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漢文について教えてください!

「刺客列伝」の「壮士一たび去りて復た還らず」の 白文の読み方を教えてください。 白文が読めないので元の文が書けなくて申し訳ないです。 書き下し文はあるのですが全く読めずに困ってます。 よろしくお願いします。

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  • TANUHACHI
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回答No.2

早々の折り返しありがとうございます。 「於是太子豫求天下之利匕首得趙人徐夫人匕首取之百金。使工以藥焠之以試人血濡縷人無不立死者。乃装爲遣荊卿。  燕國有勇士秦舞陽。年十三。殺人人不敢忤視。乃令秦舞陽爲副。荊軻有所待。欲與倶其人居遠未來。而爲治行頃之未發。太子遲之疑其改悔。  乃復請曰日已盡矣荊卿豈有意哉。丹請得先遣秦舞陽。 荊軻怒叱太子曰何太子之遣往而不返者豎子也。且提一匕首入不測之彊秦。僕所以留者待吾客與倶。今太子遲之。請辭決矣。遂發。  太子及賓客知其事者皆白衣冠以送之。至易水之上既祖取道。高漸離撃筑荊軻和而歌爲變徴之聲士皆垂涙涕泣。又前而爲歌曰  風蕭蕭兮易水寒  壯士一去兮不復還 復爲羽聲慷慨士皆瞋目髮盡上指冠。於是荊軻就車而去。終已不顧。」以上の部分を試みに書き下してみました。    >ここに太子、豫(=予あらかじ)め天下に利き(と・き)匕首(ひしゅ=短刀)を求め、趙の人徐夫人の匕首を得てこれ百金を取る。   工をして以って藥をこれに焠(や)かしめ、以って人に試すに、血、縷(る又はろう)を濡らし、人たちどころに死せざる者なし。乃(すなは)ち裝して荊卿に遣わさんとす。  燕の國、勇士、秦舞陽、有り。年十三。人を殺し、人敢えてこれを忤視(ごし)せず。乃ち秦舞陽をして副と爲さしむ。荊軻待つところ有り。※與倶(ともに)せんと欲するも、その人、遠きに居りて未だ來たらず。   而して治行を爲すも、これ頃(しばらく)にして未だ發(発=た)たず。太子これを遲きとなし、その改悔を疑う。   乃ち復た請いて曰く「日、已(すで)に盡くる。荊卿、豈に意有りや。丹、請う、先ず秦舞陽を遣わすを得ん」と。   荊軻、怒り太子を叱して曰く、「何ぞ太子はこれを遣わさんとす。往きて返らざるは豎子(=じゅし)なり。且つは一匕首を提(さ)げて不測の彊秦(きょうしん)に入る。僕(われ)の留まる所以(ゆえん)は、吾(われ)客とともにするを待てばなり。今、太子はこれを遲きとなす。請う辭決(じけつ)せん」と。遂に發(た)つ。  太子及び賓客その事を知る者、皆、白衣冠(はくいかん)し以ってこれを送る。 易水(えきすい)の上(ほとり)に至り、既に祖(そ)して道を取る。 高漸離筑を擊ち、荊軻和して歌い、變徴(へんち)の聲(=声)を爲すに、士皆涙を垂れ涕泣す。   また前(すす)みて歌を爲して曰く、   風は蕭蕭(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し   壯士(そうし)一たび去りてまた還らず と。     また羽聲(うせい)を爲し慷慨(こうがい)す。士は皆目を瞋(いか)らせ、髮は盡(=尽・ことごと)く上りて冠を指す。ここに荊軻は車に就(つ)きて去る。終(つい)に顧(かえりみ)ざるのみ。  以上ですが余り自信はありません。 ※與倶(とも)にせんと欲するも、その人、遠きに居りて未だ來たらず。の部分ですが、かつては「与(ともに)倶(ともに)」とお読みになられた年配の方々もいらっしゃるかと存じますが、「A与倶B」の形は「AはBと共に~する」の意味ですので、「~する」の具体的内容としての「~」が示されているべきです。  けれどもこの文例では、その具体的な言葉が記されてない状態ですから、そこに補う言葉を文中から求めるとするならば、行もしくは往の文字に落ち着くかと考えられます。  その理由ですが、文意が「荊軻には待っている人があり、その人と共に出かけようと思っていた」であることによります。“待っている人と一緒に「行動すること」に重点が置かれています。

renamaru1218
質問者

お礼

何度もありがとうございました。 おかげでテストの問題が解けました。 本当にありがとうございました。

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  • TANUHACHI
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回答No.3

 昨晩、僕の読み下しを送らせていただきましたが、現在での「底本」とされている『新釈 漢文大系』所収の「読み下し」を追送させていただきます。 >「於是太子豫求天下之利匕首得趙人徐夫人匕首取之百金。使工以藥焠之以試人血濡縷人無不立死者。乃装爲遣荊卿。  燕國有勇士秦舞陽。年十三。殺人人不敢忤視。乃令秦舞陽爲副。荊軻有所待。欲與倶其人居遠未來。而爲治行頃之未發。太子遲之疑其改悔。  乃復請曰日已盡矣荊卿豈有意哉。丹請得先遣秦舞陽。荊軻怒叱太子曰何太子之遣往而不返者豎子也。且提一匕首入不測之彊秦。僕所以留者待吾客與倶。今太子遲之。請辭決矣。遂發。  太子及賓客知其事者皆白衣冠以送之。至易水之上既祖取道。高漸離撃筑荊軻和而歌爲變徴之聲士皆垂涙涕泣。又前而爲歌曰  風蕭蕭兮易水寒  壯士一去兮不復還 復爲羽聲慷慨士皆瞋目髮盡上指冠。於是荊軻就車而去。終已不顧。」 >『新釈 漢文大系九 「列伝二」』 「是(ここ)に於いて太子、豫め(あらかじめ)天下の利匕首を求め、趙人徐夫人の匕首を得たり。之を百金に取り、工(たくみ)をして藥を以て之を焠がしめ(にらがしめ)、以て人に試みるに、血、縷(いとすじ)を濡ほせば(うるほせば)、人、立ちどころに死せざる者なし。乃ち(すなはち)装して為に荊卿を遣はす(遣わす)。  燕国に勇士秦舞陽(しんぶよう)有り。年十三にして人を殺す。人、敢へて(あへて)忤視(ごし)せず。乃ち秦舞陽をして副たらしむ。  荊軻、待つ所あり。與倶(ともにともに)せんと欲す。其の人、遠きに居りて未だ來たれざれども、治行(ちこう)を為す。之を頃くして(しばらくして)、未だ發せず(はっせず)。太子、之を遅しとし、其の改悔を疑ひ、乃ち復た(すなはちまた)請ひて曰く、日、既に盡きたり(つきたり)。荊卿、豈に(あに)有意りや。丹、請ふ、先ず秦舞陽を遣はすを得む、と。  荊軻、怒りて太子を叱して曰く、何ぞや太子をして太子の遣はすとは。往きて返らざる者は豎子(じゅし)なり。且つ一匕首を提げて(ひっさげて)不測之彊秦に入る。僕の留まる所以(ゆえん)の者は、吾が客を待ちて與倶に(ともにともに)せんとすればなり。今、太子、これを遲しとす。請ふ辭決せむ、と。遂に發す。  太子及び賓客の其の事を知る者、皆、白衣冠にして以って之を送る。易水之(えきすいの)上(ほとり)に至る。既に祖して(そして)道を取る。高漸離(こうぜんり)撃筑を撃ち、荊軻、和して歌ひ、變徴之聲(へんちのせい)を為す。士、皆、涙を垂れて涕泣す(ていきゅうす)。又前而(また、すすみて)歌を為くりて(つくりて)曰く  風蕭蕭として易水寒く  壯士一たび去りて復た還らず、と。 復た(また)羽聲を為して慷慨す。士、皆、目を瞋らし(いからし)、髮、盡く(ことごとく)上りて(あがりて)冠を指す。是に於いて荊軻、車に就きて去る。終に(つひに)已に(すでに)顧みず。」  以上です、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。

  • TANUHACHI
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回答No.1

 恐れ入ります。「白文は読めないが書き下しは(手許に)ある」。これはどの様な意味でしょうか。「読み下し文」は「白文に読み仮名を振り送り字や再読文字に基づいて日本語に置き換えたもの」ですので、白文が読めないとの意味にはならないかと存じます。それは「現代語訳」のことでしょうか?。下記に『史記-列伝篇26』の当該部分を引用しました。よろしければ読み下しのできない部分をコピー・ペーストしていただいた上で折り返させていただきますが。 【史記-列伝篇26】  荊軻者衛人也其先乃齊人徙於衛衛人謂之慶卿而之燕燕人謂之荊卿荊卿好讀書撃劒以術説衛元君衛元君不用其後秦伐魏置東郡徙衛元君之支屬於野王荊軻嘗游過楡次與蓋聶論劒蓋聶怒而目之荊軻出人或言復召荊卿蓋聶曰曩者吾與論劒有不稱者吾目之試往是宜去不敢留使使往之主人荊卿則已駕而去楡次矣使者還報蓋聶曰固去也吾曩者目攝之荊軻游於邯鄲魯句踐與荊軻博爭道魯句踐怒而叱之荊軻嘿而逃去遂不復會荊軻既至燕愛燕之狗屠及善撃筑者高漸離荊軻嗜酒日與狗屠及高漸離飲於燕市酒酣以往高漸離撃筑荊軻和而歌於市中相樂也已而相泣旁若無人者荊軻雖游於酒人乎然其爲人沈深好書其所游諸侯盡與其賢豪長者相結其之燕燕之處士田光先生亦善待之知其非庸人也居頃之會燕太子丹質秦亡歸燕燕太子丹者故嘗質於趙而秦王政生於趙其少時與丹驩及政立爲秦王而丹質於秦秦王之遇燕太子丹不善故丹怨而亡歸歸而求爲報秦王者國小力不能其後秦日出兵山東以伐齊楚三晉稍蠶食諸侯且至於燕燕君臣皆恐禍之至太子丹患之問其傅鞠武武對曰秦地徧天下威脅韓魏趙氏北有甘泉谷口之固南有涇渭之沃擅巴漢之饒右隴蜀之山左關殽之險民衆而士厲兵革有餘意有所出則長城之南易水以北未有所定也奈何以見陵之怨欲批其逆鱗哉丹曰然則何由對曰請入圖之居有閒秦將樊於期得罪於秦王亡之燕太子受而舎之鞠武諫曰不可夫以秦王之暴而積怒於燕足爲寒心又況聞樊將軍之所在乎是謂委肉當餓虎之蹊也禍必不振矣雖有管晏不能爲之謀也願太子疾遣樊將軍入匈奴以滅口請西約三晉南連齊楚北購於單于其後迺可圖也太子曰太傅之計曠日彌久心惽然恐不能須臾且非獨於此也夫樊將軍窮困於天下歸身於丹丹終不以迫於彊秦而棄所哀憐之交置之匈奴是固丹命卒之時也願太傅更慮之鞠武曰夫行危欲求安造禍而求福計淺而怨深連結一人之後交不顧國家之大害此所謂資怨而助禍矣夫以鴻毛燎於爐炭之上必無事矣且以鵰鷙之秦行怨暴之怒豈足道哉燕有田光先生其爲人智深而勇沈可與謀太子曰願因太傅而得交於田先生可乎鞠武曰敬諾出見田先生道太子願圖國事於先生也田光曰敬奉敎乃造焉太子逢迎卻行爲導跪而蔽席田光坐定左右無人太子避席而請曰燕秦不兩立願先生留意也田光曰臣聞騏驥盛壯之時一日而馳千里至其衰老駑馬先之今太子聞光盛壯之時不知臣精已消亡矣雖然光不敢以圖國事所善荊卿可使也太子曰願因先生得結交於荊卿可乎田光曰敬諾即起趨出太子送至門戒曰丹所報先生所言者國之大事也願先生勿泄也田光俛而笑曰諾僂行見荊卿曰光與子相善燕國莫不知今太子聞光壯盛之時不知吾形已不逮也幸而敎之曰燕秦不兩立願先生留意也光竊不自外言足下於太子也願足下過太子於宮荊軻曰謹奉敎田光曰吾聞之長者爲行不使人疑之今太子告光曰所言者國之大事也願先生勿泄是太子疑光也夫爲行而使人疑之非節俠也欲自殺以激荊卿曰願足下急過太子言光已死明不言也因遂自刎而死荊卿遂見太子言田光已死致光之言太子再拜而跪膝行流涕有頃而后言曰丹所以誡田先生毋言者欲以成大事之謀也今田先生以死明不言豈丹之心哉荊軻坐定太子避席頓首曰田先生不知丹之不肖使得至前敢有所道此天之所以哀燕而不棄其孤也今秦有貪利之心而欲不可足也非盡天下之地臣海内之王者其意不厭今秦已虜韓王盡納其地又擧兵南伐楚北臨趙王翦將數十萬之衆距漳鄴而李信出太原雲中趙不能支秦必入臣入臣則禍至燕燕小弱數困於兵今計擧國不足以當秦諸侯服秦莫敢合從丹之私計愚以爲誠得天下之勇士使於秦闚以重利秦王貪其勢必得所願矣誠得劫秦王使悉反諸侯侵地若曹之與齊桓公則大善矣則不可因而刺殺之彼秦大將擅兵於外而内有亂則君臣相疑以其閒諸侯得合從其破秦必矣此丹之上願而不知所委命唯荊卿留意焉久之荊軻曰此國之大事也臣駑下恐不足任使太子前頓首固請毋讓然後許諾於是尊荊卿爲上卿舎上舎太子日造門下供太牢具異物閒進車騎美女恣荊軻所欲以順適其意久之荊軻未有行意秦將王翦破趙虜趙王盡收入其地進兵北略地至燕南界太子丹恐懼乃請荊軻曰秦兵旦暮渡易水則雖欲長侍足下豈可得哉荊軻曰微太子言臣願謁之今行而毋信則秦未可親也夫樊將軍秦王購之金千斤邑萬家誠得樊將軍首與燕督亢之地圖奉獻秦王秦王必説見臣臣乃得有以報太子曰樊將軍窮困來歸丹丹不忍以己之私而傷長者之意願足下更慮之荊軻知太子不忍乃遂私見樊於期曰秦之遇將軍可謂深矣父母宗族皆爲戮沒今聞購將軍首金千斤邑萬家將奈何於期仰天太息流涕曰於期毎念之常痛於骨髓顧計不知所出耳荊軻曰今有一言可以解燕國之患報將軍之仇者何如於期乃前曰爲之奈何荊軻曰願得將軍之首以獻秦王秦王必喜而見臣臣左手把其袖右手揕其匈然則將軍之仇報而燕見陵之愧除矣將軍豈有意乎樊於期偏袒搤捥而進曰此臣之日夜切齒腐心也乃今得聞敎遂自刎太子聞之馳往伏屍哭極哀既已不可奈何乃遂盛樊於期首函封之於是太子豫求天下之利匕首得趙人徐夫人匕首取之百金使工以藥焠之以試人血濡縷人無不立死者乃装爲遣荊卿燕國有勇士秦舞陽年十三殺人人不敢忤視乃令秦舞陽爲副荊軻有所待欲與倶其人居遠未來而爲治行頃之未發太子遲之疑其改悔乃復請曰日已盡矣荊卿豈有意哉丹請得先遣秦舞陽荊軻怒叱太子曰何太子之遣往而不返者豎子也且提一匕首入不測之彊秦僕所以留者待吾客與倶今太子遲之請辭決矣遂發太子及賓客知其事者皆白衣冠以送之至易水之上既祖取道高漸離撃筑荊軻和而歌爲變徴之聲士皆垂涙涕泣又前而爲歌曰風蕭蕭兮易水寒壯士一去兮不復還復爲羽聲忼慨士皆瞋目髮盡上指冠於是荊軻就車而去終已不顧遂至秦持千金之資幣物厚遺秦王寵臣中庶子蒙嘉嘉爲先言於秦王曰燕王誠振怖大王之威不敢擧兵以逆軍吏願擧國爲内臣比諸侯之列給貢職如郡縣而得奉守先王之宗廟恐懼不敢自陳謹斬樊於期之頭及獻燕督亢之地圖函封燕王拜送于庭使使以聞大王唯大王命之秦王聞之大喜乃朝服設九賓見燕使者咸陽宮荊軻奉樊於期頭函而秦舞陽奉地圖匣以次進至陛秦舞陽色變振恐羣臣怪之荊軻顧笑舞陽前謝曰北蕃蠻夷之鄙人未嘗見天子故振慴願大王少假借之使得畢使於前秦王謂軻曰取舞陽所持地圖軻既取圖奏之秦王發圖圖窮而匕首見因左手把秦王之袖而右手持匕首揕之未至身秦王驚自引而起袖絶拔劒劒長操其室時惶急劒堅故不可立拔荊軻逐秦王秦王環柱而走羣臣皆愕卒起不意盡失其度而秦法羣臣侍殿上者不得持尺寸之兵諸郎中執兵皆陳殿下非有詔召不得上方急時不及召下兵以故荊軻乃逐秦王而卒惶急無以撃軻而以手共搏之是時侍醫夏無且以其所奉藥囊提荊軻也秦王方環柱走卒惶急不知所爲左右乃曰王負劒負劒遂拔以撃荊軻斷其左股荊軻廢乃引其匕首以擿秦王不中中桐柱秦王復撃軻軻被八創軻自知事不就倚柱而笑箕踞以罵曰事所以不成者以欲生劫之必得約契以報太子也於是左右既前殺軻秦王不怡者良久已而論功賞羣臣及當坐者各有差而賜夏無且黄金二百溢曰無且愛我乃以藥囊提荊軻也於是秦王大怒益發兵詣趙詔王翦軍以伐燕十月而拔薊城燕王喜太子丹等盡率其精兵東保於遼東秦將李信追撃燕王急代王嘉乃遺燕王喜書曰秦所以尤追燕急者以太子丹故也今王誠殺丹獻之秦王秦王必解而社稷幸得血食其後李信追丹丹匿衍水中燕王乃使使斬太子丹欲獻之秦秦復進兵攻之後五年秦卒滅燕虜燕王喜其明年秦并天下立號爲皇帝於是秦逐太子丹荊軻之客皆亡高漸離變名姓爲人庸保匿作於宋子久之作苦聞其家堂上客撃筑旁偟不能去毎出言曰彼有善有不善從者以告其主曰彼庸乃知音竊言是非家丈人召使前撃筑一坐稱善賜酒而高漸離念久隱畏約無窮時乃退出其装匣中筑與其善衣更容貌而前擧坐客皆驚下與抗禮以爲上客使撃筑而歌客無不流涕而去者宋子傳客之聞於秦始皇秦始皇召見人有識者乃曰高漸離也秦皇帝惜其善撃筑重赦之乃其目使撃筑未嘗不稱善稱益近之高漸離乃以鉛置筑中復進得近擧筑朴秦皇帝不中於是遂誅高漸離終身不復近諸侯之人魯句踐已聞荊軻之刺秦王私曰嗟乎惜哉其不講於刺劒之術也甚矣吾不知人也曩者吾叱之彼乃以我爲非人也

renamaru1218
質問者

補足

わざわざありがとうございます。 於是太子豫求天下之利匕首得趙人徐夫人匕首取之百金使工以藥焠之以試人血濡縷人無不立死者乃装爲遣荊卿燕國有勇士秦舞陽年十三殺人人不敢忤視乃令秦舞陽爲副荊軻有所待欲與倶其人居遠未來而爲治行頃之未發太子遲之疑其改悔乃復請曰日已盡矣荊卿豈有意哉丹請得先遣秦舞陽荊軻怒叱太子曰何太子之遣往而不返者豎子也且提一匕首入不測之彊秦僕所以留者待吾客與倶今太子遲之請辭決矣遂發太子及賓客知其事者皆白衣冠以送之至易水之上既祖取道高漸離撃筑荊軻和而歌爲變徴之聲士皆垂涙涕泣又前而爲歌曰風蕭蕭兮易水寒壯士一去兮不復還復爲羽聲忼慨士皆瞋目髮盡上指冠於是荊軻就車而去終已不顧 ここの部分を教えていたただきたいです。 手間を取らせてしまいすみません。 お願いします。

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