏の説法を聞き、大乗を求め、仏の道に入ることすら、極少ない機会だと言われています。 結論から言えば、いくら森羅万象に法が編満しているからと言って、それを悟り、自らの仏性と境智冥合させる高徳の衆生は極稀であると言えるでしょう。 ※※※ 設問をいただくたびに、様々な教典、しゃく書をひともき研鑽させていただける機会を与えていただき感謝申し上げます。 現在に於いても、未だ十二分に“妙法蓮華経(法華経)”を修学しておらず、回答させていただきました事、大変恐縮しております。今回の質問に於いて、回答出来ていない事象、文句につきましては、今後研鑽の中で少しでも理解出来ますよう努めてまいりたといと思います。凡夫の身ながら、仏の知恵に関して口を挟む事に少なからず反省をしつつ、今後とも弛まぬよう研鑽し、実戦に励みたいと思います。 南無妙法蓮華経
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 なぜ けいえすさんは 悲観的になられるのですか? ■ 論から言えば、いくら森羅万象に法が編満しているからと言って、それを悟り、自らの仏性と境智冥合させる高徳の衆生は極稀であると言えるでしょう。 ☆ だいじゅぶですよ。ときが満ちて そのときになれば 地涌の菩薩が躍り出て来ます。 かれらが まだ迷いの中にある人びとに声をかけて 元気になるようはたらきかけます。 それに ひとまづは 三分の一の人びとが 成道すればよいのではないですか? ほかに三分の一の法華誹謗の徒がいるのかも知れません。真ん中の三分の一の人びとは おおむね 初めの光の勢力としての人びとについて来ましょう。 ということは もう今では上行菩薩も旧いのかも知れません。あらたな地涌の菩薩の時代です。特に指導者は要らないでしょう。 境智冥合は 自由自在に出来るでしょう 初めの約三割の人びとにとっては。 ところで なんで 南無妙法蓮華経と言って インド語と漢語とで称えるのですか? 奇妙ですよね? 久遠仏であるのなら。 おそらく 《われは ブッダなり》が 南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経などに取って代わりましょう。 そのあとは いちいちこのような宣言は要らなくなりましょう。 ありがとうございました。 もう少し開いています。
他に言わないと認識できない?共有ではなくて強要、自分をそんな崇高だと思わない。ブッダの言葉で堅い石が風に揺るがないように他の言葉に揺らがない、みたいな言葉があるでしょ、そのような見解を持つべきではないとは一言も言ってない、否定もしてない、自分がそう思わないから言わない、詳論をなぜ求める?自分がそう思ってればいい、ブッダも黙ってなさいって言ってるじゃん、多くしゃべらずにおのれを信じる。質問文長すぎて読んでない。なぜ言わないかを回答したのみ
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 他に言わないと認識できない? ☆ 前回も書きましたように 認識は おのれの内面においてすでに初めにおこなうことです。 認識を得たなら そのことの社会性を確認する意味で 互いに《宣言する》ということになるります。 けっきょく その必要もやがて時代とともに なくなって行きましょう。ただ これまで永い永いあいだ 延々と《おさとりごっこ》の議論がつづいて来ました。わたしたちは これに終止符を打つ必要があろうかと考えます。 考えない人には 《強要》しないことは あたりまえです。 ★ ブッダも黙ってなさいって言ってるじゃん ☆ そのブッダが 阿呆であったと言っているのです。人びとは 騙されてきたという意味です。
何でいちいち自分がそうだって人に言うの?別に思わないけど
お礼
ご回答をありがとうございます。 二段階あります。 1. われわれが一人ひとり ブッダであると認識する。 2. その認識を互いに共有する。 第二の段階で そのために ★ いちいち自分がそうだって人に言う ☆ ということをおこないます。確認のようなものです。 ★ 別に思わないけど ☆ 上の(1)の認識を持っていないし 持とうと思わないし 持つべきでもない。というご見解でしょうか? 論拠は いかがでしょうか? そういった感想としてのご回答でしょうか?
- codotjtp
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無根拠の使役が…
お礼
ええ加減にせーや。
- codotjtp
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絶対無へと向かい合う主体の側ではなくて、 絶対無自体が自敬を保持…。 『謙譲との関係性』の抜本的な学び直しを…。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1275225857
お礼
★ 絶対無自体が自敬を保持…。 ☆ 《絶対》は 絶対有にせよ絶対無にせよ 《ひとり満ち足りている存在(非存在)》だと見るからには これこれをするとか・しないとかという問題は生じません。 たとえば 《絶対》でありこれに色をつけて《絶対者》であるのだから 《全知全能》であるはずだと推理するのは マチガイではないと思われますが それはあくまで人間が推理するものです。絶対者の側で何が起こっているのか そんなことは 分かりっこありません。 《天と地を創った》というのは あくまで人間の側の推理であり想像でありそれを あくまで人間の言葉で表わしたものであり そうであるに過ぎません。要するに神の側で何が起こっているのか 分かりません。 それだから 初めの神の定義に反しないかぎり どんなことを想像してこれを表現しても 通って行くということになるようです。 ぢゃあ ★ 絶対無自体が自敬を保持 ☆ ということも 想像と表現は自由ではないか? と問い返されるかと思いますが まづ《自敬》がどういうことか分かりません。それに たぶん《自己を尊敬する》ことでしたら 《ひとり満ち足りている者》がわざわざそうすることもない。こう考えられます。 何度せつめいすれば 《非経験の場》なる絶対の概念がわかりましょうか。
- codotjtp
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絶対無が自敬を…
お礼
No.52お礼欄 そうですね。 ○ 無我(アン‐アートマン)⇒空 ここから ○ 空⇒ 絶対無 がみちびかれる。あるいはつまり もともと 絶対無が想定されていた。というところでしょうか。 それでは ○ この絶対無と相い向かい合う《わたし》に どのようにして《自敬》が生まれるのか? このあたりは どうでしょう? つまりは ブディズムの説くところに沿って言っているのか。それとも 独自の道が用意されているのか。 あるいはまた ○ そもそも《自敬》とは どういうことでしょう? 聞きなれない言葉ですので 発案者から説明があってしかるべきでしょう。 あとは 《われは ブッダなり》と宣言することとの関係はどうなのか? になります。
- ks5518
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No.49です。 (Q‐15) ■ ~~~ 仰るように、御本尊がある現在に於いても、〔法(ダルマ)は〕森羅万象に普遍しています。しかしながら、それを目に見える 形で日蓮大聖人は御本尊として現しました。という事になると、この本尊を“本”としなければならない。 ~~~~ ☆ 日蓮氏が ダルマとしての・人間の経験し得べからざる法を 目に見えるかたちに表わしたというのは 措くとしまして(それは 議論しても結着がつかないでしょうから 措くとしまして) そのときおそらく《ダルマの仮りの像》と《“本”としてのダルマ》とをくらべて どうして ■ 〔仮りの像としての〕本尊を“本”としなければならない。 ☆ のかが 分かりません。ふつうは 本末転倒だと見るのが ふつうでしょう。 ★回答保留(現時点では、適切な回答が見つかりません。) (Q‐16) ■ ~~~ (Q‐11) つまり なぜ目に見える本尊としての法(ダルマ)が 必要になるのでしょうか? 口でああだこうだと言っても、衆生(人間)は忘れ、迷うからです。 ~~~~~ ☆ “本”としてのダルマは 到るところに遍満しているというのに どうして《忘れる》のでしょう? たしかに《迷い》もするでしょうし ときどき《忘れる》こともしましょう。けれども 《われに還る》という経験は だれもがするところです。一生わすれているというのは まれであります。 ですから 迷いに迷い ダルマを忘れているとしても でしたら 人びとは身の周りの人たちに ひとこと 境智冥合だよと言って ダルマのことを想い起こさせればよいではないですか。 目に見えるかたちの本尊のその物 これを利用するというのは 幼稚すぎませんか? ■先ず最初に、『南無妙法蓮華経』を“法(達磨)”とする立場での回答をいたしますが、現実に日本天台第三の座主より以降、この法は存在すれども、広められる事は有りませんでした。それは、第三の座主“慈覚”が真言密教を取り入れた事によります。そして、それ以降、約400年間埋もれてしまうになるのです。日蓮大聖人は諸国遊学の後、建長五年(1253年)、安房の国、清澄寺において『南無妙法蓮華経』を衆生救済の“法(達磨)”として開宗されます。当時の人々(衆生)は、上は執権から下は農民に至るまで、西方極楽浄土を夢見て『阿弥陀仏』を信仰していました。法然の浄土宗はもちろん、天台宗、律宗ですら阿弥陀信仰でした。こういった中で『南無妙法蓮華経』を広め、法華経で説かれる“法難”を受け、上行菩薩の再誕のお立場を現します。佐渡への流罪以降は、法華経の題目である『南無妙法蓮華経』を本尊として広め、甲斐の国身延において「熱原の法難」直後、弘安二年十月十二日、一閻浮提総与の御本尊を認めます。 要するに、当時の日本国において、仏教の研鑽等は僧侶しか行ったおらず、一般の国民は文字も読めず、書けない人間も多かった事が事があげられます。もっとも、当時の社寺・僧侶というのは、現在の大学の役割をしています。また、政府は、飢饉・疫病・災害・戦などには、各宗の高僧に祈祷を依頼し、治めてもらうことを常識として行っていました。 現代もそうですが、質問者様の仰るように、自身の生命境界を覚知し、円満する法を求め、自らをそこに境智冥合させていこうとする民衆は、極稀だと思います。 (Q‐17) ■ ~~~~ >法華経ではのちの上行菩薩や地涌の菩薩たちに言(こと)づけられたのでしょうか? 〔つまり (Q‐11) つまり なぜ目に見える本尊としての法(ダルマ)が 必要になるのでしょうか? そのような専売特許のごときかたち・あるいは運動体制にせよと 法華経では のちの上行菩薩や地涌の菩薩たちに言(こと)づけられたのでしょうか?〕 ■逆に、上行菩薩の再誕として日蓮大聖人が世に生まれ、『南無妙法蓮華経』を“法(達磨)”とし、衆生救済の本尊として世の中に流布したのです。 ■ そうです。日蓮大聖人は、文上では“上行菩薩の再誕”と言われていますし、文底では 久遠元初・自受用報身如来のお立場で、自受用報身が所証の法として本来所持されている 究極の真理(法)である『南無妙法蓮華経』の御本尊を現し、これを流布します。 これは、妙法蓮華経 嘱累品第二十二の冒頭にある『汝等応当一 心流布此法 広令増益』 の文字がそうです。前如来神力品第二十一において“結要付嘱(けっちょうふぞく)”された、仏の 要法を末法において衆生救済のために広めるということです。 ~~~~ ☆ このお答えは 次の二点が答えられていません。 (あ) なぜ目に見える本尊としての法(ダルマ)が 必要になるのでしょうか? (い) そのような専売特許のごときかたち・あるいは運動体制にせよと〔ことづけられたのか?〕 すなわち ▼(妙法蓮華経 嘱累品第二十二の冒頭) 汝等よ 応当(まさ)に一心にこの法(=この場合は オシエ)を流布して 広く増益(ぞうやく)せしむべし とブッダが語り伝えたことは分かりましたが それが どのような形でどのような運動になるかは まだ分かりません。つまり上の(あ)および(い)の問いとして 《本尊》を作り しかもそれを広く用いるというような運動体制にするかどうかの問題。および言葉はわるいですが《専売特許のごときかたち》にするかどうかの問題です。 ダルマとしての法は 宇宙にも身近にも満ち満ちているというのに この《南無妙法蓮華経》なる本尊でなければダメというその根拠は いかに? となります。 ※この質問については、もう少しお時間をいただきたいと思います。 (Q‐18) ■ ~~~ 要するに、質問者様も仰っている“法(ダルマ)”と“仏性”の関係に於いて、“法(ダルマ)”の定義が なされるべきだという事です。 ~~~~ ☆ 定義も何も けいえすさんは 《一切衆生悉有仏性》(これは 涅槃経でしょうか)を受け容れておられないのですか? むろんダルマのことです。分身というべきか。想定として ダルマの霊と言うべきか。あるいは ○ 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」 ○ (No.35お礼欄――大乗起信論から) 〔大乗の《大》というそのわけの〕第二に そのもつ特性が大きいこと(相大)。すなわち 〔衆生心〕はその内に如来を宿すもの(如来蔵)として 如来と同じ徳相(功徳)を本来無量に具えているからである。 こういった命題を受け容れられないというお立ち場でしょうか? ■上記に書かれている内容については認識していません。⇒過去に、触れていないということです。 しかしながら、以前の回答にも書きましたが、衆生をして“仏性がある”という事は否定していませんし、十界互具を肯定していますのでもちろんその中には“仏界”も含まれます。しかしながら、衆生というのは常に“仏界”に固定されて生きるものではありません。例えば「ランク(レベル)」的に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚(辟支仏)・菩薩・仏といった十界があるのではなく、全てが一念(念心ともいいましょうか)に収まり、何かの縁によって瞬時瞬時現われてくるというものです。地獄にいるから地獄だけとか、仏だから仏だけということではないのです。瞬間瞬間変わるのです。また、法華経では全ての衆生が成仏するとは説いておりません。あくまでも“仏性が有る”ということと、“成仏”=“仏になる”ということは別なのです。むしろ、法華経で説かれている、あるいは、日蓮大聖人が御書で仰っている事は、成仏の難儀さを説いています。例えば“法”に巡り合う可能性や、それを“法”として認識する(できる)難しさ。法華経を広める際に起きるとされている、“法難”に耐える事がでるのかどうか。全ての衆生が成仏できるとは言っておりません。
お礼
けいえすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ■ 現代もそうですが、質問者様の仰るように、自身の生命境界を覚知し、円満する法を求め、自らをそこに境智冥合させていこうとする民衆は、極稀だと思います。 ☆ ですから 互いに境智冥合を何かにつけ言い合って行けばよい。さらにつけ加えるとすれば そのとき 誰もが《われは ブッダなり》と宣言するということ。これをおこなえば もう大丈夫でしょう。《南無阿弥陀仏》が それほど普及するのなら 同じようにあまねく生活の中に溶け込んで実践されて行くでしょう。 ■ しかしながら、以前の回答にも書きましたが、衆生をして“仏性がある”という事は否定していませんし、十界互具を肯定していますのでもちろんその中には“仏界”も含まれます。 ☆ このことをして 《われは ブッダなり》と言うという意味です。 ■ しかしながら、衆生というのは常に“仏界”に固定されて生きるものではありません。 ☆ ええ。一念三千でよいのだと思います。理のだけでなく 事のとしてと言うべきでしょうか。すなわち ■ 例えば「ランク(レベル)」的に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚(辟支仏)・菩薩・仏といった十界があるのではなく、全てが一念(念心ともいいましょうか)に収まり、何かの縁によって瞬時瞬時現われてくるというものです。 ■ また、法華経では全ての衆生が成仏するとは説いておりません。 ☆ たしかに条件づけてはいるようです。 ◇(回答No.31) ~~~~ 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。 ・・・ 法華経の方便品を聞き、聴聞者は仏の立場に立った。(その場を立ち去った高慢の人間はいますが、それは、ここでは、ひとまず除外) だから、《若有聞法者 無一不成仏》。《法華経を聞いた者は、一人として成仏できないものはない》となる。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《法を聞いたなら》という条件づけです。ただしその条件のもとでは 《一人として成仏せずということはない》と書かれているのですよね? むろん ■ あくまでも“仏性が有る”ということと、“成仏”=“仏になる”ということは別なのです。 ☆ ということが 前提となっています。 ■ 全ての衆生が成仏できるとは言っておりません。 ☆ たしかに ねむりねこさんは ◇ 法華経を聞いた者は、一人として成仏できないものはない。 ☆ というように《法華経を聞く》と言い いま上でわたしは《法を聞く》とわざと言いかえました。 これは どういうことかと言うと ダルマとしての法は 遍満している。このことのゆえです。先ほど引用した文章で省略した箇所は 次のようです。 ◇ ~~~ 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。 《唯仏与仏》つまり《仏と仏でないと分からない》は、法華経が説かれる以前、すなわち、釈尊によって真理が開示される前の話で、法華経前史、pre-historyです。つまり、法華経が説かれた段階で、法華経前史の《唯仏与仏》は、もはや成立しない。《真理の開示》があったからです。 法華経の方便品を聞き、聴聞者は仏の立場に立った。 ~~~~~ ☆ 人は 生まれて来て この世界に生きている。このことだけで すでにダルマとしての法に接している。あとは 境智冥合の道をあゆむだけです。互いに声をかけあってすすめばよい。こういう見方に立ちます。 以上のように考えます。どうでしょう?
- codotjtp
- ベストアンサー率26% (40/149)
後方システムからの支援の存在への共通理解の余裕は期待され難いでしょう。 http://okwave.jp/qa/q7536419.html
お礼
No.52お礼欄での問いに答えてからにしてください。
お礼
うわぁ こりゃあ たまげた! 驚天動地とは このことぢゃわい。 ねむりねこさん まづは ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~ 《地涌の菩薩》の新しい時代ですかぁ~。《地涌の菩薩》について考えたことがないので.... どうでしょう....、《(地涌の菩薩+地涌の声聞)÷2》くらいでしょうか。 ~~~~~ ☆ ぢゃあ 《(地涌の菩薩+地涌の縁覚+地涌の声聞)÷3》ではどうでしょう? 音楽家も絵描きさんもいてくれるとよいです。 もう仏界は どうでもよいでしょう。あると分かっているのですから。 実際のはたらきは それぞれだと思えます。地獄も畜生も それとして はたらくのかも知れません。 あとは そのまま引用してお応えすることになりますので 引用したことにして みなさんは 回答欄のほうをご覧ください。 次は 知る前と知ったあととで ギャップが大きいので かかげます。 ◇ ~~~ 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。 《唯仏与仏》つまり《仏と仏でないと分からない》は、法華経が説かれる以前、すなわち、釈尊によって真理が開示される前の話で、法華経前史、pre-historyです。 ~~~~~ * ふさわしい参照資料をと思って探しましたが いまひとつだったかも知れません。が かかげます。 ▲ (イザヤ書65:19-25) ~~~~ わたしは エルサレムを喜び わが民を楽しむ。 泣く声と叫ぶ声は 再びその中に聞こえることはない。 わずか数日で死ぬみどりごと おのが命の日を満たさない老人とは もはやその中にはいない。 百歳で死ぬ者は なお若い者とせられ 百歳で死ぬ者は のろわれた罪人とされる。 彼らは家を建てて それに住み ぶどう畑を作って その実を食べる。 彼らが建てる所に ほかの人は住まず 彼らが植えるものは ほかの人が食べない。 わが民の命は 木の命のようになり わが選んだ者は その手のわざを ながく楽しむからである。 彼らの勤労は むだではなく その生むところの子らは 災いにかからない。 彼らは 主に祝福された者のすえであって その子らも彼と共におるからである。 彼らが呼ばない先に わたしは答え 彼らがなお語っているときに わたしは聞く。 おおかみと小羊は共に食らい ししは牛のようにわらを食らい へびはちりを食物とする。 彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく やぶることはない と主は言われる。 ~~~~~~~~~~~~ ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~ もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。 「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、 新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。 「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、 エジプトの地から導き出した日に、 彼らと結んだ契約のようなものではない。 彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、 わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。 「それらの日の後、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。 「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、 彼らの心にそれを書きつけよう。 わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。 彼らはそれぞれ自分の同胞に、 それぞれ自分の兄弟に、 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。 小さな者から大きな者に至るまで 彼らはすべて、わたしを知るようになり、 わたしは、彼らの不義を赦し、 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」 (エレミヤ書 31:31-34) 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ いましばらく開いていましょうか。