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なぜ人間には死を望む回路があるのか?
進化論的に考えて、どう考えても淘汰されそうな回路なわけですが、 淘汰されずに残っている理由を、進化論を踏まえてお考えいただければ幸いです。
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- heartmind
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やはりわからないのは、社会構造的に考えるべき問題を生物学的に 考えたいのはなぜでしょうか。 私の誤解かもしれませんが、社会構造による暴力を生物学的に曲解 したり、近代マターで近代を批判したり、私にはわからないことだ らけです。 材料の配合を決めるプロセスは構造的とはいえないのでしょうか。 質問者様のスタンスをもしよろしければ教えていただけると、 すこしはっきりしてくるのではと思っているのですが、 どうでしょう。
- JoyWorld
- ベストアンサー率13% (6/45)
本能が苦を避けよと命令したとき、人間の場合「死」によって苦しみから逃れられることを知って(信じて)いて、なおかつ死ぬ為の知識と力を持っているから。 ただしこれは苦しみから逃れるための死であり、ある理念のために死ぬという場合は少し違ってきますね。 人間は理性によって体内の様々な欲求の変数を上下させることができます。 アリとキリギリスという昔話を知っていると思いますが、物語の中では理性的なアリのほうが本能的で堕落的なキリギリスより生存に有利な結果になりますよね。 理性的なほうが、というか、頭を使って変数を上下できる生物のほうが結果的に生存に有利なことが多いのでしょう。 もちろんそれが不利に働くこともあります。 しかし結果的に有利なので未だになくなっていないのでしょう。 もちろん、生存という最も大事な本能には逆らえないような生物のほうが生き残りやすいのだから、人間においても現在そうあるべきだという考えもあるでしょう。 しかし、この地球に理性的な動物が何種類いますか。 まだそういった生物が現れて時間が浅いのです。 淘汰には時間がかかります。 だから仮に将来そうなったとしても、まだそういう段階にはなっていないのでしょうね。
お礼
ありがとうございます。 ええと 本能と理性の区分と、 理性によって欲求の変数を上下できる、ということが いまいち理解できていません。 すみません。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.15&16です。 ご返答をありがとうございました。 了解致しました。 お邪魔しました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.15です。ご返答をありがとうございます。 ですが ★(趣旨説明) 進化論的に考えて・・・淘汰されずに残っている ★ (同上) 進化論を踏まえてお考えいただければ幸いです。 ☆ という前提が強固なものと理解しました。 もし ★ 偶発論 ☆ と捉えられてしまったとしても その偶発のかたちは 人間の意志を介在させているという見方をしていますので けっきょくNo.15の回答は ご質問にけちをつけるかたちが もろに出たと受け取られたものと理解します。 というのも ★ どなたかの回答にもそういった趣旨のものがあったと思います。 ☆ とおっしゃる内容が つかめませんでしたから。 くどいようにですが 遺伝子が ヒトをして反・生をえらばしめるということであったとしても その《回路》をヒトは えらばない。存在そのものにおいて えらばない。もともと えらばない。 存在そのものにおいて死や殺しをえらばないそのことを 意志においても確認しつつこれをヒトは志向している。 ただし この自由意志は そのようなみづからの意志あるいはみづからの存在にさえさからって 考え行動しうる。つまり 死をえらぶのは 回路があるにせよ無いにせよ あった場合にはそのあとの次元において 意志による。こういう見方でした。 ★ 利他主義のパラドックスにもそうした解答候補がありますね。 ☆ 勉強してみます。(では 上の話がしまらないでしょうが)。
お礼
ありがとうございます。 「進化論を踏まえて」は 単に創造論への牽制です。宗教的・オカルト的なことをいわれても理解がおよびませんから。 それで、 個体が様々なストレスを感じた際、死を選ぶ個体と選ばない個体があって、その差は何かと考え、「死を選ぶ傾向の形質」を仮定したのが質問の出発点ですから、 ご回答はその枠組みを超えた解釈なわけですよね?ケチだとは思っていません。批判はあってしかるべきです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 死を望む回路 ☆ あるいは 死へおもむく回路 これは 動物一般にありましょうか? もしなければ どうして ★ 淘汰 ☆ という捉え方が出て来ましょう? 進化論を踏まえがたいという考えです。 ヒトが意志によってその《回路》をわざわざつくるようになる場合も 部分的な事例として 現われたのだと捉えますが いかがでしょう。
お礼
ありがとうございます。 否定するほどの材料がありません。 どなたかの回答にもそういった趣旨のものがあったと思います。 偶発説と理解しました。利他主義のパラドックスにもそうした解答候補がありますね。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
訂正 すみません、前回投稿で、ずるいとか、勘違い、とか書きましたが、別に科学者がおかしい、という意味では当然無く、 以前からの僕の思い込みがだいぶ入った文章で、 問題は科学の方ではなく、勘違いしてた僕のほうが問題なので、これでは八つ当たりです・・すいません。 正確には、事実を追いかけたい人にとっては、この手の物理や生物においての比喩はとても真に受けてつまずきやすいので、という意味です。 ええ、生物学者を批判したら罰当たりますねー。せっかくわかりやすく言ってくれてるのに。
お礼
大丈夫です。 半分以上理解できていないので読み飛ばしています。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
>「人間」ではなく「人道」です。 すいません、人道ですか。 >「死にたい」と本気で思っている人に対して、なんらかの説得を行うことは、無意味であり無理解であることになりますね。 最後のこれは、ちょっと混乱されてるみたいで 偶然と必然の両世界は、世界観の問題としてちゃんと分けて考えれば、こういう矛盾した結論は導かれないと思うので。 次の2つめのですが、 そうですね、秩序の存在を前提として理屈を組み立てるとそうなりますね。 というか僕は生物はあまり詳しくないので・・あまり言うとぼろが出るのだけど >「この世の秩序」自体を、進化論を含めて人間原理の科学は否定しているのではないかと思います。 「この世の秩序」の想定は、たいてい「神の存在証明」に行き着くかと思われます。 僕は別に神を出さなくても、メカニズムとして捉えたらいいと思うのですが。 このへんはちょっと大いに言いたいことがあって、(というか愚痴・・) (質問者さんには関係ないですが) この安易に神を持ち出すというのはおかしいと思うのですが。 僕は現実逃避の匂いを感じます。 どう考えても神を持ち出すのは論理の飛躍だし、それを出す前に認めるべきことがあるんじゃないかと 思うのですが。 わからない部分を、よくわからない神という概念を持ちだしてそちらに押し付け丸投げって言うのは無責任な感じもするし、そこで何かを認知することを避けてる、と思うので。(神とか利己的というのは理性の敗北、あるいは理性の限界と言えるかと) 物理学の人間原理もそうですが、もうそれは物理学の領域じゃない的言い訳を出しますし、 間違ってはいないですが、学問分野の境界線を、論理的な言い訳として利用するのはおかしいですし。 それは、人間原理のことでも、この秩序の話も、生物だと利己的遺伝子?とかの考えもありますが、 飛躍した結論に飛びつくのは、ちょっとどうなのかなと? 哲学じゃないからいいのかもしれないですが。 冒頭に書いた上の、死にたいと思ってる人に説得するのは無理、という、機械論と主体的な論理を混同するような話は、たまに聞きます。 基本的な前提が違うこの2つは厳密には混ぜたらダメですし。 この混乱は、同じく上に書いた、神が設計した、とか利己的遺伝子、とかの、機械論ですべてを押し切りもせず、逆に、全て神が作ったんだ、と言いもせず、 まるで切り絵のように都合のいいところは機械論、都合が悪くなったら、神を出したり、 遺伝子を人に見立てて利己的と言ったり言うのは、ご都合主義です。 こういうコラージュみたいな理屈はずるいなーと前から思っていたので。 遺伝子というものを人に見立てたり、宇宙の秩序を神に見立てるのは、ある種の混乱か勘違いだと思ってます。 人や神に見立てるなら、徹底的に見立てるべきだし、避けるなら徹底的に避ける、それをしないのは手抜きだと思うので。 こんなぜんぜん違うものを混ぜておいて平気なのは、勘違いしてるのかな?と思います。 ここからが肝心要のところなのに・・ 僕だったらこういう中途半端な、人でもない機械でもない的な間で(機械人間のような?)左右に引き裂かれることが一番つらいしそれこそ死にたくなりそうにもなる気もわかります。 追いかけ方が変に中途半端で、困ったら自分の物理や生物学という領域に逃げ込む、というのは、どうなのかなーと。 脱線してすみません。 ・・・もっともこれは、やはり哲学的に見て、という視点ですね。 科学としては、こういう比喩もありとは思います、もちろん。僕は混乱するので嫌なんですが。
お礼
最初のご指摘はその通りですね。正直書くことに窮して書いたらボロがでた典型です。失礼しました。文脈が異なることは理解していたんですけどね。 私こそ正真正銘謙遜無しのド素人なので、理解の薄さに腹立たしく思われて当然かと思います。 愚痴と仰られている部分は、誤解もあるのかもしれませんが、私は機械論を推しているつもりです。 それで、 先の回答に戻って考えてみました。 アポトーシスのような機能だとして、 それも進化の過程で獲得した機能だということになるかと思いますが、 どんなメカニズムを想定しておられますか? (難しいなぁ… もうすでに脳味噌茹だってます)
- hakobulu
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なかなか難しい問題ですね。 端的に言うと、死こそが最も安定した状態であり、それを望むのはさほど不思議ではない、と考えることもできます。 どなたかがおっしゃっていたタナトスなのですが、これはいわゆる「死の欲求」と呼ばれているもので、生体メカニズム的にさほど無理のある内容ではありません。 精神分析学の用語らしいのですが、死こそが安定であり、生は保存という作用と考えます。 大きな違いは、保存するにはエネルギーを必要とするが、安定するためのエネルG-は不要だという点です。 茶碗が茶碗としての形状を保っていられるのは、物質的な保存状態にあるからです。 しかし、これは極めて不安定な状態でもあります。 壁に投げつけて粉々に(可能であるならば分子・原子の状態にまで)砕くことによって、初めて安定した状態になります。 腹が立った人が茶碗やグラスを割ってすっきりするのは、こうした安定を代替(象徴)的に実現できるからです。 つまり、死を望む状況というのは、エネルギーが枯渇している状態を意味します。 この場合のエネルギーとは、漠然とした表現で恐縮ですが生命力そのものと言ってよいでしょう。 なんらかの原因で(短期的、あるいは長期的に)生命力に損傷が生じた場合、人は自らを保存する、つまり、生きる作業に使うべきエネルギーを生み出すことが難しくなります。(念のため、保存と安定は正反対であることを再確認していただきたいと思います) 進化論的に考えた場合、逆行するように見えますが、そもそも、人間が動物から進化する際に何を犠牲にしたのか、を想像するとそれほど不思議なことではありません。 人は本能の壊れた動物と呼ばれることがあります。 ほんのたとえですが、自然に対する肉体的な防御機能は、他の動物に比べると格段に劣っています。 肉を得るための牙もなく、道具という二次的手段に頼らざるを得ません。 ただ、それと同時に、道具を作り出す知能、寒暖から(他の動物よりも効果的に)身を守るための知恵という能力を授かったわけです。 本能も一種の意志と捉えることは可能ですが、本能以外のところで意志を発揮する能力を持ったのが人間でしょう。 一般的な動物は生きるか死ぬかを本能的に判断して前者を選択するわけですが、人間の場合、本能以外の意志を獲得してしまったばかりに、生きるか死ぬかという点に関して単純に進化論的な行動をとるとは限らない生物になっている、というのが実態ではないかと思われます。 死を思いとどまらせたい場合、ネットではなかなか難しいでしょうね。 本人の段階にもよりますが。 ただ、そのような人は、自殺によって自己実現が果たせると(無意識的にせよ)考えているのが一般的です。 あるいは、疲れてしまって、これ以上生きて(自身をこの世に保存して)いけない、と思い込んでいるわけです。 前者に対しては、新たな視点の提示。 後者に対しては、(思い込みというものの)誤謬の論理的打破。 などが有効な場合もあるでしょう。 適切な栄養摂取や睡眠の確保。 ストレスからの思い切った脱却。 など、当人にとっては気づきにくい実質的な改善点は多いのですが、なにしろ、そのためのエネルギー自体が枯渇していたり、不合理な思い込みに囚われてしまっている場合が多いようです。 あまりご参考にはならないかもしれませんが、こんなところです。
お礼
ありがとうございます。 >一般的な動物は生きるか死ぬかを本能的に判断して前者を選択するわけですが、人間の場合、本能以外の意志を獲得してしまったばかりに、生きるか死ぬかという点に関して単純に進化論的な行動をとるとは限らない生物になっている、というのが実態ではないかと思われます。 おそらく生物は「選択」すらしていないのだと思っています。 進化論というのは ランダムで無数の形質変異→淘汰→観測される形質 という方法論および世界観だと理解しているのですが、 「進化論的行動」というのが、良く理解できませんでした。
- miko-desi
- ベストアンサー率19% (69/352)
哲学してしまうからでしょう。 哲学は別名「死の演習」といって 哲学的にも自殺は死に方ではなく、 生き方を決定する権利を プログラムされた遺伝子から与えられたのではなく 人間自らが言語同様、発達した脳で獲得共有したものと思います。 哲学的に諸説あるものの、死の効用もあり苦悩ばかりの人生もある。 生き続けることと同様に守るため、逃れるため、救いだったり 希望的観測で扱っていいもと思ってます。
お礼
ありがとうございます。 ええと… そもそも特定の形質ではなく、淘汰の対象ではない、ということでしょうか。 それはそうかもしれませんね。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
>それで、それが淘汰されずに残っている理由は? 人類の生産行為が分業化し、組織性が発達するにつれ、個人の生存は 集団に依存するようになってきた(社会生命化)。 そこにおいて、“自己の最善の生存”には、社会全体の順調な営為が 不可欠であり、短絡的な利己主義は長期的には不利益となる。 そうした“自己の生命性の社会全体への拡張”を自覚できる認識を育て、 生きる意志の延長として他人と協調できる“愛”によって、自律的に社会 行動をとれるようになるのが本筋であるが、人類はその途上において、 その労力を省略し、個人の意識は短絡的利己主義なままにして、それを 他律的に操って社会性のコースを走らせる“馬車馬の目の前のニンジン =お金や出世、ムチ=法規、目隠し=宗教”を発達させる方法をとった。 しかし、その方法は、そもそも本質性に根差していないので、社会性が より発達したり、その方法論を忠実に適用(拝金主義)しようとすれば、 歪みが生じて苦痛が過大になり、暴動が起きたり、自殺が増えたりする。 「奴隷は生かさず殺さず酷使するのがベスト」という訳だ。 (自殺者は捨て駒=予定の消耗) 人の生きる目的が、物質的繁栄であるか、精神的充足であるか、その 選択をしないまま、人類は前者の道を驀進していると言える。
お礼
ありがとうございます。 前回回答の 「苦痛をさける欲求」 のことをさらに考えていて、 「労苦を避ける」ならば、まさにテクノロジーの生贄たるマス(大衆)の習性と合致するかもしれないと考えていました。 マスの習性として維持されてきた回路が、社会の歪みに落ち込んだ時に多面発現して死を選択させる、ということも考えられるか、と。 今回回答はそういった方向かと理解しました。
お礼
ありがとうございます。 まず、アプローチの選択に「べき」があるかどうか疑問です。 次に、「曲解」であることを、できれば論証していただけると納得ができると思います。「構造的暴力に対する耐性」は、遺伝的な形質ではありませんか? 三つ目に、 「近代マター」というのは、例えばこのサイトのことですか?とするなら、近代に生きる誰にも近代の批判は許されないということになるのでしょうか?(これは前の質問の続きですか?) ええと 配合のプロセスが構造的? 判りません。 スタンス? ドーバー海峡の西側に憧れています。…すみません、何を聞かれているか判りません。 申し訳ない。