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多世界解釈の「なぜこの自分か?」という問題の解釈

シュレーディンガーの猫の思考実験で、生きている猫を見ている自分と死んでいる猫を見ている自分が存在し、どうして、「今、自分は死んでいる(生きている)猫を見ている視点にいるのだろうか?」 という問題が発生しましたが、ここで、 「二つの自分に交互に入れ替わっている」としたらどうでしょうか? 死んでいる猫を見ている自分の視点は、次の瞬間生きている猫を見ている自分の視点に切り替わる。当然この時お互いの視点同士では記憶や感覚は互換性がないです。 こう解釈は、どうでしょうか?

みんなの回答

回答No.3

量子的多次元世界とは、「どこか別のパラレルワールドがある」 というものではなく、ホログラムのように、多くの世界が重なった 結果を、あなたの視点から見たのが「この世界」だというものです。 「入れ替わる」という表現には、まだ「物質的確定性の方が本質だ」 という、古典的な考えが先入しています。 「死んだ猫×生きた猫」という確率的実体の方が本質で、見方に よって、生きていたり死んでいたりするのです。 素粒子レベルにおける経路積分において、「素粒子の相互作用 において、Aの状態からBになる確率は、途中の色々な可能性の それぞれの確率を足したもの」=素粒子は複数の経路を経る、 というものもあります。 無数の可能性がオーバーラップした、確率波動の干渉の結果が 有限な存在性なのです。 それは計算上の話だけではなく、たとえば完全に1個、2個と数え られる電子を、1個ずつ二本のスリットに向けて発射すると、その 向こうのスクリーンには、二本線ではなく、干渉縞が描かれる= 1個の電子が2つのスリットを同時に通り、自分で干渉し合うのです。 (無理やりどちらかに固定しようとすると、物理的に矛盾が生じる)

noname#155073
質問者

お礼

ありがとうございます。わからないところだらけでしたが(笑)。 でも「古典的な考え方」というのはあってますね。自分は結構昔の人の考え方にすごく惹かれるので。 もしかして、それだと科学哲学の世界ではやりにくいのでしょうか?

noname#133759
noname#133759
回答No.2

だめです。 その考え方は、観測者が、猫の生と死が共存している状態の外側にいて、そのどちらかを選ぶという立場です。多世界解釈というのは、観測者自身が各状態の中にいるという考え方なのです。

noname#155073
質問者

お礼

ありがとうございます。もしかしたら説明が悪かったかもしれませんね。もう一回きちんと補足で説明してみます。

noname#155073
質問者

補足

http://okwave.jp/qa/q6755755.html に新しく載せました。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.1

こんばんは。 質問文の、物理と主観をリンクさせる視点に強く共感しました。 ほぼ同感です。 僕は、生と死は2つの概念が重なってあると捉えますが、 でも言われるような、非常に早い切り替えは極限まで進むと、生と死が2つ重なることになると思うので、 僕の意見と極限で繋がっており、同意見と捉えます。 シュレディンガーの猫の本質は、命が因果律のルールを破っている、つじつまが合わないということです。 つまり、矛盾をきたす命の本質は何か? と言い換えられると僕は思います。 極めて早いスイッチで、生きてる猫と死んでる猫を見る視点が切り替わることは、それを見ているこちら側が、生きたり死んだりしてることと等しいです。 猫にとっても、それを観察する人間にとっても同じですが、お互い自分が生きており、相手は死んでいる、と思っています。 仮に生きてる猫と死んでる猫、が2ついるとするなら、生きてる猫から言わせれば、もう一匹が死んだ猫ですが、死んだ猫から言わせれば、生きてる猫のほうが死んでいます。 つまり生死は相対的、あるいは相補的(比較の問題か、存在の問題か、ココをまだ正確に表現できないんですが、生死を対比としてみるなら相対的、相補的な2つの独立概念としてみるなら相補的)、なので、 人間が、生きてることを特別視する限り、このパラドックスは解けないように思います。 そこを生と死が対であるというこちらの質問はそこを破っているので魅力を感じたんですが。 それは、夢と現実の関係に似て、2元論的にはひとつの正解は出てこないから、と思います。 その意味で、2つの生と死の概念を重ねる上で、スイッチというのは、僕もすごく同意見です。 パラパラ漫画で、2つの絵を交互に素早く見れば、2つの絵が重なるように、2つの絵のはずが、ひとつの絵になって見えるように、 生と死は素早くスイッチすれば、「生+死」という一つの概念に生まれ変わると思います、個人的意見ですが。 >当然この時お互いの視点同士では記憶や感覚は互換性がないです これもとても同意見です。 2つの自分のスイッチは、脳波の周波数&バイオリズムに相当すると思います。 集中の強さが上がれば上がるほど、周波数は上昇します。 その脳波の振動に対応して、意識や心人格などが切り替わると思われます。 切り替わる、とは言われるとおり、記憶も感覚も、脈絡がありませんし。 本来生きてることは、死んでることを前提に成り立つし、死んでることは生きてることを前提に成り立つので、当然かもしれませんが。 生と死の間は、因果律が切れます。死後の世界を知る人はいないし、生まれてくる前を知る人もいないのは、因果関係がないからです。 それは一生の長い波長でも成立すると思いますが、 言われるとおり、非常に高い周波数下に於いても、同時に成り立つものだと思います。 ーーー以下は僕の勝手な持論として 極大と極小は、結局有限ではない、という意味で同じものです。 一人の人の一生は、客観的には80年だとしても、その一個人にとっては、全てであり、全部であり、その80年こそが、極大のマックスです。 ぎゃくに、最も短い時間空間に集中できる最小単位があれば、それがその人の主観的体験に於いて、ミニマム最小のものです、例え測定してもっと小さいものがあるとしてもです。 そして、この2つの壁が、生と死の境目で、壁、ということになります。 客観的にそうでなくても、体が死んでしまえば、あるいはそれがその人の個人的限界であれば、その人の主観的には、現実に限界であり、命の壁だから、と思います。 非常に早いスイッチが、生+死の定常値になることは、 数学の微積分の理屈を想像してもらうと分かりやすいのですが。 ガンガン集中するのは=脳波周波数極大=生の極限です。 その逆方向、脳波周波数が極小≒0(バイオリズムで人生80年=1周期とするものや、それより長い、永遠の過去から永遠の未来までを見渡す視点は、極限に於いて周波数0と言えるかなと思うので)は、死の極限を意味します。 微分積分の概念でなら、波長極小で、振幅最小で、周波数最大の波が、波長無限大、振幅0、周波数0の波と裏表のイメージは湧くと思います。 主観的には、頭を高速回転させてフルに集中し着ると、心はしんと静まり返り、落ち着いてくる、という現象に似てます。 集中とは、極大であり極小でもありますから。極大と極小は裏表です。 だから振動もなく周波数0の、いわゆる死んだ方の心電図のような横一直線状態と、高速なスイッチング時のサインカーブとは、紙一重です。 それが、生と死が切り替わることと、生+死、という定常的な概念が、極限に於いてつながることの僕なりの説明です。 「死ぬ生きる死ぬ生きる死ぬ生きる・・・」≒生死を止揚することになります。 命は、生死を超えた、というか、止揚したもので、だからこそ、物理学に於いても、論理的矛盾点として現れたのじゃないかな? と空想します。 生と死の波の変化は、波長が極大になって振動が無くなっても、この生死概念は止揚するし、 波長が言われるような極小になって振動数が極大になっても、はやり生死概念は止揚すると思います。生+死、になると思います。 命=生+死、 というのが今のところ暫定的な意見です。 ちょっと質問です。 どこでこの着想を得られましたか? できたら教えてもらえませんか? 僕も参考資料を集めています。なかなかこういう話題がないもので。

noname#155073
質問者

お礼

ありがとうございます。いろいろ参考になりました、とはいえ難しくてわからないところがあったのですが・・・・・・・・ まあ自分はまだ高1であまり難しい文に慣れてないのですが、 「哲学的な何か、あと科学とか」 という簡単に説明された哲学の本を見てこの思考実験を知り、自分なりに考えてみました。もともとこういうことを考えるのは大得意だったので、どこで着想を得られたかと言えば・・・・・・・・・・強いていえば自分が「ドラえもん好きの自己愛性人格障害者」だからでしょうか(笑) ちなみに将来は科学哲学者志望です。

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