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法然の教えをお聞かせください

法然の教えをお聞かせください。 親鸞との違いもよければ。 今の浄土宗と浄土真宗の間柄は。。仲いいのでしょうか。。

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noname#195588
noname#195588
回答No.4

法然というと称名念仏で、 とにかく念仏を唱えていればいい人 という感じがしてしまうけれど、 一枚起請文を読むと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9E%9A%E8%B5%B7%E8%AB%8B%E6%96%87 「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、 智者の振る舞いをせずして」 むしろこの部分が大事なのではないでしょうか。 無知の知のソクラテスと比較したくなります。

ri-zyu
質問者

お礼

 色々教えて頂き有り難うございます 参考になりました。

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noname#189751
noname#189751
回答No.6

追加します。 親鸞は法然との出会いによって 慈悲心の感得と信仰の確定がなされたようです。 この事は、親鸞のみならず、他の宗祖の方も同様のようです。 経典などの論書を学ぶだけでは、慈悲心の感得と信仰の確定は有り得ないと思われます。 師と仰ぐべき人との出会いによってこそ、成しうるもののようです。 しかし、法然に関しては、経典の中からそれらを得たとされています。 果たして本当にそうだったのでしょうか。 以下推測です。 法然にも、そうした人との出会いがあったのではないでしょうか。 だが語らなかった。 語れなかった。 無学文盲で死の恐怖にあえぐ人との対面は語れなかった 憐れみというような感情を超えた慈悲心の喚起をもたらした体験を語れなかった ではないでしょうか。 通常の祖師伝においては、師との出会いは美しく描かれているものです。 しかし、法然が実際に出会った師はいないし、伝えられてもいないのです。 苦しむ人との出会いが、それに替るものだったように思います。 その事によって、自らの内に仏の慈悲心を感得し、信仰の確定がなされた と考えられないでしょうか。 苦との対面こそが、法然における師との出会い だったと 法然が開宗したのは43才の時と言われていますから それ以前に、そのような体験があった事は、時代背景を考慮しても十分に可能性があったと思います。 仏教の教えを学び尽くした上での体験だったと思います。 幼少期の父との死別の体験も影響していたと思います。 恨みなき安らぎの心を得よ、という父の遺言は終生忘れ難いものだったように思います。 そうした事も併せてみれば 法然の教えの根底は 人は信仰をもって安らかに死を迎えるべきである  また、死に対する不安は取り除かれるべきである といったものではないでしょうか。 親鸞は、その上に立って絶対他力というところにまで深めたような感じがします。 無宗教の現代にあっては 阿弥陀如来を信じている人は、ごく稀というか、ほとんどいないでしょうし 極楽往生を信じている人もいない と思います。 しかしなんですが 私の菩提寺も浄土宗ですが お寺さんの話を聞くと、昔からの檀家の人が亡くなった時には必ず何らかの知らせがある、と聞かされました。 普段はまったく信心のない人も、最後には、お寺さんに世話になるので挨拶に行くのかな とも思います。 最後の拠り所 を用意してくれた法然という人は、やはり偉かったのでしょう。 きっと、頭のいい 慈悲深い人だったのだと思います。

ri-zyu
質問者

お礼

 二度も回答頂きありがとうございます   色々と勉強になりました。

noname#189751
noname#189751
回答No.5

法然は秀才であったといわれています。 秀才が辿りついた救済の教えではなかったでしょうか。 読み書きもできない多くの人のために説いた教えです。 その心は大慈悲心であったことは確かだと思います。 比叡から降りて自らが決めたのは、信仰を広めるという慈悲心の実践だったようです。 秀才が確定した、たった一つの誰でもできる信仰の道 それが法然の教えだと思います。 読み書きもできずに、何の救いもないまま死んでゆく人々を、法然は見ていたのではないか 秀才であるがゆえに辿りついた万民救済の教え ではなかったでしょうか 悟りよりも救済を願っていたと思います。

回答No.3

 「口称念仏」という言葉が誤解を招きます。  法然の念仏はただ単に口に仏の名(阿弥陀仏)を称えたのではないのです。  その内容は「一心専念」なのです。  恋をしたことはありますか?  異性に恋をすると四六時中その人の事が頭から離れず思い続けるものです。  明治から大正にかけて活動されたあるお坊さんは、この恋心に例えて仏(ほとけ)思いの心を「霊恋」と表現しました。  法然の念仏は例えればこの「霊恋」というものなのです。  法然はその心持を歌に表していますので、以下に紹介します。    ☆ あみだ佛(ぶ)と云うより外(ほか)は津の国の、難波(なには)の事もあしかりぬべし  ☆ 往生は世に易(やす)けれど皆人の、誠の心なくてこそせね  ☆ 我はただ佛(ほとけ)にいつかあふい草、心のつまにかけぬ日ぞなき  ☆ かりそめの色のゆかりの恋にだに、あふには身をも惜しみやはする  ☆ あみだ佛(ぶ)と心は西にうつせみの、もぬけはてたる声ぞすずしき  ☆ あみだ佛と申すばかりをつとめにて、浄土の荘厳見るぞうれしき  ☆ あみだ佛に染(そむ)る心の色に出(い)でば、秋の梢(こずえ)のたぐひならまし  ☆ 月かげのいたらぬ里はなけれども、ながむる人の心にぞすむ  ☆ 極楽へつとめてはやくいでたゝば、身のおはりにはまいりつきなん  ☆ 生まれてはまづ思ひいでん古里に、契(ちぎり)し友のふかき誠を   

ri-zyu
質問者

お礼

 色々教えて頂き有り難うございます 参考になりました。

  • mmky
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回答No.2

>法然の教えをお聞かせください。 ○法然の教えは口で称える念仏ですね。口称念仏とか称名念仏ですね。仏の名を呼べば仏は一切衆生救済の本願があるのだから助けてくれる「はず」。「はず」を信じれば「口称念仏」が完成するという教えですね。 仏は無量寿(無量の救済光)としての阿弥陀仏が口称の対象ですね。教えはそれだけです。「選択本願念仏集」の趣旨 この教えは法然の発明というわけではありません中国に善導という浄土宗の僧がおり「口称念仏」の教えを説いたのですが人気なく葬り去られていたのですが、それを法然が掘り起こしたということですね。、 >親鸞との違いもよければ。 ○親鸞は「私は法然坊を信じるそれで地獄に落ちても構わない。」と言ってますので。法然の弟子ですね。 だから法然と同じ教えですね。 ただ、悪人正機説にいたっては法然の教えをさらに拡張してますね。「口称念仏」がもうなんでもありになったということですね。 >今の浄土宗と浄土真宗の間柄は。仲いいのでしょうか。 親鸞は法然を継ぐものとして現れたのですから、浄土宗と浄土真宗も本来は同じものですね。 ただ、宗派がある以上違いはあるということですね。まあ元が同じですから現代ではお仲間でしょうね。

ri-zyu
質問者

お礼

有り難うございます色々と勉強になりました。

  • notnot
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回答No.1

>今の浄土宗と浄土真宗の間柄は。。仲いいのでしょうか。。 法然上人800回忌・親鸞聖人750回忌のイベントを共同でやってましたから、仲はいいのでしょう。 >法然の教えをお聞かせください。 >親鸞との違いもよければ。 検索すればいくらでも情報があるのですが、具体的にどのあたりがわかりませんか?

ri-zyu
質問者

お礼

有り難うございました。