江戸時代には正式名称としての「藩」はありませんでした。正式には「○○家」と言います。
例えば時代劇で長州藩と呼ばれているのは、正式には長門・萩の毛利家です。
中国(今の中華人民共和国)では諸国を治める諸侯を藩王と呼んでいました。
江戸中期に漢学者たちがこれをまねて、大名の領地を藩と呼び始めたのが始まりです。
もともと武家は家を基本構成単位としていますので、一つの大名家に家臣も家として仕えます。だから家臣も自分のことを○○家家臣と呼称します。
大名家の領地内の政治も家を基本としています。
しかし、江戸時代になり社会が安定し、大名が参勤交代で本国にいることが少なくなると、大名家も政府機構のようなものを整えるようになり、家という意識が薄れてきます。特に江戸時代も後期になるとその傾向が強くなります。
一般の家臣たちも江戸後期になると「藩」という言い方を使います。
「藩」と言う呼び方は、特に幕末の勤王の志士の間で流行した呼び方のようです。
(当時の勤王の志士の流行語で、他には自分を「僕」、相手を「君」と呼ぶのがあります)
ただし、格式を大事にする武家社会では江戸時代が終わるまで、正式な場では「○○家」と呼んでいました。
明治になり、新設された府や県と区別するために、「藩」は正式な呼び方となりました。
これ以降の回答は説明の都合上、「藩」を使わしてもらいます。
>江戸時代の地方自治の単位で”藩”という
ちょっと誤解があるようなので説明させていただきます。
江戸時代の藩は地方自治ではなく、独立国家です。
それぞれの藩は独立国家として扱われ、江戸時代の日本は三百諸侯といわれる独立国家の集合体です。
現代の仕組みにたとえると、それぞれの藩はアメリカや日本などの国にあたり、幕府は国連にあたります。国連はアメリカや日本の内政に干渉できないのと同様に幕府は各藩の内政に干渉できません。
ただ違うのは、幕府は国連より権力が強力で、藩を取り潰したり、国替えをする権限を持っています。
国連に強大な権限を持たせて、その場合の国連と加盟国を想像すると、イメージ的には幕府と各藩の関係が想像できると思います。