「たとえ話」は、たとえベタの人にかかると、よけい分からなくなりますね。シュレディンガーもたとえベタです。コペンハーゲン学派への皮肉のつもりでこの話を作ったのです。
現実には、箱を開けるまでもなく、猫が死んでいるか生きているかどうかは、決まっています。
でも、「観察されていない」という意味で、観察者にとっては「どちらか決定できない・不確定の状態」です。
「観察者にとって不確定」である以上、「理論上不確定」とせざるを得ない、という解釈に対して、「んなわけねーだろ、観察していないだけで、実際は反応は起きてるじゃん。観察者がいようがいまいが。」と皮肉をこめました。
量子力学のレベルになると、観察者の存在が反応に影響を及ぼしてしまいます。電子顕微鏡で観察した原子のレベルの反応は、電子ビームを当てることで初めて写真撮影可能なのですが、この、電子ビームを当てるという行為によって、本当の(本来の)反応や姿をゆがめている、ということです。実際、ダニの写真を撮ろうとしてあまりに長く電子顕微鏡で観察すると、ダニが焼け死んでしまいます。本当はもっと複雑な数学レベルの話ですが、これも「たとえ話」と思ってください。このフォントでは数式を表示できませんし、出来たとしても分厚い本を何冊分も入力しなければなりません。
昔の中学校の理科の教科書では、原子の周りを電子が、太陽と惑星の関係のように図示されていました。しかし、よく研究すると、惑星軌道のように原子の周りをぐるぐる回っているのではなく、原子の周りのどこかにある、と分かってきました。たとえて言うなら、ドーナツの穴にピンポン玉を置いたようなものです。ピンポン玉が原子核です。ドーナツを輪切りにすると二つの円が出来ます。ドーナツの一番内側と外側が薄いです。ここは電子の存在する確率が低いということです。
「生きている」か「死んでいる」かあるいは「瀕死」か「ちょっとダメージを受けた」か、さまざまな状態が不確定です。あらゆる状態が考えられ、そのすべてが「存在可能=箱を開けるまでは理論上存在している」と考えるのが、パラレルワールドです。高度な数学理論を文科系のたとえ話にしてしまったのです。
アインシュタインは、「神がそんないい加減なことをするはずがない」と、このボーアの解釈に反対しましたが、こう考えると都合がよいので、この考えが正しいということになりました。アインシュタインがボーアに負けた日として有名です。その語の半導体製品の発達やあなたも持っているであろうパソコンやケータイが正しく機能していることが、この理論の正しさを証明しています。シュレディンガーが皮肉ったのは、あくまで高度は数学理論を文科系的素人解釈に貶めてしまう事でした。