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藩が付く単語
「○○藩」という呼称が広く使われるようになったのは幕末以降だそうですが、「藩校」「藩邸」「藩士」「脱藩」のような言葉は江戸時代前期・中期でも一般的に使われていたのでしょうか? 固有名詞とつなげての「○○藩」が無かっただけ?
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>固有名詞とつなげての「○○藩」が無かっただけ? 〇『加州藩中知行録/売茶園[撰]/小寺玉晁/安政5(1858)』 http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_00696_0171/index.html http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_00696/i04_00696_0171/i04_00696_0171.pdf <55/58>(左頁1行目) ?加州藩中知行録ハ… 幕末=1853(嘉永六)年ペリー来航後としますと、 上記の題目「加州藩(※1858年)」に限らず、 下記の如く主に出版物などでは著者、出版者等の記載につき 「水藩(※1787年)」「紀藩(※1812年)」「濵松藩(※1826又は1823年)」 「彦藩(※1831年)」「津藩(※1837年)」など幕末以前 (管見に過ぎませんが、遅くとも江戸後期)から散見され 既に「○藩」表記の素地が出来ていた様子が覗えます。 〇『志学警/長久保玄珠/〔1787年〕』 https://www.lib.pref.ibaraki.jp/guide/shiryou/digital_lib/valuable_m/001052838636/Bibliography.html https://www.lib.pref.ibaraki.jp/guide/shiryou/digital_lib/valuable_m/001052838636/001052838636_honkoku.html [翻刻17行目] 水藩侍講長久保玄珠識 〇『紀伊国名所図会.[1]-2集/高市志友編述;武内萃亭刪輯; 西邨中和図画/ 大阪:河内屋太助,文化8-9[1811-1812]』 http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_e0212/index.html http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0212/ 10 <41/43>(左頁5行目-) 紀藩 塊亭翁 … 文化九(※1812)年二月海宇發行 〇『(理学入式)遠西観象図説/吉雄尚貞/文政?9?(※1826)年』 http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00000115 <118/120>(右側頁1-2行目) 文政六(※1823)年癸未至日 濵松藩 髙津豫謹識 〇『逸周書10卷校正補遺1卷.[3]/(晉)孔晁注[他]/ 彦(根)藩弘道館(木活字印)/天保2[1831]』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568288/58 <58/59>(???丁5-7行目) 文政丙戌秋 彦藩文學臣西鄕義謹識 天保二辛卯(※1831)年 彦藩弘道館活版 〇『論語集解10卷.[2]/魏何晏撰/津藩有造館刊/天保8序』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568380/52 <52/54>(2丁オモテ7-8行目) 天保八(※1837)年歳在丁酉六月 津藩有造館講官川村尚迪謹識 >「藩校」「藩邸」「藩士」「脱藩」のような言葉は江戸時代前期・中期でも一般的に使われていたのでしょうか? 少し調べただけなので、断定は出来ませんが、 前記の「○藩」事例等と下記の「藩邸(※1808年)」から推し測ると 少なくとも江戸後期であれば「藩邸」の他にも「藩士」「藩校」表記などが 見つかっても何らおかしくないように思います。 〇『韓非子翼毳.[8]/太田方/太田方[ほか]/文化5(1808)』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2546579/47 <77/49>(?1丁ウラ1行目) 享和元年書于江戸藩邸私館福山太田方題 以上 残念ながら江戸前・中期には踏み込めませんでしたが、 少しでも足掛かりになれば幸いです。
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- ichikawa2017
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>「○○藩」という呼称が広く使われるようになったのは幕末以降だそうですが、 幕末以降ではなく明治元年に明治政府が地方行政の単位として大名領の公称としたのが始まりです。 >江戸時代前期・中期でも一般的に使われていたのでしょうか? 一般的には使われてはいませんでした。 「藩」という言葉は古代中国が発祥ですがその関係もあって一部の儒学者の間では使われていました。 あくまでも学問上の言葉でした。 一般的には「藩」という概念がなかったということです。 〇〇家の領分(領地)という考え方でした。 藩士については、現在の地方公務員のように藩に仕えるという意識ではなく〇〇大名に仕える家臣という考え方でした。 家臣団を表す際には〇〇家の家中という表現がされていました。 藩邸については、藩の邸宅という認識はありませんので江戸などでは第三者が言う場合は尊称として「候」が使われていて〇〇候のお屋敷と呼ばれていました。 藩校については、家臣の子弟を教育する機関でしたので明倫館、進脩館 弘道館、など大名家それぞれの名称で充分でした。 儒学者などが私的に教えていた際には「塾」と言う言葉がよく使われました。 吉田松陰の松下村塾などが有名です。 家臣はあくまでも大名に仕える身分ですので脱藩という行為は大名に無断で家中から離れる行為ですので逐電と言われていました。 蛇足 江戸時代には「藩」という言葉だけではなく「幕府」という言葉も一般的には使われていませんでした。 「公儀」「御公儀」と呼ばれていました。 大名は自分が統治する領分内では独自の法を施行していました。 大名間ではお互いに相手の法を尊重していて口出しはしませんでした。 現代風に言えば治外法権を持った独立国どうしだったということです。 徳川家が最大の大名だったことから朝廷の委任を受けて全国の大名を統治していました。 幕府というのも徳川家の組織でしたので大名領内の行政については口出しができませんでした。 大名領から逐電した家臣が他の大名領に逃げ込めば捕縛することができませんでした。 時代小説で有名な坂本龍馬が脱藩した後で江戸で自由に暮らしていたのはこのためです。
お礼
ありがとうございます。わかりにくかったかもしれませんが、「藩」は質問の範囲外です。 「逐電」はなるほどです。 「藩邸」や「藩校」にあたる総称名はなかったということですかね? 「お屋敷」で十分だったのかもしれませんが。
- ithi
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notnotさん、こんばんは。 「藩」の話ですよね。Wikipediaで「藩校」などを見ても「藩」にあるような、幕末からという記述がありません。これらも幕末からとしたらそれまでは何と呼ばれていたのか。 藩校は江戸時代中期から幕末にかけて作られた藩の学校ですから、学問所か固有名詞だと思います。藩というのはその領地を治める自治組織というのが一般的な説明です。 藩校 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E6%A0%A1
お礼
ありがとうございます。もちろん、個々の藩校を呼ぶときは固有名詞だったのでしょうけど、全体としての総称はなかったということですかね? 学問所か。固有名詞に「xx学問所」というところもあるので、そうかもしれませんね。「xx学校」というのもありますね。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9602)
notnotさん、こんばんは。 江戸時代には部分的に使用されていたようですが、まだ、一般的なものではありませんでした。一般的に「藩」が使われたのは明治時代になってからのようです。詳細は下記のURLを参照してください。 「藩」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9#%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3
補足
回答ありがとうございます。 これは見てますが、質問に書いたように「藩」の話ですよね。Wikipediaで「藩校」などを見ても「藩」にあるような、幕末からという記述がありません。これらも幕末からとしたらそれまでは何と呼ばれていたのか。 最近「藩とは何か」という本が出たので、読んでみようかと思ってはいますが。
お礼
ありがとうございます。お詳しい方のようで助かります。 > 水藩(※1787年) なんと、18世紀からすでに「xx藩」があったとは。 調べていただいてありがとうございます。 他についてもありそうですね。ただ、総称名じゃなくて、 > 享和元年書于江戸藩邸私館福山太田方題 のように、個別のものを指しての用法ですかね。 藩校についてはそれぞれ固有名詞があるので、個別の呼称は固有名詞でしょうね。
補足
これ以上回答がつきそうにないので、質問を閉じます。ありがとうございました。