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本当に親鸞の教えで救われたという方居ますか?
本当に親鸞の教えで救われたという方居ますか? このサイトには親鸞についての論議が多く載せられていますが、 彼またはブッダの言葉を受けて心が救われた、幸せを感じることができ、不退転の境地に達した、という方はいらっしゃいますか? 私は真宗の寺族の者ですが、未だに良く分かりません。 もしいらっしゃいましたら、 ・どうやったら信じることが出来るのか。 ・どのような言葉や教えに救われたか。 と言ったことを教えて頂けたらと思います。 よろしくお願い致します。 親鸞会の方の回答はご遠慮させて頂きます。
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・どうやったら信じることが出来るのか。 ・どのような言葉や教えに救われたか。 ○ 迷ってますね。 ・・どうやったら信じることが出来るのか。 ○ 信仰のない方は「ただ丸ごと信じてみるしかないんですね。」頭でいくら考えても無駄の上塗りですね。信仰に99%はないのですね。1%の迷いは悪魔を呼ぶだけですからね。 100%信じるというのが信仰ですから、それ以外は止めたほうが安全ですね。 親鸞であれば親鸞の生き様を信じ、真似ることで親鸞がわかりますね。仏陀も同じですね。仏陀は遥かなる巨人ですから信仰も並大抵ではだめですね。0.1%の不信でさえ道を外し迷いますね。 まず、親鸞なら親鸞の気持ちになれば、親鸞程度ならわかるでしょう。解説書やお偉い坊主のご託宣でなくご自身で感じ取ることですね。 まあ、私も若き頃、親鸞を学びましたが、あの罪意識の深さにはあわれさえ感じましたね。でもそれを振りのけるだけの信心には敬服いたします。 仏陀の教えは、中国でかなり意訳されていますが、丸ごと受け入れれば理解できるようになりますね。これも現代の仏教界の解釈ではだめですね。完全なる迷いの中ですね。 仏陀の「もろもろの比丘、比丘尼たちよ。」という声が心に響けば100%の信仰が立ちます。でも最初の門は「信解脱の門」ですから、「丸ごと信じる。」ことが出来なければ、当然「信解脱の門」はくぐることが出来ず、その先の智恵による信仰「慧解脱の門」に達することはできませんね。 荒修行では悟れなかったと言ってるのですから真似ても悟りはないですね。自分なりの解釈はだめですね。丸ごと信じないとね。 つまり、「信」なくば「慧」無しなんです。 これが、あなたの質問の答えになりますが、この逆は当然ないのですね。 あなたの質問は、「信」に到る「智慧」は?と問うているのですからね。 信に到る方法論の一つは、布施がいいですね。布施の勧めですね。相手の幸福のために仏陀への布施をお願いすることですね。そのつらい行動を通じてあなた自身の信がわかりますね。
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- ctaka88
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この問題については、親鸞聖人ご自身の答えしかないのではないでしょうか。 歎異抄第九条 一 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。
お礼
ありがとうございます。 今は読解力が無いため理解できませんが、いづれ改めて読みます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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親鸞の教えで救われたという方にご質問でしょうから遠慮申し上げていましたが、みなさん必ずしも親鸞の教えで救われたという方だということではないようですね。 倉田百三や吉川英治などしか読書はしていないが、その範囲では救われたというより、出会ったということ。感激したという以上ではありません。はい60年前の中学です。 ですから、ご質問の仰せの意味での“救われた”というものではありません。 南無が仏教用語で何を意味するのか今は無知ですが、南無阿弥陀仏という信仰は私たち、自力一筋のインド哲学と精進でも最終的には、他力です。信仰です。 善人なおもて、そうです。善人ではなく、聖者でもない。普通の人間。 南無阿弥陀仏と信仰するしか、ありません。 私たちも瞑想、技法の修練。そして理論の深化を精進します。自己の骨身にしみこむように日々聖典に自己のあり方の確認をします。 無論、素人で独学です。指導者というのは不可視の世界の方でしかない。在家というのでしょう。 でも雨風風雨寒熱に関らす起床して準備して行には3時。そして夜の行。そうしても決して人間でしかない。 これを悪人というのでしょう。ですから自力の精進と信仰ですが、これをさせている方、そして可能にしている存在のお陰です。ですから他力です、最後は他力です。 他力でおすがりするという、自己を滅失するお教えは親鸞の素晴らしいところではないでしょうか。 そういう自己滅失の阿呆にならないといけません。愚かな親鸞。愚か。これに徹する事が私たちです。 これは盲目でも、無知でもない。人一倍に勉強も必要だし、思索も、地域や活動団体での献身もあります。 私は信仰者ですが、いつ政権を担当できるか分らない、一応ラディカルな革新の政党活動者でもあります。 思想は同志とは異なりますし、民族性は貴重だと思いますが、国の意識革新が大事だと存じております。 シンパとしては高校時代からですから、もう50年以上にはなります。
お礼
ありがとうございます。 おっしゃることがあまり理解できず申し訳ありませんが、 求める心が大事、他力におまかせするということが大事ということでしょうか。
私は、親鸞会ではありません。 本当に親鸞の教えで救われたという方居ますか? →南無阿弥陀仏の念仏を唱えることにより、死後極楽浄土にいけるとありますが、そうかもしれません。 ・どうやったら信じることが出来るのか。 →信じるとは、自分自身から神や仏を「求める心」が原点です。「求め心」を持つ事を一般的に「信じる」と言うのかも知れません。「求め心」は、神や仏から賜るものかもしれません。 ・どのような言葉や教えに救われたか。 →真言は、何でも良いと思います。自分の「求め心」を代表する真言で良いと思います。
お礼
ありがとうございます。 >南無阿弥陀仏の念仏を唱えることにより、死後極楽浄土にいけるとありますが、そうかもしれません。 これは答えになっていないのではありませんか? そうかもしれない=違うかもしれない=信心決定していない=救われているという実感が無い。ということではないですか?
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 《信じる》は とうぜんのことながら 《考える》ではありません。経験合理性にもとづく経験思考が果てたところに 非思考としての《信じる》が来ます。 (ひとによっては 何にも信じられない・ゆえに信じないというかたちの《大きくは 信じるという領域》に出遭います。《信じない》というかたちにおいても そのとき心にそういった窓ができたかに感じると思います。ですから 心の明けもしくは伸びが その無神論にあっても 想定されるものと考えます)。 という信仰類型を 親鸞の思想は明かしていると受け取っています。 ところで《信じる》は いっさいの思考の果てたところに起こるとわたしは見ていますが それは したがって 向こうからやって来るのだと捉えています。そして――万法のほうが進みて わたくしに―― やって来たときには それは主観としてであってよいのですが それを受け取るというのは 思考もかかわる経験的な意志行為になります。 〔言いかえると この意志行為として 領収証を発行するにせよ・しないにせよ(つまり なぜなら 発行しないという意志行為で 向こうからやって来た何ものかに対してわたくしは 答えた格好になるからです) それはつまり 心の明けであり伸びであり そこに窓が備えられたかに感じるというかたちです。窓はもともとあったのでしょうが そのとき気づいた・つまり目覚めた(仏陀)というのだと思います〕。 たしかに受け取ったよという領収証を発行した場合は いわゆる有神論であり そうでない場合には無神論です。どちらも 非思考としての信仰という《わたし》の存在形式でありその自己表現の形式であるとなります。 有神論は 弥陀の本願のことであり その絶対他力のことです。《はからひ無きを旨とする》というのが 《非思考》という意味だと思います。 結論としまして ★ ・どうやったら信じることが出来るのか。 ☆ に対する答えは ありません になります。向こうからやって来たときの問題だからです。 領収証を出すという行為は わたしの意志行為ですから その部分では《受け身のあとの能動的な〈信じる〉という行為》もあります。あるいはその受け取ったものの継続 つまりは言いかえるなら 《こころの窓としての・わたしならざるわたし》の持続 ここにもわたしの意志行為があります。非思考としての信仰は 《出会いとその受領》において完成したのですが その完成のすがたはまだ――生身の人間として生きているのですから――見ていません。ゆえに 持続としての意志行為も伴なわれます。 ★ ・どのような言葉や教えに救われたか。 ☆ それらはすべて 信仰の成り立ったあとに意味をもって自分に迫って来ます。その以前にもとうとい言葉として胸を動かすものがありますが まったくそうなのですが ビフォーとアフターとではその意味が違うと考えます。アフターではとうとく重要なのですが 言葉はどうでもよいとなると思います。言葉・思考・その《はからひ》 これを超えているのが 信仰なのですから。 ですから 心の窓がそなわったかのように感じるすがたが成ったあとは 非思考なる信仰が 経験思考に先行するという生活態度(思想)が 現実になると考えます。(通俗に言えば 脳天気であり 白紙またはタブラ・ラサの状態だと考えます)。 ★ 不退転の境地に達した ☆ と思ったりするときもあるのですが それはつねに《裏切られ》ます。その意味は 《不退転の境地に達》することができたのは 向こうからやって来たその何ものかの力によっていると あとで軽くばかにされ知らされるからです。 人間は海を航き時には走るのですが その地続きの彼岸(?!)に到達するのは わたしの力に拠らずということのようなのです。 ★ 心が救われた、幸せを感じることができ ☆ 心が癒され やわらがしめられます。幸せを感じもしますが 幸せを感じれば感じるほど 世の中にあって 《アース役》がついてまわります。人からの意識の排泄をアース(接地)するごみ処理かつ浄化工場の役回りです。 親鸞もブッダもいづれも 人間でした。
お礼
ありがとうございます。 しかし私にはおっしゃることが理解できません。 難解です。
- BALB
- ベストアンサー率41% (35/84)
客観的に宗教というものを見ると、多くの宗教が人間の生き方や心理状態に対してそれをどのように捉えるか、対処していくかということを示しているかと思います。 宗教の教えを信じることとはどういうものなのでしょうか。「○○をしなさいと言われているから○○をする」だけではなくそのことがどのような目的・意味をもって言われているのかご自身で考え実践することが必要なのかと思います。その結果、その行為がどのような意味で言われているのか理解でき、そしてそのことに共感出来た時人はその教えに救われた(共感・感銘を受けた)と言われるのではないでしょうか。 質問者さまの宗派に限った解答にはなっておりませんが少しでもお考えの手助けになれば幸いかと思います。
お礼
ありがとうございます。 おっしゃる通りだと思います。 はたしてその共感するということが未だに全く出来ておりません。
お礼
非常に明快でした。ありがとうございます。 ただ行動するのは難しいですね。 布施。何かできることからやってみます。