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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:自然農法の畑で哲学すると?)

自然農法の畑で哲学する

このQ&Aのポイント
  • 自然農法の畑で哲学するとは、自然の秩序と関わりながら非効率的ながらも競合しながら栽培される作物たちの姿を思い浮かべることです。
  • 自然農法の畑では耕作や施肥をせず、実生を収穫するために環境の手入れを続ける必要があります。
  • 自然農法の畑での哲学は、人類が淘汰されるような環境での生存について考えさせられるものです。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#145704
noname#145704
回答No.7

お久しぶりです。雨合羽さんの質問に投稿するのは、初めてかもしれません。私は農耕と牧畜のことは、専門外と言わねばなりません。が、思想的な回答をお待ちだと仰る。印象を述べるだけなのですが、お許しいただきましょう。 まず、雨合羽さんの議論は、農耕とは、人が自然に手を加えて改良するべきものである、という前提があるように思います。つまり、自然は放っておくと粗野なものとなってしまうから、人が手を入れなければならない。なるほど、山の管理などそういたしますね。山は自然のものだから人が手を入れないとすると、やたらと無用な植物が生い茂って、植生がバランスを崩してしまうと私は聞いています。 それに対して、「自然農法」というものは、人が一切手を入れない。バランスを崩したとしても、害虫が大量発生したり、ある強靭な植物がその畑で覇権をとってしまったりしても、まぁ、それはそれとして、人が受け入れなければならない。自然というものを、改良するべきものとみなすか、受け止めるものとみなすかで、二つの農耕の態度は対立するのです。 おそらく、熟れすぎた牛蒡に驚かれたのでしょう。雨合羽さんが、呆然と畑を歩いている姿が目に浮かびました。実際に畑に行ったら、私とて、驚愕するかもしれません。が、敢えて頭でっかちなことを言えば、上記の対立は、美術史では昔からあった話です。 ご存じのように、古典主義では自然は粗暴なものであって、芸術家が改良しなければならないものです。モデルの顔をそのまま描写するのではなく、鼻の形が気に入らなければ、修正を加えるわけです。対して、写実主義(レアリスムや自然主義など全般)は、モデルの顔を修正などしません。醜さも醜さとして受け止めるわけです。こうした考え方を、自然農法を考察する時に応用できるでしょう。すなわち、 ・自然を改良する農法:古典主義的 ・自然農法:写実主義的 さて、このようなパースペクティヴを入れると、写実主義に関して理解のある方にとっては、自然農法の良い点が次第に分かってこようというものです。つまり、自然農法は、その土地の風土を直接的に反映するという点で、優れているのです。たとえば、暑くて乾いている土地に、ビニールハウスなども建てないで苺の苗を植えても、おそらく全滅することでしょう。しかし、こうした土地に、イモ類や、ワイン用のブドウでも植えたなら、その土地ならではの風土を反映した作物が採れるかもしれません。自然農法が写実するものとは、その土地の環境、―つまり気候や降雨量や、「風土」と言われるモノそのものなのです。そして、こうした作物を口にすれば、あたかもその土地と一体になったかのような気持ちがすることでしょうね。 無論、「自然農法」といったところで、農耕そのものが人工のことなのだから、厳密には「自然」ではない、という言い方も出来はするでしょう。また近年は、品種改良が進んだ結果、その土地を改良するのではなく、植物そのものを改良して土地にあわせるということができるようになっています。かくして、原初的な「自然農法」など失われているのだ、ということもできそうです。 しかし、こうした批判は屁理屈にしかならないことでしょう。というのも、自然農法とは、自然に還るということを意味しません。むしろ、風土をありのままに写実するという意味で、―つまり、自然主義の「自然」と同じ意味で―、この名称が冠せられたと考えられるのです。言い換えれば、作物を植えるという行為は、画家が絵筆をとるようなものです。自然主義の画家に対して「絵筆を持つという行為そのものが、そもそも自然ではない」などと言っても、議論として面白くないでしょう。 ――このように考えれば、少し自然農法が楽しくならないでしょうか。私個人は、雨合羽さんと同じくパリにいますが、日本に帰った折には、自然農法の野菜を愛好して食べています。お勧めは「農家の台所」というレストランの野菜バイキングです。ここでは産地によって、生産者によって、味が全く違うことが実感できます。さまざまな野菜を比較検討していると、私には、農家とは、さながら、その土地の特性を野菜によって凝縮させる芸術家なのではないか、とさえ思えて感激するのです。 が、私の友人には、野菜の違いが分からなかったようです。この人は高学歴で知的な方ですが、紀伊國屋で買ったハウス栽培の野菜と同じであるなどと言い出したわけです。そして私が聞いて回ったところ、驚くべきことに、むしろ、ハウス栽培の野菜の方が、味が平板で食べやすいなどという者が多数派を占めるのです。残念ながら、合成調味料に慣れた現代人の舌には、その土地ならではの粗暴さを反映した野菜は、必ずしも理解できないようです。しかし、おそらく雨合羽さんは、味の違いが、お分かりになることでしょうね。(ところで、パリにもそういうお店があったら、教えてください。私の知るお店は、濃いソースで野菜の味を殺してしまい、四季も旬もあったものではなく、まったく、野菜が採れた土地のことが分からないのです)。 さて、雨合羽さんは自然農法的な人材育成がいかなるものかと問うてらっしゃいましたね。上記の議論にあてはめれば、たとえば大学という「土地」で野放しにされ、淘汰された挙句に残った方は、その大学固有のカラーを体現することでしょう。ソルボンヌならソルボンヌの、オクスフォードならオクスフォードのカラーを体現しているというわけです。しかし、逆にハウス栽培もあります。パリ政治学院は、個性を潰して官僚になるように強烈に指導するところです。これより私は「自然農法」的教育の方が好きですね。 おそらく、農業における自然農法を不条理だと考える方でも、子供の能力をハウス栽培的に発掘する教育に反対する方は多いだろうと思われます。結局、どうやって教育しても、淘汰は起きるのです。自然農法で、脱落者が出ることは確かでしょう。しかしハウス栽培のエリート校にも、同じように脱落者がいるのです。問題は、生徒に官僚的なバランスの取れた能力を期待するか、特異な個性を期待するかという教育の方針の違いだけであって、脱落者のないユートピアを作ることではないと思えます。

amaguappa
質問者

お礼

サイコロさん、楽しいご回答でした。最初に断っておくとわたしがパリや地方都市に行くのは年に数えるほどで、東京に暮らしています。震災の日も都内にいました。パリに住んでいると思われたのは何故でしょうね。大雪のときの交通情報を挟んだ回答を御覧になったのかな。 美術の写実主義に擬えるとは恐れ入りました。じつは、この自然農の傾向には一種の洗練された理念とインテリ感と都会的美意識がつきまとう気がしていたのです。ちょうど本屋に並ぶ自然派雑誌のような。なるほど、見上げるようなゴボウの木といい、雑草に地肌を守られて勝手に生えた南瓜の蔓といい、そこの土地・気候を活写するに違いありません。条件づけられたままの様子を受け入れるという意味で自然主義文学的でさえあります。決定論的に。 「農家の台所」は面白そうですね。拙宅では産地重視の有機食材宅配を使っています。産地の違うものを子供が食べなかったりするところを見ると、幼児の舌にはとてもかないませんね。 パリで野菜の扱いを誇っている店も増えたのではないかと思います。産地の違いを調理に反映させるほどとなると詰まらない話でアルページュやタイユヴァンが思い浮かびますが、それというのも星を取ってからでないと野菜にかまけている暇がなさそうですからね。 人材育成の話題を振ったつもりは、なかったのですが、コミュニティ運営のつもりでしたが、、、昔から「お嫁に行くならエコール・ポリテクニークかエコール・ミリテール」って言いますから、ハウス栽培ものは露地物より売れるみたいですよ。冗談はさておき、淘汰のないユートピアなんてないというのは尤もだと思います。むしろ、自然農の庭師はものすごく淘汰の作業に従事しないとならないようです。耕地のように乾燥しないので水やりこそ殆どないのですが、手入れは休む暇もないようです。やりすぎてもやらなすぎてもよくないと聞きました。

その他の回答 (10)

回答No.11

こんばんは、amaguappaさん。 果樹農業振興特別措置法 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S36/S36HO015.html 果樹農業振興特別措置法の一部を改正する法律の施行について http://www.maff.go.jp/j/kokuji_tuti/tuti/t0000111.html 果樹施策の概要 http://www.maff.go.jp/kinki/seisan/engeitokusan/kajusesaku/gyouseijyouhou.html

amaguappa
質問者

お礼

こんばんは。果樹ですね。

回答No.10

 生態系の競合を,当事者視点でとらえて,自然の摂理に不条理を感じるのはもっともなことです。  この自然農主義者に,当事者視点はないように思われますが,「偶然と闘争に満ち,関係と調和の陰に淘汰されるものがいる」という認識は視点がことなっても共有できるでしょう。  視野を自然から社会に向け,当事者視点で同じ認識をすれば,感じる不条理は,自然の摂理によるものではなく,社会の人為によるものです。  自然の摂理による不条理が避けられない場合,それを受け入れるほかありませんが,人為的不条理に対しては,人は人為から逃避したり,人為と闘争して不条理を無きものとするのだと思います。  ところで,昔,来日しTV番組に出運したマザーテレサの意外な言葉が印象に残っています。行動の意図を問われた彼女は「私は社会を変えようとは思っていない」と淡々と答えました。明らかに社会問題である餓死者の不条理を,自然の摂理のフィルターでとらえているように思えるのです。  彼女にとっては,路上で野垂死しかける人々に手を差し伸べ,ベッドとわずかな食事を与え,共に生活し,その死を看取るということが,自然の摂理に反しない範囲で人間の取りうる行動の,一選択肢にすぎなかったのだと思うのです。

amaguappa
質問者

お礼

これは考えさせられるご回答です。 庭師の手は、闘争と不条理の世界にどれだけ介入するか。 マザー・テレサは神の下僕ですから、巧みにして巧まざる手を、お持ちでありましょう。 人間の世界で、有害な者、邪魔な者、余計な者、喰う者、喰われる者、日なたに居るべきなのに日陰に居る者、その逆、これらが庭師の視点で包み込まれるということは、その包み込みこそがちょっと恐ろしい。 課長さんが課内を見まわす時、教師が教室を見まわす時、町内会長が町内会を見まわす時、そのような人間関係の流れに任せてみようってなことはあまり無さそうです。 仰るように、逃れようとしたり抵抗したりして動くのが人間ですね。動くので流れは複雑で込み入り、ほんの小さな闘争が予測不能な全滅を招くというリスクもあるでしょうね。 どうも規模と期間の問題に尽きるように思われますね。大船に乗った気でいる前に大船はどのくらいの大きさかという。

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.9

こんにちは。 >自然農は耕作と施肥をしないのですが、 実生を収穫できるように手入れをしつづけなければ、そんな環境の内ではそれこそ 人類が淘汰されるような気がしました。< なんて、愚かでしょうかね。 哲学では、ありませんが。 これが、本来の自然ですよ。 そこで、人間には、他の動物と違い知恵があるのです。 動物においての、自然は、自分達の食べる分だけ取るということです。 そして、自然と調和して生かしてもらう。 しかし、人間では、それでは、他の生き物に負けてしまいます。 虫にさえ、負けるでしょう。 私は、人間による自然農法とは、人間の知恵も含めた物とするべきです。 そのうえで、自然と調和して生きる。 生きるのに必要なものだけ収穫するということです。 まず、畑を耕しましょう。土を作りましょう。そして、水路を作りましょう。 虫や雑草を排除し、その地に適した、作物を植えましょう。 農薬の代わりにカルガモ等の鳥。 土地を耕すには、牛等も必要でしょう。 ニワ鳥もいいですね。 これ等の糞は、肥料となります。 草木灰は、作物の予防になります。 そうすれば、その地で何人が食べていけるか分かります。 不作の時のために、保存食も蓄えましょう。 大事なのは、自然を破壊するようなものを作らないこと、作り過ぎないこと。 必要以上の事をしないこと。 自分達の生きるのに必要な分だけ、協力して行うことです。 これが、私が今、考えた、人間の自然農法です。

amaguappa
質問者

お礼

そうですね、大自然のままでは人類の生命力と繫殖力では虫に負けてしまいますよね。知恵で自らを守ってきたのが人類の祖先だということになっています。進化論では。 わたしは農業に明るくないので、コストと労力と収穫および収益という算盤がはじけません。たぶん家業であるためには一番大事なところかと思います。 仰るところは有機農法ということになりますか。 古来、身の回りの自然を支配することを特に禁じた宗教はありませんでしたし、家畜の世話も含む重労働の農業の基本形に大きな地域差はないと思います。移住先でその地に適した作物を見つけ出すのには苦労したことでしょうね。 大手配給などにかからない小品の映画、とくに東欧から西アジアのものなどで、山野の荒れ地に流れ着いた人々の開墾のエピソードを見ることがしばしばあります。あきらめて土地から逃げ出す者たちを見送り続けて踏ん張るだけの映画もありました。イデオロギーの挟まる余地はなさそうでしたね。

回答No.8

 せっかく医療(看護ではなく)の国資をとったのに、娘がさる辺境に自然農法とかで出て行きました。  国関係の機関で、26を出たばかりの子が26万もの給料をやめて。  私も46年もヒンドゥの思想やラージャのヨーガを勉強・精進しているので、いろいろ喋りたいし、協力もできると思っていたのですが、何も私にはいいませんで。    でもこれってネーミングや方法などのヴァリエーションのことでもありませんか。  まぁ、化学肥料を使わないとか、自然の循環を尊重するとかまでは社会的には納得してもらえそうですが、ご質問やご回答の内容のものだと、存立そのものが難しいでしょう。  そして近隣の農家や居住者も受け入れ難いでしょう。ましてや借地の農地であれば。それに環境問題もありましょう。    農自体が人の手ですからね。  全てを神の手に。とは人間や個人の手や存在が神の意志と手によることが前提だと存じます。  決してのびのびとは育てられませんでしたが、一応自己の意志や世界を認められながら、この愚生も育ちました。  放任というより、両親が管理出来なかったし、危ないことをする少年ではありませんでしたから。  それで自分とそのほかの可能性をなんとか使って生きていく方針が身に付きました。  手を加えすぎなかったので。  自然農法も程度問題だと存じます。  所詮、その植物なり、自然やその他の可能性に不自然なことやあまりに人工的なことをしないで、逆らわないで自然などの可能性や力と協力していくのがいいのだと存じます。  自然も人間の歴史と同じように、日々刻々と変わっています。そういう変化も大事な要素にしないといけないと存じます。  自然に帰れ、マハトマ・ガンディも、多くの思想家や宗教者も素朴で簡素な生活でした。  そういう態度と思想での自然農法が望ましいと存じます。  私も自分の食べる何かくらいは耕作しなければいけないのでしょうが、二三の果樹や二三の食材しか狭いでやっていません。それも自分にはたいへんです。  誰も見向きもしない、都会の端っこの自然を採取してくるくらいです。  感謝をしながら家内と戴いています。  自己満足かもしれませんが、そういう考えと生活を自分に肯定しているだけです。  淘汰されていく人生でしょうが、どんな存在も自分だと思い、どんな存在でも基本の思想とあり方は大事にしたいという思いです。淘汰のない地上界は存立しないのです。

amaguappa
質問者

お礼

そうでしたか。末のお嬢さんでしょうか、さすがと申しますか、勇気のあることですね。辺境にお出掛けとは、くりやさんにはお寂しいでしょう。 自然農法が程度問題と仰ること、その通りだと思います。雑草が土の乾燥よけになり、多様な虫を惹きつけてくれるのですが、畑を案内してくれた方が、都会の家庭菜園でこれをやると隣の奥さんが文句を言うだろうから、雑草のかわりになるように可愛くオシャレな下草を植えるとよい、と笑っていました。 ですから、場所とそこの人々に合っていることはとても大切なことなのでしょう。 戦中は除くとしても、かつての学校や社会は、個性的な人間が居づらいようでいても隙間や逃げ場があって、先生や上司の胸三寸といいますか、今よりももっとデタラメではなかったろうかと思います。豚児が来年から幼稚園(近頃は幼稚園に三年間入れるのが主流で)になりますが、あちらこちら説明会やらに参加していると、お母さんたちが先生や行政の方を先生とも役人とも思わない様子で自分の都合を主張なさるのをたびたび見かけ、地域や社会や組織全体のことを考えないというのはどういう傾向なのだろうかと、いろいろ思いやられます。余談で愚痴となりまして。

noname#176957
noname#176957
回答No.6

>これに魅了されている人々が大勢存在していることがわかります。 農史においてどんな意味があるのでしょうね。 「趣味」 という答では不満ですか? 農業史における意味を見いだそうとすることは、不毛だと思います。 昔の農法や、 生態系農法は、 農業の持続性を考える上で重要だとは思いますが。

amaguappa
質問者

お礼

哲学へ広げる端緒のない話題だというお考えでしたら、お目に留めてくださらなくて構わないのですよ。 何か思い付きましたら、またいらしてください。考察の広がりを賜れるとありがたいと思います。

回答No.5

人間が自然=野生と共生するということは、極論すれば、トラが赤子を食っても自然=野生の摂理として受用できるかどうかに行き着くのではないでしょうか。 罪もない白蟻が貴方の家の土台を食いつくしているのも自然の共生だと言って、のんびりと構えていられるでしょか。 やはり、人を食った経験のあるトラは駆逐し、罪のない白蟻など、土台を食い始める前に殲滅してしまおうとするのが人間にとっての”自然な”考えじゃあありませんか? 私は正直にいって、自分の子供がジフテリアで死ぬ恐怖が無い時代に生きて幸せだと思っていいます。 ジフテリア菌さん、ごめんなさい。(笑) P.S.今度の写真の暗喩はなんですか?ワシは、以前の美少女がすきだったな。

amaguappa
質問者

お礼

野生の摂理を受容できるかどうかにかかっていますね。 ああした、耕作なし水やりなし農薬なし肥料なしの農法をする方々は、みなさんどこまで摂理を受容しているのでしょうね。人によるんでしょうけど、わたしの見た畑では、害虫で失敗しても害虫を受容しているようでしたよ。 作物の採れない乃至種類の偏る年がいっぱいあるだろうと思って心配しました。 ジフテリアとは申しませんが、先進国の人間が罹れば重篤な病原菌でもアフリカの人間にとってはさほどでもないということもありますから、弱くても生きられる環境があるということはわたしにも幸いでございます。 前の写真は3-4年前の写真なので、今年の写真に替えました。それにアップだとokwaveの仕様では目障りじゃないですか。gooからだと気付かないのですが。 前のは主人が撮ったもので、今回のは同僚が撮ったもの。さすがにおばさんになってきましたよ。海外のQAサイトでは自画像を載せるのが普通なんですが、日本では載せる人が少ないですね。独特の現象ですね。

noname#141664
noname#141664
回答No.4

私の極私感的な考えで申し訳ございませんが、「農」という概念自体すでにそこに自然は無いように感じます。人間が狩猟によって動物を主な食料源とし、植物はその場にあった物を採って食べ、その場に落ちた種がら発芽してまた実がなるようであれば、それは自然といえましょうが、植物を主な食料としたとき、無作為では生きてゆけないと作為をもって植物を作る、それが「農」であり、すでに自然ではないこと。自然淘汰で残った植物だけでは人間は生きていけないのでないかと私は思いました。

amaguappa
質問者

お礼

同感です。 つぎにこう考えます。 効率的な農耕を否定すると人類はどうなるのでしょう。。。

noname#176957
noname#176957
回答No.3

>人間が、共生の園の庭師になるかのような夢を感じるのですが その○○さんが「この農法によって、人間は共生の園の庭師になれる」と夢見ているかもしれないと言うことですか? いや。妄想は勝手ですから。 という問題ではなくて? 「○○さんの農法」が不自然なのであって、 「自然農法」の問題でもないですし。「自然農法」は「自然の農法」じゃないことは、前回答の通りですし。 農耕について考察するのは愉しそうですけど?

amaguappa
質問者

お礼

ええ、農耕について考察するのは愉しそうでしょう? 農耕には人類を繁栄させるだけではない問題もありそうですから、注意深く考えたいですね。 仮に、ばら蒔き農法と呼んでみてもよいのですが、 ○○さんのオリジナルではないです。無耕作・無農薬・無肥料などで検索してみてください。 これに魅了されている人々が大勢存在していることがわかります。 農史においてどんな意味があるのでしょうね。 わたしは、この時代の嗜好に合うのだなと思いましたが。。。。

noname#176957
noname#176957
回答No.2

「天然酵母」と同じ、ネーミングに由来する擬似問題なのでは? 因みに天然酵母は、リン酸培養しないことに定義を求めるならば「有機培養酵母」の方が的確だと言われています(それでも「天然」なのは、消費者を釣るための都合)。 「自然農法」に関しても諸説ありそうですが、「現代農業(農文協)」によれば、 自然の回復力に合わせた農法 らしく、非耕耘、無肥料が絶対の定義ではないのではないかと思います。 まぁ、 「自然力活用農法」なんてネーミングにしてみたら如何でしょうか?

amaguappa
質問者

お礼

堆肥づくりを積極的におこなうバイオダイナミクなども、 自然の回復力に合わせた農法といえますよね。 ネーミングは実際いろいろあるようですが、そこの畑の方に説明をしてもらったところ 漠然と、自然農法と認識していらっしゃるようでした。 いくぶん、思想的な試みによる畑なんだろうと思います。 そちらの畑は、無耕作、無肥料にはじまり、蒔いてみて芽が出た所の育つ所で育ったものをいただくという姿勢です。 でも実のところ、草取りや誘引や乾燥対策や害虫対策は半端ではないようです。 人間が、共生の園の庭師になるかのような夢を感じるのですが。。。さて。

回答No.1

ある特定の土地に、種や苗を植えて 自分たちが食べるために特定の野菜を育てる。 これはもう、不自然な行為です。 農業それ自体が不自然です。 つまり自然農法など存在しません。 「自然」と言うなら、原野に自然に生えている植物を摂って 食べるしかありません。

amaguappa
質問者

お礼

そうですよね。 あくまでも住まいの近くで収穫物を手に入れたいということと、 原野から掘ったり摘んだりしてくることを、都合よく混ぜているような。 自然農法とかバイオダイナミクというのは、植物を土地に生育させる際に 「自然に(ありのままに)育ってね」、ということなんだろうと思いますが、 農耕文明の不自然さの上をいく不自然さではないかと思うのでした。

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