• 締切済み

なぜ人間には死を望む回路があるのか?

進化論的に考えて、どう考えても淘汰されそうな回路なわけですが、 淘汰されずに残っている理由を、進化論を踏まえてお考えいただければ幸いです。

みんなの回答

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.29

普遍的に?宗教の教義や道徳教育や一般の心情としても死を自ら望んではいけないことにはなっています。 けれどその理由根拠を尋ねると「如何に死ねることはいいものか」の説明になっております。 哲学は世の逆説ですね。だから宗教も非常に哲学する時の参考になります。

noname#176957
質問者

お礼

ありがとうございました。 勝手ですが、一旦スレッドを閉めさせていただきます。 >けれどその理由根拠を尋ねると「如何に死ねることはいいものか」の説明になっております。 うーん、 いきなりそう言われても、これだけじゃぁ検証もできません。 でも、 なぜ、自殺を悪とするのか? は大きな問ですね。

回答No.28

 No.15&16&17です。  そうですね。哲学としてのやり取りでは まだエチケットを最後まで尽くさなかったと憂えた結果 投稿します。  ★(No.16お礼欄) 批判はあってしかるべきです。  ☆ という一文でご自分の文章を締めくくっておられるその思想についてです。  はっきり申して これはあり得ません。  ★ 批判はあってしかるべきです。  ☆ ここから 哲学にしろ何にしろ対話は 始まります。  質問者の特権などはありません。回答者にしても 同じでしょう。  ここまで申し述べてしりぞくべきでした。エチケットとして。  ご自身の生涯の問い求めが推し進められますよう。

noname#176957
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございました。 でも、 枝葉末節にとらわれすぎなんじゃないでしょうか。 完璧主義の誤謬 機会はまだまだありますから。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.27

脱線かもしれないですが、一例思いついたので 今僕がこうやってパソコンを触っているわけですが、この文章がもうおかしい、と言ってることになりますねー。 僕という「人間」が、パソコンという「機械」を使っている、というのは、社会常識的には当たり前で、一般的な言い方ですが、 論理的にはこの文章は間違いだ、と思います。厳密に厳密に論理的に考えるなら。 人がいるなら、機械は存在しないし、機械があるなら、人は存在しません。(この場合の人とは、日常会話としての人です) という身も蓋もない例として・・ 極論ですけど。

noname#176957
質問者

お礼

うーん 定義の問題のような気がします。 >人がいるなら、機械は存在しないし、機械があるなら、人は存在しません。 意味が解りませんでした。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.26

抜けてましたー。 合成の誤謬ー経済学的な用語はよく知らなかったのですが、おおよその意味としては、部分の総和は全体じゃない、といわれることに近いですよね? もしそうなら、僕はこのスタンスが、非常に好きなので、全くそのとおりです。 といっても、科学的な分析を軽視してないです、 どちらも同じだけ大事と思いますし、 ただ、現代文明が、分析に偏りがちなので、その反作用として、意識的に、合成の誤謬?的なスタンスに力点をおいてるだけで、目的は、両者のバランスを取ることです。 似たような用語だと、心理学でゲシュタルト、という言葉があるんですが、こっちの言葉は馴染みがありよく知ってたんですが・・・ まとめると、還元論的科学のような、ただひとつの原因を突き詰める、極小に行く方向と、 合成の誤謬やゲシュタルトが示唆する、全体性からの視点で見るという、極大に行く方向の 2つの視点の調和、バランス、みたいなのを求めてます。 簡単に言ってそれは、把握と感性のバランス、で、感性というのは科学に含まれないので、 それで誤解した文を書いてしまったということで。 機械と感情を分けるというのは、この2つの視点が全く別であることを自覚することに対応してます。 僕は個人的にそうするとたいへん落ち着くので。納得がいって。説得力はないですが。 2つが別ものであることが理解したあとで、あえて2つをまぜこぜにして説明するー利己的遺伝子の喩えのように、無生物を擬人化するような喩えも、理解が進み悪くはないんじゃないかと思ってますが、 実際のところ、利己的遺伝子とか、死を望む回路もそうですし、同じような比喩は大量に見ますが、あちこちで見かける、機械と感情、人格を混ぜる?比喩を書くことで、 更に矛盾が増大されるようなイメージが、僕はあるんですが。 それは、わかりやすい喩えであるが故に、それに依存し、思考の停止を招く原因になる気がしてます。 その変な分かりやすさに危険を感じます。 というか、僕が長いことそこで止まっていたので。 論理的に考えて、この2つが交わる繋がるわけがないんですから。 2つの別世界の話として考えたほうがよほどすっきりする、と思っています。 やっぱり機械世界なら、全て機械的に描写、生命など存在しないと、 人間世界なら、全てハートあるものとして描写する、機械などありえないという方が、よほど人間的かと。 これで、この世は、オール・オア・ナッシングです、どちらを選ぶか、どちらも選ぶか、どちらも選ばないか、などなど・・ もうでもこれは科学ではないですが、でも質問者さんも哲学のスレに投稿されたのですから、こういう話題でもいいのかなと、暴走気味に書いてますが。

noname#176957
質問者

お礼

ありがとうございます。 合成の誤謬は経済用語でもありますが、元は論理学の用語です。 対になるのが分析の誤謬で、 部分は全体のミニチュアではない、くらいの意味でしょうか。 機械的な、還元されたものから、いくらでも「心」が生じる余地はあるのではないでしょうか? 私には「バランス」は恣意的で危うい気がしてなりません。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.25

こんにちは。 >利己的遺伝子というのは比喩で 主体とか客体とかではなしに、自然選択(淘汰)の対象を遺伝的な形質(性質・傾向)だとするものだと理解しています。(「遺伝子」も比喩的) ええそうですね。なので、それを比喩を使わず説明できたら、面白くなるのになーと思いました。 でもそれは生物学の領分じゃない気もしたので、後で愚痴を訂正しました。 >いわゆる飢饉のような状況を想定してみます。 汎アポトーシスはどうやって死すべき個体に対して作用するのでしょうか? これは飢餓にあってる事自体が、選択的に作用する要因じゃないかと。 質問者さんは、ひとつの限定的な要素に理由を求めてますが、 僕はどちらかというと、全体性、あるいは複数の要素の組み合わせに原因を求めるので。 で、その地点で科学的な還元論を唯一の正解と見ていないので、科学的とは言えないんですが。 真面目な人が生き残りやすいのかどうかは、ちょっとなんとも・・すいません。 そんな気もするし、そうでない気もするし・・・ >死を望む気持ちはたかが回路の動作による結果にすぎない これは、僕がこういってる、と受け取られてるなら勘違いです。 僕は2つはリンクしてると思っていて、因果関係はないと思うので。 逆に僕がこれを批判してるというのなら、遺伝子の擬人化などの比喩のことですが、 それは、生物学という学問の土俵においては、批判されるものじゃないと言うのが前の訂正でした。 >そうした分析を社会的な構造に反映させよう これはどこの一文を指すんでしょうか? 僕が、分析を構造に反映させようとしてるという意味でしょうか? あるいは生物学者が分析を構造に反映させようとしてるという意味ですか? ここで意味がわからなくなったので、一旦お休みです。

noname#176957
質問者

お礼

お返事が遅くなってしまって申し訳ありません。 勝手ですが、一旦スレッドを閉めさせていただきます。 >真面目な人が生き残りやすいのかどうかは、ちょっとなんとも・・すいません。 これは自然選択の範囲の問題で、 「生き残りやすい」ということではなく、 「子孫を残しやすい」 を比喩的に表現すると「利己的な遺伝子」になるということです。 ええと それと、 私は、記述を二つに、機械的と人間的に書き分ける必要を感じません。というか「分けられる」とは考えていないので、提起されている問題のほとんどは理解できないままでした。 また機会があったら色々教えてください。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.24

#23です。 エロスは広義で「生の欲望」と解釈されています。 フロイトは「性の欲望」と狭義に捉えすぎた傾向があります。 #23欄の表記は誤植ではありませんので、念のため補足させていただきました。

noname#176957
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.23

#20です。 進化論の要諦についてご説明いただきありがとうございます。 「進化論的行動」ではなく単に「本能的的行動」とすべきでしたね。 本能的行動のみならず、意志的行動の混在するのが人間である、といったようなことを述べたものとご理解ください。 思うということをするために思うようにならないことが増える、というのが人という生き物のようで、そこ(意志と本能の間)に摩擦が発生しやすくなりますが、それが神経症というわけです。 人間にとっては神経症は必然であって、死の欲望タナトスと同様、顕現するか否かは別として誰もが持っている要素と言えるでしょう。 あらためて進化論的に考えてみた場合、「本能のみではない=本能の壊れた=本能の不完全な」生き物として宿命づけられている人間にとって、死の回路が残され続けるのはむしろ自然なことなのでしょう。 タナトスの対義語はエロスで生の欲望と訳されています。 これら両者のバランスをとっていくことにより人間という生き物が成立していると想定するためです。 因みに、フロイトはエロスに含まれる性の欲望に着目しすぎたために否定的な見方をされることが確かに多いですね。 彼はあくまで先駆者なので荒削りすぎて誤解や否定の対象になりやすいと言えます。 フロイトは精神分析学の大きな骨格を形成しましたが、その流れは多様に変質しながらも多くの弟子たちにより綿々と引き継がれています。 フロイトのみに注目すると、おっしゃるように視野は狭くなるのでしょうね。     

noname#176957
質問者

お礼

お返事遅くなってしまって申し訳ありません。 勝手ですが、一旦スレッドを閉めさせていただきます。 この次の機会には、タナトスが何故あるのかについて教えてください。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.22

追加で、本題と関係なくなるかもですが 僕は、人はいるのか? ただの機械では? という矛盾に際して 2つを使い分けてます。 例えば ここでのやり取りのようにメカニズムで考えるなら、それで押し通すし そこには神どころか、人も生命も、遺伝子が利己的だ、というふうな擬人化も何も入れません。 遺伝子を利己的だ、とした地点で、脳の思考回路がストップする感じがします。 逆に、その真逆の見方であるなら、 何らかの秩序があり、機械などではない人がいるというのであれば、 その世界観においては、科学や生物学での、遺伝子や因果関係というような機械的な考えは 絶対排除します。 前の投稿で書いた読み飛ばされた部分、ごちゃごちゃ書いてしまった文は、ちょうどこれの話でした。 生物学では、あるいは世間でも、人が存在するのか命はあるのか?それとも人はただの機械か?というこの2つのスタンスを混ぜて使うのですが、それはおかしいと思ってるので、 僕はこの、人=命、人=機械、という2つのスタンスを混同しないで、完全に分離してしまうことにしてます。 論理的にはどちらも完璧に正しく、唯一2つを混ぜて使った時だけ矛盾が生じる、と考えてます。 なので、ここで書いた文は、徹底的に血も涙もなく機械に徹した場合は論理的にこういう結論が出てくるかも?、という僕の推測を書いてます。 この考え方で行くのであれば、そもそもの質問文である、「死を望む回路」、という言葉は、 死を望むという主観と、回路という客観的な仕組みを引っ付けてしまってるので、 僕的には、実のところこの質問文がちょっと変なのだけど、という気持ちがあります。 本来ひっつかないはずの、望むという気持ちと、回路という機械を足したために、 そこに矛盾というか違和感が発生してます。もちろんそれは狙いだとは思いますが。 死を望むという主観と、それを発生されるような回路は、「リンクしてる、対応してる」とは思いますが、 因果関係は一切何もなく、片方でもう片方を説明することは不可能、と考えてます。 これは言い換えると、死を望む気持ちを回路で説明できたとして、 「死を望む気持ちはたかが回路の動作による結果にすぎない」とか 逆に 「死を望む気持ちを回路で説明するなんて不謹慎だ、人格の侵害だ」というのも 両方おかしいと思ってるので。 それは、機械論と感情的なものを分けてないから起きる議論だと思うし。 質問者さんが前に「非人道的」と書かれたのですが、そんなのではなく、 本当にぱっきり2つに分けてるだけです。 非人道的、という言葉は、やはり感情と機械を混ぜることで生まれる感想ですよね? この2つを分けるととてもすっきりしますし、お勧めです。 たかが人の考えじゃないか?とたまには言っても間違いじゃないと思うので。 ・・・ここまで回答を書いといてなんですが。すんません。 ちょっと長い余談でした。

noname#176957
質問者

お礼

ありがとうございます。 主張の全てを理解できた訳ではありませんが、 >なので、ここで書いた文は、徹底的に血も涙もなく機械に徹した場合は論理的にこういう結論が出てくるかも?、という僕の推測を書いてます。 当然これで良いと思います。 むしろ私は、この質問に際して、主観と思われているものも脳の形質に由来しているのではないか?という立場なので。 回答者様がしきりと批判されている 「死を望む気持ちはたかが回路の動作による結果にすぎない」 という立場は、そうした分析を社会的な構造に反映させようという様なものなのでしょうか? これは元々文脈が異なるもので、分析として回路を明らかにできたとしても、社会的な構造としてそれを採用するかどうかは、別の判断ではないでしょうか? 自殺に関する機械的な分析は、自殺者に対する機械的な政策を意味しません。 「機械と感情を分けろ」という主張は、私にはなにやら「分割・合成の誤謬」を前提にしている様に感じました。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.21

こんばんは。 >アポトーシスのような機能だとして、 それも進化の過程で獲得した機能だということになるかと思いますが、 どんなメカニズムを想定しておられますか? 大まかに前書いたのと同じなんですが、前は、秩序とか、上位の宿主的言葉を 使ったのでややこしくなったので、それはやんぴで、 単に人を生み出した、宇宙なり地球環境が破壊されないような方法が遺伝子にある のだと思います。 死は全くの自然現象ですし、生きてて死なない生命体はないので、 死は自然極まりないものですから、 それは遺伝子が決定してるというより、そういうことが起きないと、生命が 全体として存続しないようにこの世界なり宇宙ができてるというふうな・・ その場合、利己的遺伝子のように、遺伝子がなにか主体的に動くのではなく、 遺伝子は、ヒトを生み出した環境と、人の体との接点、あるいは触媒として働いてる、 と思います。 たとえとして、環境が人に要求する条件が集約して書いてある六法全書みたいな? (下にも書いてますが、正確には利己的遺伝子でも間違ってないと思います) ーーー全くの個人的意見ですが 体と環境と遺伝子、という3要素を、どれを主体にして説明しても、 論理的には間違いではないと思いますが、それでは事実を描写できないと思ってます。 遺伝子が主体になるのでなく、人を生み出した環境が主体でもなく 人の体が主体でもなく、 その3つが連動してひとまとまりで成り立っている、と見ます。 つまり3者の間に特定の因果関係は成り立っていない、と思います。 それでも因果律的に説明するなら、3要素の相互作用、とでも言うような。 その3つの連動を、上では、遺伝子が、触媒なり、環境と体の間のメッセンジャー的なイメージ でいったのですが、不正確です。 また3つが連動して相互作用してる、では説明に具合が悪いので、 人を生み出した環境、とか、遺伝子が、とか 3つのうちどれか一つをメインに持ってきて、因果関係で擬人化して書くことになってますが。 つまり、自分の身体に関することを、全くの機械的システムとして説明されても、 人になぞらえて説明しないとなかなか理解出来ないので、擬人化することになります。 それは、人間は機械じゃないんだ、という思いが理解の妨げになるので。 ーーー上の話ではちょっと足りない点 現実はもうちょっと複雑な気もします。 例えば寿命と自殺の違いにしても、どちらもシステマティックで機械的に見ることが可能と思いますが、 それで説明が全部と言うには物足りないですねー。 これで全部とは思わないんですが、細かいところを追いかけるとかなり複雑そうに感じます。 つまり、ちょうど上に書いた、人って機械なの? という矛盾?を分岐点とする、2つの解釈が 人と世界に当てはまりますが、そのあたりが、大変言うのが難しいです。 他の言い方ですと、全ては偶然か必然か? というような、かなり根源的な・・・ そこまで追わなくてもいいのかもしれませんが。 だって科学では、そもそも機械的に説明することが前提となってますから、 科学のスタンスでいる限り、こういうところは割りきることになりますねー。

noname#176957
質問者

お礼

ありがとうございます。 利己的遺伝子というのは比喩で 主体とか客体とかではなしに、自然選択(淘汰)の対象を遺伝的な形質(性質・傾向)だとするものだと理解しています。(「遺伝子」も比喩的) それで アポトーシスの様な性質(以下、汎アポトーシス)があったとして、 環境容量が狭まる、いわゆる飢饉のような状況を想定してみます。 汎アポトーシスはどうやって死すべき個体に対して作用するのでしょうか?全ての個体に備わっている機能が、「選択的」に起こりうる理由はあるのでしょうか? ところで 直接回答者様の回答とは関係ないのですが、ここでのやり取りを経て思いついたのは、 何のことはなく 昔から言われている 「社会的責任を強く感じる真面目な性格」の多面発現ではなきだろうか?というものです。 こうした性格の持ち主は、きちんと働き、早くに結婚をし、しっかり子どもを養育する可能性が、そうでない者より高いと思われます。順調ならば自殺に追い込まれませんし、不遇となって自殺に追い込まれたとしても、その時には子孫を残している可能性が高い、すなわち淘汰はされない、というメカニズムではないかと推測したわけです。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.20

#12です。 >おそらく生物は「選択」すらしていないのだと思っています。 進化論というのは ランダムで無数の形質変異→淘汰→観測される形質 という方法論および世界観だと理解しているのですが、 「進化論的行動」というのが、良く理解できませんでした。 : 進化論は詳しくは知りませんが、単純に段階的・機能的変化による新種の出現、といったようなものでしょう。 そういった、自然な生物的流れに則った本能的行動を進化論的行動と表現してみただけです。 本能の壊れた生物としての人間にとっては、進化論の解釈が多様にならざるを得ないかもしれない、といったようなことです。 進化論の定義が私自身曖昧なので、表現が適当であったか否かはわかりません。     

noname#176957
質問者

お礼

ありがとうございます。 差し出がましく進化論の要諦を説明しますと、 >段階的・機能的変化による新種の出現 が「何故」起こるのか? という問に対する答が「進化論」であり、「淘汰(自然選択)」というメカニズムです。 例えばエディプスコンプレックスについて、それをもたらす遺伝子eを持つ人々と持たない人々を想定します。 エディプスコンプレックスという本能的欲望(無意識)を発現させる遺伝子eを持つ人々は、統計的に近親相姦の確率が高くなり、劣勢遺伝による障害の発現率が高まり、結果として遺伝子eは淘汰され消滅し、遺伝子eを持たない人々の子孫が私たちということになる、 というのが「進化論的メカニズム」です。 因みに進化心理学の進展によって、フロイトの学説のほぼすべてが間違いであることが明らかになっています。

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