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東北地方は、やっぱり貧乏だった。

東北地方は、やっぱり貧乏だった。江戸時代の飢饉で、東北は大打撃であり、あぶく石高だった。伊達者(見栄・誇張)のハリボテ辺境根性では、やはり天下を取れず。他地域に攻め込む力など、もともとなかった。 政宗の評価は、江戸時代中期以降の仙台藩の礼賛で間違いないですね。 あぶく・ま川は、伊達じゃないですね。

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  • lions-123
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回答No.1

>東北地方は、やっぱり貧乏だった。      ↓ 詳細は分かりませんが、客観的な事実として、コメ中心の経済や社会であった時代に ◇品種改良や栽培生産の機械化が進んでいなかった時代に、単位面積当たりの収量・北限・天候の厳しさ・冷害や干ばつへの半ぢキャップとリスクが大きいのでは。 ◇米に加えての副産品としても気温・地温や日照条件、降雪積雪から、温室栽培もなかった時代に、米に次ぐ適した農産品は少ない。 ※例えば、その飢餓対策や貧しさが当時、あまり食べなかった牛の舌や内臓を捨てずに利用する為に、牛タンやホルモンの形で食していた。 ◇都(京都)から遠く、地政学的に不利な条件であった。 奥州平泉の繁栄は金の算出が齎すものであり、奇跡的な栄華栄耀を極めていたとしても、当時も一般的な民衆クラスまでと成れば、古来より蝦夷と差別されたり、役人にも左遷や島流し的なイメージがあったりしたように、地域全体のイメージや実態は衣食住が貧しく、都からは差別&無視されていた。 例外的に伊達藩の隆盛(徳川との親交や縁戚関係)本間家(大庄屋)とか水産加工の元締め的な存在はあっても、全体として大きな産業や巨大市場が無く、道路等のインフラも現在のように進まず商業・工業・流通の発達も遅れていた。 ◇その基本的要件に加え、冷害や飢饉によるダメージが大きく、冬場を支え稼ぐ産業もなく農業も難しい為に、娘の身売りや出稼ぎ、集団就職も東北地方に多く、その供給源であった事はイコール貧しさの象徴でもあったと思います。

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