_AXIS_のプロフィール
- ベストアンサー数
- 2
- ベストアンサー率
- 11%
- お礼率
- 0%
- 登録日2011/03/15
- 職業会社員
- 都道府県神奈川県
- 気勢感をめぐって さらに 美とは何か?
先般の ( a ) 【Q:わび・さびは どうして美しいと感じられるのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7117520.html の質疑応答を承け ( b ) 【Q:非対称の美の鑑賞から】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7139296.html を通過するかたちで 表題について問います。 § 1 いきなり 美とは何か? (1) あちらでは《美的快感》と定義するようですが これを《みづみづしさ・息吹き・あるいは存在感》と――( a )のやり取りでは――捉えました。 (2) さらにこれを 《対人的な関係性を重視する美徳、美意識》と規定される場合も見られ それは ひとつには 共通感覚や共同主観につうじるところの相互主観性ということをないがしろには出来ないと言っていると思われます。人は 社会的に独立して存在するが それは社会的に関係性を有するということだと考えます。 孤独とは 孤独関係なりと。 (3) もうひとつに 美徳ともなりますと 倫理観にまでつながり いわゆる真善美というときの善にまで通じるかとも思われます。おそらく こうでしょうか? (3-1) 作品にしろ風景にしろ何らかの対象に向き合うとき わが心にみづみづしい息吹きを呼び起こすほどの美は わ れここにありという《わたし》の存在を自覚するきっかけにな る。 そのとき 《われもまた アルカディアにあり》と言ったかど うか分かりませんが それはともかく われは孤ならず必ず 隣り有りといった人びととのかかわりや まじわりを想い起 こさせてくれるものだということかと。 (4) 言いかえると 人と人との関係性や交通の現実性は ほかでもなく《生活世界》のことを言っている。何のことはない 日常生活なる基礎にもとづく美感・美意識ないし美学が 問われている。と言ってよいでしょうか? (5) かたちにおいて枯れたものと華やかなものとがあり それぞれ 《わびさび》と《みやび》とに分けて捉えてみる。 (6) おそらく ミヤビとしての美的感覚は 人びとの生活日常とすれば 市民にとっての一次的な基礎ではなく その上に別の階層をつくりそこに第二次の生活世界を築こうとしたところに見られる。のではないか? (7) 基礎ないし土台としての生活は つねに侘びしく寂しくなければならないものではないが おそらく 一度は枯れてしまって底に突き当たってのごとくさらにそこから なお残るみづみづしいちからを感じ得て 生きるというところに 美的感覚をおぼえるものと捉えられる。 (8) ワビサビの美を感じる心を 言葉としては あやまち得るスサノヲ人間語に対応させて捉え 対するにミヤビの美は あやまたざることを旨とするアマテラス人格語で捉えることとする。 (9) ひとつの問いは (3-1)の《人とのきづなを感じさせるところの・わが存在になお残るみづみづしい息吹きの自覚》は スサノヲ人間語やアマテラス人格語それぞれの単独の世界において見い出せるものか? これです。 (10) 言いかえると――質問者によるたたき台としては―― 両者あいまって 美的感覚をかたちづくるであろうと仮説してみる。 (11) 言いかえると スサノヲ人間語はみづからの中に倫理観などを潜在性として含むことにおいて その荒削りとしてのアマテラス人格語を宿していると見るのだし それに対して アマテラス人格語も ただそれだけでは無味乾燥なのであって どこまで洗練して行ってもそこに言わば土臭いスサノヲ人間語を失わず備えているはずだ。こう見るのが よさそうだとなります。 § 2 具体的な美の鑑賞へ (12) さて § 1の作業仮説にもとづき(もしくは それを批判し修正しつつ) ( b )に挙げられている次の作品について われわれは では どう見るか? ○( b ) ~~~~~~~ 参考例 ( c ) 尾形光琳 紅白梅図 ( d ) 龍源院 枯山水石組の立石 ~~~~~~~~~~~ (13) ひとつの焦点は ( d )が パッと見としては スサノヲ語の枯れた美であり ( c )がアマテラス語の華やかな美であると見られるというとき ほんとうのところは どうか? になります。 《気勢感》は みづみづしい息吹きのひとつの種類だと捉えてよいでしょう。 (14) ここからは 一人ひとりの美的感覚の問題になって その十人十色なる多様性はあたかも収拾がつかなくなるほどであるかも分かりません。が とにもかくにも 美とは何か これをさらに問い求めてみたい。こういう出で立ちです。 * 質問者は 理屈はこねますが 美術史の素養もなく 個々の作品は画像で見たというくらいの知識と経験なのですが その非力をも省みずあつかましくもこのように問います。よろしくどうぞ。
- 前史を終わらせるには どうするか?
どのようにして 前史を終わらせるか。 (1) まづ基本的に 《何もしない》 が答えだと考えられます。 (2) それと合わせて対案は 次です。 (2-1) 基本的に いまの前史の過程をそのまま進む。 前史の過程に棹さして歩む。これが 前史を――もしそういう自然史過程および人為的文化的過程としての人類史であるとすれば――終わりにみちびくのだと。 (2-2) これは 同じく基本的に《ひとり》としての人についても当てはまると見ます。 その人それぞれに持ち合わせている前史の要素 これをひととおりその人の思う存分展開させること このことをとおして もしそうだとすれば 前史が終わるのだと。 (2-3) 言いかえるとこの個人史というのは 個人対個人の関係ないしシガラミのような関係史としての展開となると思われます。 うまく行けば その十全な展開が ただ互いのあいだの想像上のたたかいを対話というかたちにおいて成し終えることだけで果たされるかとも見ます。 あるいは ヒラメキによって一瞬にして わだかまりは解け 互いの和解にみちびかれるかとも見ます。 (3) ただし たとえば社会形態を新しい形態へ移行させるといった文化的側面においては どうか? ――と言ってもそれも けっきょく個人どうしの上下身分の関係とその錯綜構造としては 生まれという要素も社会的自然というかたちでからんでいると思われますが そうだとしても―― どこからでも新しい契機は持ち出されて来るものと考えられます。 一点突破は どこからでも試みられる。社会形態には どこにも隙がある。 考えが思い浮かんでその考えをよしと見た者がその新しい社会像を推し出して来ると思われます。これを吟味検証していけばよい。 (4) 前史としては あとはそこで社会力学上の関係錯綜の過程をたどって行くはずです。 (5) そうして 基本的に・全体として見て 《前史を終わらせる》には《前史に沿って歩みを進める》のが筋道だと考えます。 つまり その中で――全体としての自然史過程の中で―― 社会形態にかんする側面である(3)の仕事は 人為的に作為的にはたらきかけコトを起こすほどの行動をすすめるわけですが その結果も 全体として前史に沿ってあゆむ。こうなるかと考えました。 (6) あるいは抽象的に言ってしまうと こうなりましょうか? 《前史人が自己とそして社会と和解したときに 前史が終わる》と。 前史のシガラミに不満をかこちその短所をののしっている間は のぞみが薄い。のかも分かりません。 (7) それとも《前史》などという捉え方が どこかまちがっていましょうか?
- 前史を終わらせるには どうするか?
どのようにして 前史を終わらせるか。 (1) まづ基本的に 《何もしない》 が答えだと考えられます。 (2) それと合わせて対案は 次です。 (2-1) 基本的に いまの前史の過程をそのまま進む。 前史の過程に棹さして歩む。これが 前史を――もしそういう自然史過程および人為的文化的過程としての人類史であるとすれば――終わりにみちびくのだと。 (2-2) これは 同じく基本的に《ひとり》としての人についても当てはまると見ます。 その人それぞれに持ち合わせている前史の要素 これをひととおりその人の思う存分展開させること このことをとおして もしそうだとすれば 前史が終わるのだと。 (2-3) 言いかえるとこの個人史というのは 個人対個人の関係ないしシガラミのような関係史としての展開となると思われます。 うまく行けば その十全な展開が ただ互いのあいだの想像上のたたかいを対話というかたちにおいて成し終えることだけで果たされるかとも見ます。 あるいは ヒラメキによって一瞬にして わだかまりは解け 互いの和解にみちびかれるかとも見ます。 (3) ただし たとえば社会形態を新しい形態へ移行させるといった文化的側面においては どうか? ――と言ってもそれも けっきょく個人どうしの上下身分の関係とその錯綜構造としては 生まれという要素も社会的自然というかたちでからんでいると思われますが そうだとしても―― どこからでも新しい契機は持ち出されて来るものと考えられます。 一点突破は どこからでも試みられる。社会形態には どこにも隙がある。 考えが思い浮かんでその考えをよしと見た者がその新しい社会像を推し出して来ると思われます。これを吟味検証していけばよい。 (4) 前史としては あとはそこで社会力学上の関係錯綜の過程をたどって行くはずです。 (5) そうして 基本的に・全体として見て 《前史を終わらせる》には《前史に沿って歩みを進める》のが筋道だと考えます。 つまり その中で――全体としての自然史過程の中で―― 社会形態にかんする側面である(3)の仕事は 人為的に作為的にはたらきかけコトを起こすほどの行動をすすめるわけですが その結果も 全体として前史に沿ってあゆむ。こうなるかと考えました。 (6) あるいは抽象的に言ってしまうと こうなりましょうか? 《前史人が自己とそして社会と和解したときに 前史が終わる》と。 前史のシガラミに不満をかこちその短所をののしっている間は のぞみが薄い。のかも分かりません。 (7) それとも《前史》などという捉え方が どこかまちがっていましょうか?
- 前史を終わらせるには どうするか?
どのようにして 前史を終わらせるか。 (1) まづ基本的に 《何もしない》 が答えだと考えられます。 (2) それと合わせて対案は 次です。 (2-1) 基本的に いまの前史の過程をそのまま進む。 前史の過程に棹さして歩む。これが 前史を――もしそういう自然史過程および人為的文化的過程としての人類史であるとすれば――終わりにみちびくのだと。 (2-2) これは 同じく基本的に《ひとり》としての人についても当てはまると見ます。 その人それぞれに持ち合わせている前史の要素 これをひととおりその人の思う存分展開させること このことをとおして もしそうだとすれば 前史が終わるのだと。 (2-3) 言いかえるとこの個人史というのは 個人対個人の関係ないしシガラミのような関係史としての展開となると思われます。 うまく行けば その十全な展開が ただ互いのあいだの想像上のたたかいを対話というかたちにおいて成し終えることだけで果たされるかとも見ます。 あるいは ヒラメキによって一瞬にして わだかまりは解け 互いの和解にみちびかれるかとも見ます。 (3) ただし たとえば社会形態を新しい形態へ移行させるといった文化的側面においては どうか? ――と言ってもそれも けっきょく個人どうしの上下身分の関係とその錯綜構造としては 生まれという要素も社会的自然というかたちでからんでいると思われますが そうだとしても―― どこからでも新しい契機は持ち出されて来るものと考えられます。 一点突破は どこからでも試みられる。社会形態には どこにも隙がある。 考えが思い浮かんでその考えをよしと見た者がその新しい社会像を推し出して来ると思われます。これを吟味検証していけばよい。 (4) 前史としては あとはそこで社会力学上の関係錯綜の過程をたどって行くはずです。 (5) そうして 基本的に・全体として見て 《前史を終わらせる》には《前史に沿って歩みを進める》のが筋道だと考えます。 つまり その中で――全体としての自然史過程の中で―― 社会形態にかんする側面である(3)の仕事は 人為的に作為的にはたらきかけコトを起こすほどの行動をすすめるわけですが その結果も 全体として前史に沿ってあゆむ。こうなるかと考えました。 (6) あるいは抽象的に言ってしまうと こうなりましょうか? 《前史人が自己とそして社会と和解したときに 前史が終わる》と。 前史のシガラミに不満をかこちその短所をののしっている間は のぞみが薄い。のかも分かりません。 (7) それとも《前史》などという捉え方が どこかまちがっていましょうか?
- 前史を終わらせるには どうするか?
どのようにして 前史を終わらせるか。 (1) まづ基本的に 《何もしない》 が答えだと考えられます。 (2) それと合わせて対案は 次です。 (2-1) 基本的に いまの前史の過程をそのまま進む。 前史の過程に棹さして歩む。これが 前史を――もしそういう自然史過程および人為的文化的過程としての人類史であるとすれば――終わりにみちびくのだと。 (2-2) これは 同じく基本的に《ひとり》としての人についても当てはまると見ます。 その人それぞれに持ち合わせている前史の要素 これをひととおりその人の思う存分展開させること このことをとおして もしそうだとすれば 前史が終わるのだと。 (2-3) 言いかえるとこの個人史というのは 個人対個人の関係ないしシガラミのような関係史としての展開となると思われます。 うまく行けば その十全な展開が ただ互いのあいだの想像上のたたかいを対話というかたちにおいて成し終えることだけで果たされるかとも見ます。 あるいは ヒラメキによって一瞬にして わだかまりは解け 互いの和解にみちびかれるかとも見ます。 (3) ただし たとえば社会形態を新しい形態へ移行させるといった文化的側面においては どうか? ――と言ってもそれも けっきょく個人どうしの上下身分の関係とその錯綜構造としては 生まれという要素も社会的自然というかたちでからんでいると思われますが そうだとしても―― どこからでも新しい契機は持ち出されて来るものと考えられます。 一点突破は どこからでも試みられる。社会形態には どこにも隙がある。 考えが思い浮かんでその考えをよしと見た者がその新しい社会像を推し出して来ると思われます。これを吟味検証していけばよい。 (4) 前史としては あとはそこで社会力学上の関係錯綜の過程をたどって行くはずです。 (5) そうして 基本的に・全体として見て 《前史を終わらせる》には《前史に沿って歩みを進める》のが筋道だと考えます。 つまり その中で――全体としての自然史過程の中で―― 社会形態にかんする側面である(3)の仕事は 人為的に作為的にはたらきかけコトを起こすほどの行動をすすめるわけですが その結果も 全体として前史に沿ってあゆむ。こうなるかと考えました。 (6) あるいは抽象的に言ってしまうと こうなりましょうか? 《前史人が自己とそして社会と和解したときに 前史が終わる》と。 前史のシガラミに不満をかこちその短所をののしっている間は のぞみが薄い。のかも分かりません。 (7) それとも《前史》などという捉え方が どこかまちがっていましょうか?