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田畑勝手作禁止令が出される直前の米農家はぼろ儲け?
田畑勝手作禁止令が出される直前の米農家は 逆に言い値でも売れるレベルでぼろ儲けだったのでしょうか?
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とんでもない。ぼろ儲けしたのは商人だけです。農家は現金収入になるというだけで特に儲けたというほどではない。ぼろ儲けしたのは紀伊国屋文左衛門だけで、みかん農家がぼろ儲けしたわけじゃないんです。
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- tanuki4u
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田畑勝手策禁止令は1643年に発令されました 同時に出されたのが田畑永代売買禁止令 そして 前年 1642年が寛永の大飢饉 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89 地域によっては、コメを作るよりも換金農産物を作ったほうが儲かるわけです。 しかし、日本全土で考えると、主食である米を作らせないと、全国政権である幕府としては困るわけです。 それまでの農民収奪から撫民政策、農民保護政策に転換したのがこのころで、キッカケは大飢饉。 幕府の為政者側の言い方を直球で言えば 「農業で儲けようとするな、最低限の生活を考えれば、米作りがベストだ」 という方針。 その米作りがベストであることを保証するために、売買禁止令も出している
- Verhalten
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春先に菜種を油屋に売れば手っ取り早くお金が手に入ります。 これで苗代を買うお金が手に入るのです。 当時は苗代を高利で貸して収穫の時に巻き上げるのが普通でした。 これでは子供の農地の購入などは望めず、将来の生計の見込みすら立ちません。 すなわち、江戸時代の百姓は食えないのです。 そこで商品作物に手を出します。 綿花は魚肥が必要でした。 必要経費はかさみますが、米の1.5倍~2倍の儲けが期待できたのです。 百姓はこぞって田んぼを綿花畑に換えて行きます。 そこで 田畑勝手作禁止令が出されたのです。 あくまで米=武士の給料=通貨 だからです。 今で言う自治権や警察権を持っている諸藩は幕府の口出しを面白く無く思いました。 >逆に言い値でも売れるレベルでぼろ儲けだったのでしょうか? だから百姓は田んぼを商品作物の畑にしたのでしょう。 タバコや塩は藩の専売品として安く買い上げられてしまいますが、 綿花は糸になり、紡いで綿布になり、染めに入ります。 藩の大事業だったのです。
補足
ありがとうございます みんなが金儲けに走る(米を作らない) ↓ 米が少なくなる ↓ 米の値段が高騰↓ ↓ 結果、まだ米をちゃんと作っていた人は儲かる という事にならないのでしょうか?