- ベストアンサー
漢文の読み方がわかりません・・・
藩駕駐承天府。戸官糧船猶未至、官兵至食木子充飢、日憂脱巾之変。藩心含之、大書於座前云「戸失先定罪」。遺楊府尹同戸都楊英住鹿耳門守候。糧船並官私船有東来者、尽行買糴給兵。 遷界令に関しての文章なのですが、意味もあやふやで、読み方にまず、こまります。。。 わかる方おしえていただけたら助かります。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
このような質問は、できれば出典を書いていただくとよかったですね。 出典を確認したところ、 楊英『從征實錄』の中の八月の部分です。質問文に若干入力ミス?があって、正しくは以下の通り。 「八月,藩駕駐承天府。戶官運糧船猶不至,官兵至食木子充飢,日憂脫巾之變。藩心含之,大書於座前云:『戶失先定罪』。遣楊府尹同戶都楊英往鹿耳門守候糧船,並官私船有東來者盡行買糴給兵」 「はちがつ、はんがはしょうてんふにちゅうす。こかんうんりょうせんなおいたらず、かんへいもくしをしょくしてうえをみたすにいたる。ひにうれうだっきんのへん。はんしんこれをふくみ、まえにざしてたいしょしていう:『こあやまてりまずばっす』。ようふいとことようえいをろくじもんにつかわしりょうせんをまたせん、かんしせんきたればこくもつをすべてかいもとめへいにあたえよ」 『從征實錄』は鄭成功に従った楊英が年月を追う形で書いた記録、約13年にわたる。『從征實錄』は『延平王戶官楊英從征實錄』ともいいます。 楊英は戶官すなわち戸籍や税金を扱う高官で、記述は具体的。部分欠落はあるものの貴重な資料とされています。 先に背景を把握しましょう。清朝の沿海迁界(別称、遷界令)策で苦境に陥った鄭成功は、1661年に当時オランダ統治下の台湾を攻略にかかる。1661年4月台南の鹿耳門に上陸、1662年2月1日オランダは投降した。以降鄭成功は明朝再興の目的に沿い統治を行うが、病を得て1662年6月23日逝去。 鄭成功による台湾統治は、民生に注力し酷税廃止適正化、軍制改善、法制の改善、経済発展、教育振興など、善政と台湾社会の基礎を築いた事で知られます。なお、鄭成功が台湾奪取した後も反清復明で明鄭と称され、死後も清朝と台湾は敵対関係でしたが、「鄭成功修復台湾的壮挙」として民族の英雄として知られます。 1683年明鄭覆滅後台湾は清朝統治下となる。 以上の経緯の中で、 ご質問の一件は1662年8月の軍営の食糧難の件りです。 従って、遷界令で食糧調達ができなくなり澎湖島経由で台湾へ転じた関係はあるものの、遷界令自体の話題ではありません。大陸から食糧調達の道が閉ざされたという意味ではつながりますが。 さて課題の文章の和訳です。 「八月(1661年です)、王の軍営は承天府に進駐していた。役所が手配する食糧運搬船が未だ到着せず、将軍も兵士も木の実を食べて飢えを満たす有様、これでは目的を果たせない。王はその思いをこめて大声で言う『戸官は過ちを犯した、先ず罰する』と。楊府尹と戶都の楊英を鹿耳門に行かせて、食糧船を見張らせ、官船私船を問わず船が来たら穀物を残らず買い取らせ、兵に与えた」 承天府:最高地方行政単位。郑成功1661年台南に承天府を設置。現台南市赤崁楼。 藩驾:軍営、司令部。藩=地方自治区、地方行政単位。驾=王の車、転じて王・皇帝。 *清の時代以降も南明朝が形式的に継続。 南明朝永暦帝は1653年鄭成功を延平郡王に叙す。 以来台湾、鄭家/その一族が称号を継承。 脫巾之變:改戴官帽、脱帽の事態。役人の官位の象徴である帽子を取る/返上する事態。責任を果たせないこと。 戶官:戸籍や税金や政務を扱う高官。 府尹:治安と政務の行政長官。知事。 户都:官名、役所名。戸籍・税など。 鹿耳門:台湾、現台南市。 繁体字 こちらが全文見やすいです。 http://club.xilu.com/wave99/msgview-950484-15973.html 簡体字 http://wenku.baidu.com/view/04836465783e0912a2162aae.html *文中、日本字、簡体字、繁体字が混在しますがご了承ください。 *日本字、簡体字、繁体字変換器http://bjkoro.net/chinese/letter/converter/
お礼
回答ありがとうございます。 手で入力しましたので、誤字があり申し訳ございませんでした。 さらに解説までいただけて、本当に感謝しております。繁体字のリンクも非常に便利でこれからも使っていけそうです。 非常に細かい質問ではありましたが、分りやすい回答ありがとうございました。