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仏のご利益について
下に仏や菩薩の御利益についての質問があります。 しかし、そもそも仏教でいう仏・如来・ブッダと呼ばれるこういう存在は悟りを開いて、真理に目覚めた人間の事ですよね? また菩薩というのはその仏になるため修行中の人間の事です。 平たく言えば仏は偉い哲学者とか思想家とかそういう存在であって、菩薩は学生とか出家したお坊さんみたいなものでしょうか? 別に神様とか超人ではないですよね? それなのにどうして人間の運命を司ったりご利益を与える力がある事になっているのでしょうか?
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仏陀とは「悟った人」と言う意味です。釈尊と同様の悟りを目指した人たちの集まりが原始仏教集団でした。出家して、僧/尼僧集団の中で修行につとめました。しかし、その後仏教教団は上座部仏教と大乗仏教に分裂します。 上座部は厳格な修行によって悟りを目指すという方向性を保っていたと思います。現代だとスリランカ、タイ、ビルマの仏教ですね。厳格な修行によって悟りを得るというのが基本的立場であり、少なくとも教義的には仏の御利益という発想はないと思います。 一方、大乗では修行者は自分のみの悟りを目指すのではなく、大衆を善導する菩薩であるべきだと考えました。やがて、仏陀の悟りは修行の最終目標ではなくなり、ヒンズー教の影響も受けて登場した各種の如来が神格化されました。後期インド仏教をつたえる密教には特にそういう傾向があります。 私は上座部にも大乗にも与しませんが、どちらもいいところもあると思っています。また、仏のご利益というのは密教においてさえ本質的ではないと思います。
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- michael-m
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確かにそういう見方も出来ますね。 しかしそれでは与えられた課題は何でしょうか?知識でしょうか? 菩薩行には学問はありません。求められるのは自捨利他です。 ご利益という現代の解釈は、あくまでも後世の人が勝手につけたものです。 本来は自己の満足を得るものではなく、むしろ人々に分け与えるもの、つまり布施をいいます。 自らの財を分け与える財施、これは日常の買い物も含まれます。自分の分に見合ったものを購入すれば布施であり、無謀な高みを望めば慾となります、ケチも慾です。 最も大切な仏法を広める法施。 つまり真の利益とは仏法を説き、人に徳を与えることによって自らの徳を高める。自らの徳を高めてそれを人に分け与える。この両方を以って初めて利益と呼ぶのです。 決して良縁を与える、金運を与えることが利益ではありませんが、その得た縁や運を以ってその人が衆生に徳を分け与えれば、その縁や運も利益と呼べるのだと思います。
- fujic-1990
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ご承知とは思いますが、例えば阿弥陀如来は、衆生救済の大願を立てて何(輪廻)世代も修行し、ついに解脱し「如来」と呼ばれる能力を身につけた「人」です。 お釈迦様も「人」です。輪廻途中の何世代か前に、「梵天」から仏教の初歩の手ほどきを受け、修行をした身の上です。 さて、 昨日までピアノに触ったこともなかった人が、ある日突然に天才ピアニストと呼ばれる演奏ができるわけではありませんよね。 聴くに堪えないような演奏を経て、猛練習を重ねて徐々に上手くなって、「○○コンクール優勝者」などの称号を得て、やがて「不世出の大天才」とよばれるような演奏をするわけです。 であるならば仏法修行者も、ある日突然如来としての能力が目覚めるわけではない。苦しい修行を積み重ねて、やがて「○○菩薩」の称号を得て、ついには「如来」なるのに違いない、と思うのはごく自然な考えなのではないでしょうか。 ○○コンクール優勝者でも、りっぱに演奏をして、我々庶民の心を和ませてくれるように、菩薩でも、それなりに我々の苦しみを取り除いてくれるに違いない、と思うのもごく自然な考えでありましょう。 もっと言えば、美空ひばりなどのような雲の上のスターよりも、AKBアイドルのほうが親しみやすいのと一緒で、如来様よりも、自分の願いを聞いてもらいやすい、というのは否定できないでしょう。 もっともっと言えば、修行の途中であり、衆生のアホ加減を多少は残している分、衆生の現世への欲求などにも理解をしてくれそうです。 そんなこんなの理由で、人は菩薩にも祈りを捧げます。 ただ、祈りの内容は、如来に対するような高尚な祈りではなく、もっと現世的な、我々人間でも必死に努力すればなんとかなるかもしれない程度か、それよりちょっと難しいかな、という程度の祈りになりますけど。
- ml_4649
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キリスト教徒が人間であるキリストに祈りをささげるのと大差ないと思います。 そう思いたい人がそう思うのが宗教ですから、そんなのあり得ないもOKだと思います。 信者になっている人はそう信じる、もしくは信じたいから信者になっているわけで、信じない人は信者にならないから、信者が何を信じようと人に迷惑をかけないならば信者の勝手でいいと思います。 信者と言う文字が本質を表していると思います、、、、、、信者=信じる者ですね。 厄介なのは、宗教活動には布教がありますから、信じたくない人に信じろと勧めるのだけは勘弁願いたいですが、宗教の必須要素は、布教と布施と異教徒の駆逐らしいから仕方ないんですかね? ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はいずれも同じ神を崇拝する一神教ですが、凄い対立ですよね。 キリスト教の中にもカトリックとプロテスタントがあったり、イスラム教の場合はスンニ派があったりシーア派があったり、日本の仏教なんか宗派がどれくらいあるのやら、、、、、日本の仏教にしかない空海が発起人になった大日如来と言う仏様もいますよね。 宗教の必須要素を冷静に眺めてみると経済活動を行う事業と変わらんですよね、、、、、純粋な志で宗教を開いた開祖は別にして、この辺りに宗教の大きな声で言えない本音があるんじゃないでしょうか? そのためには、体系とか構成とかストーリーとかを整理しておく必要がありますよね、、、 企業で言えば、組織や役職やビジョンのような感じでしょうか、、、、、 今書きながら思いつきました。 布教:自社製品のシェアアップ 布施:利潤の追求 異教徒の駆逐:競合他社に勝利 こう考えると丸々経済活動ですね、、、 話がそれてしまって収拾がつかなくなりました、、、、すいません。
お礼
やはり元々の仏教から変わってきたという事ですか。