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何をやっても楽しいためには?
何をやっても楽しくなる為には能力が必要だと思います。 皆様が思う能力をおしえてください。
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質問者が選んだベストアンサー
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何があっても、感情をうごかさず、ゆったりとした気持ちを維持できる能力。 何があっても、空にすぎないと、頭で理解するだけではなく 頭脳や神経も腹わたも「一切皆空」に沿うように、禅によってきたえられていると、そうなれると言われます。
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- tumaritou1
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何も期待しない能力と思います。
お礼
回答ありがとうございます。 今の私には高度過ぎて質問すらできません。
- cincinnati
- ベストアンサー率46% (606/1293)
補足をいただきましたので、 >自分が大切すぎると、気軽に行動できなくなり、気分が重くなりますね。そのような理解でよろしいでしょうか? ご推察の通りと思います。自分の命はたしかに地球よりも重たいと思いますが、つまり自分の人生はなにものにも代え難いと思いますが、あえてそれを忘れて、他の人々のためあるいは大きな義のために生きることが出来るならば、それに勝る幸いは無いと思います。しかしそのような生き方に入るにはなかなかの覚悟がいるのではないかと思います。 最大の敵は社会でもなければ、何か外部の要因によるのでもなく、最後まで自分を苦しめるものはほかでもない自分ということが出来ます。自分という牢獄に閉じ込められた囚人が自分であるともいえます。どおりで多くの人がいかにも不幸な顔をしている理由がわかります。最近でも華やかな芸能界ではつらつと生きているように見えた若い美しい、将来のある女性が突如自殺をしました。男性俳優の方、有名な野球選手、どなたから見てもまばゆいばかりの生活ではないかと推測されます。 実は常々感じていることは、人はみな迷い出て無益なものとなってしまっているということです。大義が無いのか、目的がないのか、どこに行こうとしているのか、ご自分の人生であるにも関わらず分からないようにお見受けします。 ここで突然、私はプロテスタントのクリスチャンですと述べますと、それだけで一歩引かれてしまうことを知っておりますが、ご質問者さんとお話をすることができるのは今しかないかもしれませんので、あえて申し上げますが、「楽しく生きる」方策は聖書の中にありますので、ぜひ目を通して見てください。聖書の言葉を送ります。 それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と 希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11) いまこの混沌とした社会にあって、心のうちに将来と希望があるだけで平安があり、何をしてもたのしい時間を過ごすことが出来るのではないかと思いますが、いかがでしょうか。お近くのプロテスタント教会では牧師という方がおりまして、皆さんの悩みをお聞きし、適切なアドバイスをしてくださる方がおりますので、お尋ねください。
お礼
補足に答えていただきありがとうございます。 回答者様の回答を読んで、私のキリスト教徒のイメージは更新すべきと思いました。 今後もよろしくお願いいたします。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
余計なこと(物欲、虚栄心、自己主張etc.)を欲求せずに、 本当に必要なことだけを欲求することだ。 生物にとって、生きていること自体が楽しくないのはヘン。 ただ、人類は社会生命化しているので、その「自己の生」 が分業化=助け合う喜びへと移行しているので要注意。 同じパイを、奪い合ってビクビクしながら、わずかに大きい 汚れたカケラを食べるか、分け合って楽しく、必要なだけを 食べるか、の違いなのだが。 食べる量は大差ないが、精神的には正反対だ。 果たして生きる目的は、物質的繁栄か、精神的充足か。
お礼
回答ありがとうございました。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
いや、それは馬鹿というものだよ。 人生は遊園地じゃない。
補足
回答ありがとうございます。 高いレベルの楽しさだと考えていただきたい。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
#3さんの意見に感銘を受けました。 他人を幸せにしようとすると、自分が 幸せになってしまう。 これは私の拙い人生経験にも合致します。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
メメントモリ
どんどん物事が良い方向に進むと信じる力では? この楽しみにより、次の楽しみに繋げると、 繋げる事でより強固にしているのだと思います。
- cincinnati
- ベストアンサー率46% (606/1293)
>何をやっても楽しくなる為には能力が必要だと思います。 おそらくそれを能力と呼ぶのであれば、「自分を忘れる」という能力が要求されるのではないかと思います。 若いときのことですが、私どもの間では夏は毎年キャンプにゆくことが恒例となっておりましたが、今年は「大いに楽しんでやるぞ」と思って参加するとキャンプ中もキャンプが終わってもたのしいという状況とは少し違うという物ですぎてしまいました。ところがある年のキャンプに車の運転を頼まれまして、みなさんをキャンプに載せてゆくことになりました。キャンプを楽しくどころの騒ぎではなくなりました。どうしてみなさんを安全にキャンプサイトに届けるか、緊張して、最後は今回のキャンプは楽しむよりも皆さんの面倒を見ることに集中しようと決断しました。 キャンプに参加するために参加費用を払い、参加したそのキャンプがはじめから終わりまで、非常にたのしいキャンプだったことがその後の自分の生き方を決定づけるほどでした。 何を申し上げたいかと言いますと、つまりたのしい人生を送る為に、自分が楽しもうとすると、さしてたのしい時間を過ごすことができず、自分は今回は周りの人々に奉仕することに徹しようと決断んした時から楽しいキャンプが始まったのでした。人生とは逆説の世界です。 多くの不幸な人を見てきました。なかにはその不幸のために自殺する人さえおりました。彼らの特徴は年がら年中自分のことを考えているように見えました。たしかに生活が厳しいとか、体に障害があるとか、どうしても自分のことに目を向けなければならない状況はあると思いますが、それでもなおかつ自分を忘れることができれば、人は楽しくなれるのではないかと思います。
補足
回答ありがとうございます。 自分が大切すぎると、気軽に行動できなくなり、気分が重くなりますね。 そのような理解でよろしいでしょうか?
- NURU_osan
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ずばり観察力でしょう。 観察力の無い人は何やっても楽しいと思えません。一時的に楽しいと思えてもすぐに飽きてしまいます。 観察力のある人は、何度も新しい発見をするので物事になかなか飽きたりしません。
お礼
回答ありがとうございます。 観察力があれば「無用の用」も理解できますし、飽きない、へこたれないとなるのでしょうね
- h_ming
- ベストアンサー率34% (15/44)
何事にもあまり深くのめりこまないことじゃないかな、と思います。 苦しさを知らず、物事の表面的な楽しさだけ知ればそうなるのでは。。。 能力でいうと、美味しいところだけやって、 まずくなったらササッといなくなるような、 要領の良さ…ですかね? 質問者様がおっしゃっているのは、 こういう薄っぺらい楽しさじゃないですかね。
お礼
回答ありがとうございます。 適度なのめり込みは必要だと思います。 しかし、執着との線引きはなかなか難しい。
お礼
回答ありがとうございます。 今の私には高度過ぎて質問すらできません。