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出家の坊主が復興構想ですか?

仏教では、在家信者と出家信者がおりますが、出家とは、世俗を離れて家庭生活も捨てて仏門に入ることと理解しております。 さて、震災にあって荒廃した町や村を復興することは世俗のことでないのでしょうか? 私は、震災復興構想は世俗であるべきだと思うし、世俗の事は在家信者に任しておいて、出家信者は仏門の修行に専念してもらいたいと考えるのですが、みなさんはどう考えますか? 出家しても、世俗の事に多いに関与すべきだ。 出家したら、在家信者とは違うので、世俗の事に時間を使わず修行に専念するべきだ。

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  • ベストアンサー
  • TANUHACHI
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回答No.56

 「べきだ。」との末文からドイツ語の“Sollen”のことを想起しました(他の方々の回答を読まずに回答しているので、既に答がでているのでしたらごめんなさい)。と同時に芥川の『杜子春』の結文にある一語を思い出しました。仙人である鉄冠子が杜子春に様々な試練を課す、というあの話です。「何があっても言葉を発してはならぬ」との命に対し杜子春は耐えますが、最後に最大の試練が待ち受けていて遂に言葉を発してしまう。けれども鉄冠子は彼を許す。そして一言「もしあの時お前が声を出さなかったら、お前を殺していた」との言葉を遺して物語は終わる(オリジナルの杜子春伝とは異なる結末ですが)。  この時の仙人の言葉がsollenと同じではないか、と僕は思うのです。杜子春という若者の本来の姿、それは世俗に生きる人間であり、仙術修行を経て不老中寿の存在となった仙人ではない。街角に佇んでいた若者がすべき或いは彼にとって必要なことは何か?を考えてみた時、僕なりの答が見つかったような気がします。  震災復興構想のメンバーに僧籍を持つ人が1人、そして自称「哲学者」の特別顧問が1人いますが、少なくとも僕は彼らに復興構想会議には加わるべきではないと考えます。「復興」の内容やグランドデザインとしてのアイデアを具体的なテーブルに乗せることのできるのは医療行政のスペシャリストや、都市計画を専門とする土木工学や建築工学のスペシャリストであり、それを具体的に指示できるのは官僚や官僚OBだけでしょう。  出家した者のみができること或いは出家した者が世俗から委託されたモノは何か、を問うならば、彼らもスペシャリストであるのだからそれは自らの職掌を全うするだけとしか言い様はないと思われます。  奈良時代には行基のような私度の僧もいましたが、彼の事業はやがて政治の仕事として大規模な造営事業の形で移管していきました。もちろんその背景には「国家に認定されていない僧の下に多勢の人間が集まることは好ましいモノではない」との政治的判断が働いた可能性も無いわけではありませんが、僧としての彼の仕事からみれば灌漑用水を掘ることなどは本来の枠外であったはずです。厳しい言葉で言うならば、仕事を果たしていない以上は僧ではない、と見られてもおかしくはないでしょう。仏門に帰依する、山門の中の世界で生活することは山門より外の世界との縁を絶ち切ることに等しい、と道元は敢えて越前に居を移した経緯もあります。  

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 仙術の喩え話と同様、出家すること自体、極めて非人間的なことだと思います。 親を捨て、妻をめとらずに、俗世間の一切を割愛して修行に没頭するなんてのは、極めて非人間的なことです。 そこまで非人間的な選択をしてでも、悟りを開きたい、今生のうちに悟りの境地に至りたいと言う一心で出家という大英断をされるわけです。 ですから、俗世間の復興構想などにかまけることなく初心貫徹して欲しいですね。

その他の回答 (96)

回答No.48

 今頃になって、なのですが、思いついたことを述べてみます。  日本の寺は出家の僧侶の住処。  修行に専念すべき僧侶が寺を住処としているので、Mokuzoさんの意見では寺の存在、役割を否定することになるかと思います。  そういった意見になってしまいます。  本当の所は、あんまり大きな顔してでしゃばるな、と言いたい気持ちがこうした質問になったのでしょう。  マスメディアには取り上げられにくい、世間には知られにくい環境に身を置く、真の“出家者”は今も修行に励んでいると思います。  そういう人たちは、今回の震災も知らないかもしれません。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 >真の“出家者”は今も修行に励んでいると思います。 震災復興会議などに参加して、誰のカネを何に使うかなど意見具申をする人間は、真の”出家者”ではない。相手にするな、とのご意見と理解しました。 私も同感でございます。

  • _AXIS_
  • ベストアンサー率11% (2/17)
回答No.47

〇仏教業界で真の意味で「出家」できる人はいない。不可能である。  釈迦はどこにも属さず、何の教えも関係なく「出家」しました。 〇仏教業界で悟った人はいない。解脱した人もいない。 〇真に悟った人であれば政治には関わらなくなるだろう。 〇真の意味での聖人などいないだろう。仏教業界で「出家」した人であれば尚更。 〇他人を真に救える人はいない。 〇「悟って」「俗社会」に還元することは出来ない。 〇究極的には 知り、そこにいるだけで良いだろう。居るだけで周囲を調整する影響力を持つのが理想。 〇馬鹿で頑固で卑怯で傲慢であるがゆえに苦しむ人間を見て救いたいとも思わない。 〇人を聖と俗に分け、自分は俗に属している、としている物を救おうと働きかける必要性などない。そもそも救えない。聖・俗の区別をして自分は俗に属しているなどと居直り、都合の良いときだけ救ってくれなどと言うのには虫唾が走る。苦しむべき人間は苦しむべし。 自信はあるわけでもなく、ないわけでもありませんが一応回答です。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.46

面白いご質問でございますね。 僕は、次の事をどう捉えるかが問と向き合うには重要ではないかと思っているのですが、Mokuzo100nennさんは以下の点をどの様に理解されているのでしょうか? 仏教の目的とは何なのか? なぜ在家なのか? なぜ出家なのか? 復興とは何なのか? 如何でございましょうか?

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

質問をありがとうございます。 できれば、次回は回答をお願いします。

noname#134569
noname#134569
回答No.45

お礼をありがとうございました。  拙文No.32の「還俗」の意味合いについてのみ申し上げます。 私はweb辞書を参考に「俗世に還る」の意味で記したつもりなのです。 広義解釈なのでしょう、きっと。 でも、ご質問上では在家信者でいらっしゃるMokuzo様の「還俗とは一旦出家したものが戒律違反などで破門され、仏教界から追放される」がやはり正しく適当なのでしょう、また、現実社会もそのようにみなされるのであろうといまここで理解に至りました。 私はとても浅はかでした、ごめんなさい。 でもおかげさまで、Mokuzo様が拘る出家者の使命=聖性が見出せました。 仏の教えをより尊び乞うのであれば、タイのような自発的な還俗とその後の多様な生き方を世俗が認め尊敬するのも適っていますし、それはある意味とても豊かな社会だと思うのです。 出家から在家に戻るというゆるやかな信仰のありようをもみとめているのですから。 一方、Mokuzo様のおっしゃる日本の還俗のありよう=不退転の決意で出家に臨み自発的還俗など一切容認されず世俗からも破門という負の印象の烙印を押されかねない)からすれば、聖性がより求められているとたしかに言えるのかもしれませんね。 だとすれば、いったいタイではどこに聖性を見出しているのかしら?とも思うのです。 Mokuzo様、未熟者で愚鈍な私にご教示願いますでしょうか。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 タイでは仏教と言えば上座部仏教。 日本で主流の大乗仏教は社会参加型布教活動推進仏教ですか? 挙句の果てが、特定政治政党を支援する教団まで現れるしまつ。嗚呼。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.44

人間、信長より長生きした奴はみな爺だと思ってたんだが、そりゃ猪豚の妄想じゃってんだったら、爺と呼ばずに木造でえくか木造米虫と改めて呼ぶことにしよう。で、でえく、また横入りだ。 >つまり、震災の復興構想に参加するのも見方を変えれば、菩薩の利他行と言えるわけです。そうであれば、復興構想に参加している方々も仏門の修行に専念しているんですよ。まぁ、歴史を振り返ればそういったものに出家が関わってきた既成事実は山のようにありますから、別に変じゃないんじゃないかと思います。 こんなのが一番危ないね。話しが上っ面だけになっちゃてて、原理原則や大義を全くおっこどしちまって、理屈だけでもの言ってる。こんな理屈、アメリカの政治家のお得意とするところで、あの国じゃそんな理屈をこねる奴を偽善家って言って批難するんだが、日本には悪徳政治家は幾らでもいるが、まだ偽善的政治家だって批難されている奴は出てないように見えるが、どんなもんかね。 そんな理屈を捏ね出しちゃあ、それこそ聖と俗の区別が付かないアメリカ人並みになって、偽善家が輩出してしまうぞ、ってこちとらは言ってるんだ。 仏教でも方便って言うちょるだろながなもし。何で菩薩は如来より一段階下なんじゃね。何で、菩薩はきらびやかな恰好をしているが、如来は質素なんじゃね。そりゃ、菩薩は方便だちってることなんだろながもし。仏教に志すもんが、俺は菩薩じゃなんて言ってる訳がないだながなもし。如来を目指さなあかんのですわいな。阿弥陀さんだって、俺に助けて~っていって、その後極楽のレクチャーコースに及第すれば、在家の愚衆だって、菩薩じゃなくって俺と合体した如来になれるちってたと『往生要集』書いてあったぞながもし。それを出家した尊いお方達が、如来を目指さないなんて、支離滅裂でありんすえ。 木造米虫は、この哲学欄で哲学っちゅう原理原則を語ろうと言ってるんだとあたしは理解しちょるんじゃ。そんなところに、方便の話しを出して来ちまったら、原理原則のわけがわかんなくなっちまうでは御座らぬか。そんなふうに原理原則から話しをそらして煙に巻くのがアメリカの偽善政治家の常套手段なんじゃ。出家したもんは、須陀恒、斯陀含、阿那含、阿羅漢と経巡って、遂に涅槃に達して、如来と合体することを目指さなにゃならんのじゃ。 南方熊楠『自分を観音と信じた人』によると、 「婦人いわく、わが夫は途方もなく多淫で、昼夜一件をつけ回し、食事も休息もさせず、それから疾みだして直る見込みなし、と。道人、婦人に告げたは、今度御亭主が貴女の身に近づき来たら、こちの人は須陀恒たるにそんな不作法をして宜しいかと言い給え、と。のち果たしてまた夫が妻に迫り来ると、妻が道人の教えのままに、あなたは須陀恒の身でもってそんなことをして宜しいか、と尋ねた。夫これを聞いてはなはだ然時入り慚じ入り、さては自分は須陀恒かも知れぬ、須陀恒とは何であろうと案じ出し、すなわち意を息めて閑静処にあり、思惟校計して須陀恒から斯陀含を経上がり、阿那含となった。」 とある。出家した坊主は、この元多淫野郎を見習って、世俗や多淫にかかずりあわずに如来になる修行をしなくちゃならんと言ってるんじゃい。 んにゃ、観音様は如来じゃないよ、なんてな重箱の隅を突っつくような細かい理屈言って、本題をそらすんじゃないよ。方便の話しをしてんじゃないんだから。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

すこしは若返ったようで、幸せです。 そうなんですよ。哲学のカテゴリだからゾルレンを語ってほしかったんですが、どうも現状とか歴史的事実を援用して現在の事象を票なさろうと言う方が多いですね。哲学が終わったと言われる所以でしょうか。 しかし、相変わらず先生の引用は恰好よいね。 多淫野郎でも心改めて修行すれば、そこそこ見込みがあるってのが仏教のやさしさ、懐の広さですよね。 そうやって、救いようの無い奴を救おうとしたのでしょうけれども。

回答No.43

 聖・愚禿さまのお話は、凡俗も少し耳目するところであります。小説もいくつかありますね。  聖者たちが、俗界の塵にまみれないで自己をそのように捧げておられるエピソードはインドでもあることを聞いています。  病や邪悪が村々に入らないように、境の峠などにじっと座して護り通し、そのまま像になったという話など。  俗塵・人の中に立ち働き、まみれていくのとはちがうのでしょうね。立ち働いてもまみれない人もいますが。  かの石橋湛山ってお方は多分、そういう形の人かも知れませんよ。あまり知らないんですが、保守系の人は。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.42

 いろいろな回答が出ていますが、少しお話をさせていただきます。 >>さて、震災にあって荒廃した町や村を復興することは世俗のことでないのでしょうか?  こういった質問について思うことは、このような社会活動は日本仏教においては古くから僧が関わってきた歴史があります。そういった社会活動のはしりとしては、『日本書紀』には推古元年(595)に聖徳太子は四天王寺内に施薬院という場所を設け貧困の病人に薬を与えて治療にあたらせておられたようです。また、当時の豪族達も社会活動をおこなっていたようですが、伝説の域を出ていません。  法整備に関してみてみると律令制度のなかには「鰥寡(かんか)条」という記述があり、孤独、貧窮、老疾等の理由でひとりでは生活できないものを支援する法律です。律令制度自体が中国の儒教思想を基に作られていますから、このような条文があるのはおかしなことではありませんが、どれほどの強制力があったかは疑問です。  本格的に社会活動が行なわれるようになるのは、道昭法師や行基菩薩を待つ必要があるといわれます。この道昭法師は『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵の弟子で、晩年は橋をかけたり道の整備などの土木事業に従事しています。そして、道昭法師以上に社会活動に従事したのが、その弟子行基菩薩(弟子ではないという説もあります)です。『日本書紀』によれば、天武四年(676)年あたりから天武十四年(686)の十年間に、十六回の地震が起きていたことが記されています。また、天平年間(726~749)あたりでは天然痘が流行し、そのほかの流行り病もあったそうです。行基菩薩はこのような時代背景の中被災者や流行り病の患者を「布施屋」というところに収容して食事を与えたりしていたようです。また、それだけではなく橋をかけたり、港を作ったり、貯水池を掘ったりと土木事業にも中心人物として従事しておられました。学習院大学の鐘江宏之氏は道昭法師や行基菩薩を指して「地域改善の指導者」と評しています。  この行基菩薩は『続日本紀』のなかにおいては文殊菩薩の垂迹(化身)として記されています。また、『行基菩薩縁起図絵詞』の中には、文殊菩薩と行基菩薩の関わりの深さが記されています。なぜ文殊菩薩かといえば『文殊師利般涅槃経』文殊菩薩は貧困に苦しんだり、人々から見放された人々の中に現れて、そういった人々を救うとされています。これが行基菩薩の民衆への社会活動の姿が重なったのでしょう。つまり、行基菩薩の社会活動は「菩薩の利他行」と考えられていたわけです。  >>私は、震災復興構想は世俗であるべきだと思うし、世俗の事は在家信者に任しておいて、出家信者は仏門の修行に専念してもらいたいと考えるのですが、みなさんはどう考えますか?  つまり、震災の復興構想に参加するのも見方を変えれば、菩薩の利他行と言えるわけです。そうであれば、復興構想に参加している方々も仏門の修行に専念しているんですよ。まぁ、歴史を振り返ればそういったものに出家が関わってきた既成事実は山のようにありますから、別に変じゃないんじゃないかと思います。  急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀仏

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 また歴史的なご見識もおありの様で参考になりました。 ただ、歴史上行われてきたから現在もすりゃあ良いじゃん、という理屈がまかり通りますと、奴隷売買や言論統制や、はたまた原爆投下だって人類の歴史上おこなわれてきたことですので、、、、。 ここは歴史のカテゴリではく、哲学のカテゴリですので、Sein ( Waren?)ではなくてSollenを語っていただくと有り難いです。

回答No.41

 ANo.39【職業的側面ではなく、使命的側面からご考察】というコメントをいただきました。  ANo.5, ANo.8では求道者としての単なる個人的生き方に傾き、その後ではご指摘のように職業的側面での考察投稿になり、社会や人、或いは存在に対する対応としての使命的側面が欠落しております。  そういう側面からの考察としては、ANo.41の【「出家が」ではなく「出家して求道もせず、道の終わりにたどり着いていない物が」ノコノコ戻って来て上面の有り難さに縋らねばならない方を相手にしている事に虫酸が走るのです。】というご回答に賛意の一票を投じます。  人のことをとやこういえないが、50だか60だかの玄侑宗久さんという青年もネットで見ると、いろいろ定まってはいないようですね。  出家であれば、お会いした対面的存在性として在家の凡俗に自己存在への道しるべを期待したいですね。  むろん、出家だからとて到達は様々です。未熟さは判ります。  しかし一途という態度と世界は、在家凡俗には清涼てき休みの世界を啓いてくれます。触れさてくれます。それが大事です。  どんなご信心、どういう宗教の方でもそういう世界を開いてくれます。そういう存在性が真のご出家にはるのです。  それはもうそれ以外のことを為さっていたり、それ以外の側面(数十数千の面を持っていても、どんな悩みにも対応する、理解と同情を持つという事ですから)などはあるべきではないですね。  学校の教師も、塾の講師も、大学の研究者もお断りです。  むろん何とかの機関での意見陳述者もそこからの調停やPRの役もお断りですね。  というより両立しえなことは明白です。世界が痴愚のです、全く。  私も在家の一修行devoteeとしてヒンドゥ思想の教団組織で勉強と生活をしていますが、実をいうとグルと歴代の会長以外の方には全く関心がありません。  申し訳ないがそれ以外の方は私の内部の声ではありません。グルは私の魂の輝く方々です。歴代の会長は道案内です。  実はもう四十数年ですので、教団の中の結構偉い地位のかたからのcontactがありますが、自分には無用ですね。まことに不遜ですが。  どこまで一途にどこまで自分かかっているかです。そういう全面一途に全面自分がかかっていて、存在性に為りえます。  日本人会員でも素晴らしい同信の同志がおりますが、それは素晴らしいがご本人も自分を道しるべや魂の光にするつもりは全くありません。  そして私たちも最大の尊敬をしていますが、それ以上ではありません。そういう意味では宗教という世界では、人の魂だけのことでいいのであって、召集されたからとか、委嘱があったからとて、他の事をやるのは全く外道です。つまり宗教における出家としての使命を持っていないのです。  出家は魂の救済への道しるべや輝きであることしかやってはいけません。そういう存在でしかありません。  宗教信心や知識があって、生活し、いろいろ機関の構成員やなにかをしても、それはもう別の世界に入った、入っているという事で、全くご出家でありません。  どんなに未熟でも、出家様はそういう出家さまのそういう世界に雰囲気で入らせてくれます、在家の凡俗を。  それは神道の方も、どんな仏教教派の方も、キリスト教も。  ご出家であるかどうかの分かれ目は、在家凡俗に出家の世界をそこに出してくれる方です。  それ凡俗の世界の生活をしていては無理です。絶対に無理です。  出家の世界だけのことに入っているべきで、凡俗の関りと悩みや営みがあるようじゃぁ、落第です。  だから何とかのげんゆう・そうきゅうという方はご出家ではないのです。凡俗界にいきる宗教者(なのかなぁ?)でしょう。  それはいけないことだとはいわない。ただ僧衣は偽者です。世間を欺いています。仏陀も欺いています。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 多才であることのひとつ”出家坊主”ってのを加えておくと独創的でメディアでの肩書に差別化できるなんて考える人がでてきたら嫌ですね。

回答No.40

こちらの質問が気になり、回答の為登録しました。 質問~回答中のご意見は大筋で、私も自身の考えの真実(理想)の部分と一致します  私は同じく[否定派]です  出家は…云々の下りに両手を挙げ賛同致します  俗に言えば[有り難がられたいだけか!老後の為、子供の為、何かが起きてしまった時の為、と皆必死で働いて納めた税金が泡と消え、何かが起きたので集金しまーすと修繕費の積立金 二重取りみたいな詐欺に合ってるのに何故出家にその金の振り分け任せる?]という所。 回答としては…「出家が」ではなく「出家して求道もせず、道の終わりにたどり着いていない物が」 ノコノコ戻って来て上面の有り難さに縋らねばならない方を相手にしてい事に虫酸が走るのです。 悟りの境地にたち、俗界を顧みた時にこそ、私達の心に真実や光を見いだす為の手引きが出来るのではないか、と。 そうでない[人間]のする事だから違和感を覚えています。 苦しむ人々を救いたいのなら、心を鬼にして修道に邁進して頂きたい

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

  • _AXIS_
  • ベストアンサー率11% (2/17)
回答No.39

動機が無いなら、お黙り!  と言って動機を作ってくれたのですね。 大工さんは結局は「ボクのおかあちゃんの言っていたことは正しかったの?」と問うべきではないでしょうか、 問えるのであれば...。 そしたらそれを応用して、「古い女房の言っていることは正しいの?」と私に問うことも出来ます。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

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