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出家の坊主が復興構想ですか?
仏教では、在家信者と出家信者がおりますが、出家とは、世俗を離れて家庭生活も捨てて仏門に入ることと理解しております。 さて、震災にあって荒廃した町や村を復興することは世俗のことでないのでしょうか? 私は、震災復興構想は世俗であるべきだと思うし、世俗の事は在家信者に任しておいて、出家信者は仏門の修行に専念してもらいたいと考えるのですが、みなさんはどう考えますか? 出家しても、世俗の事に多いに関与すべきだ。 出家したら、在家信者とは違うので、世俗の事に時間を使わず修行に専念するべきだ。
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「べきだ。」との末文からドイツ語の“Sollen”のことを想起しました(他の方々の回答を読まずに回答しているので、既に答がでているのでしたらごめんなさい)。と同時に芥川の『杜子春』の結文にある一語を思い出しました。仙人である鉄冠子が杜子春に様々な試練を課す、というあの話です。「何があっても言葉を発してはならぬ」との命に対し杜子春は耐えますが、最後に最大の試練が待ち受けていて遂に言葉を発してしまう。けれども鉄冠子は彼を許す。そして一言「もしあの時お前が声を出さなかったら、お前を殺していた」との言葉を遺して物語は終わる(オリジナルの杜子春伝とは異なる結末ですが)。 この時の仙人の言葉がsollenと同じではないか、と僕は思うのです。杜子春という若者の本来の姿、それは世俗に生きる人間であり、仙術修行を経て不老中寿の存在となった仙人ではない。街角に佇んでいた若者がすべき或いは彼にとって必要なことは何か?を考えてみた時、僕なりの答が見つかったような気がします。 震災復興構想のメンバーに僧籍を持つ人が1人、そして自称「哲学者」の特別顧問が1人いますが、少なくとも僕は彼らに復興構想会議には加わるべきではないと考えます。「復興」の内容やグランドデザインとしてのアイデアを具体的なテーブルに乗せることのできるのは医療行政のスペシャリストや、都市計画を専門とする土木工学や建築工学のスペシャリストであり、それを具体的に指示できるのは官僚や官僚OBだけでしょう。 出家した者のみができること或いは出家した者が世俗から委託されたモノは何か、を問うならば、彼らもスペシャリストであるのだからそれは自らの職掌を全うするだけとしか言い様はないと思われます。 奈良時代には行基のような私度の僧もいましたが、彼の事業はやがて政治の仕事として大規模な造営事業の形で移管していきました。もちろんその背景には「国家に認定されていない僧の下に多勢の人間が集まることは好ましいモノではない」との政治的判断が働いた可能性も無いわけではありませんが、僧としての彼の仕事からみれば灌漑用水を掘ることなどは本来の枠外であったはずです。厳しい言葉で言うならば、仕事を果たしていない以上は僧ではない、と見られてもおかしくはないでしょう。仏門に帰依する、山門の中の世界で生活することは山門より外の世界との縁を絶ち切ることに等しい、と道元は敢えて越前に居を移した経緯もあります。
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- cyototu
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木造米虫は相変わらず、厳しい質問するね。そうやって若い連中に世界を考えさせようなんて、ソクラテスが日本の木造か、木造がギリシャのソクラテスかってなところかね。明治の昔ケーベル博士ってのが、「日本の若いもんは度肝を抜くような向上心を持っているようだ。俺がソクラテスやイエスの講義をしたときに、俺たちもそんなんになりたいから、先生も頑張ってね、って言われた」って彼の随筆集だか自伝に書いてあった。そんな日本の若いもんを米虫も大いに鍛え上げてくんなさいね。 あたしにゃどっちが良いってえのは解んないが、こうなりゃああなり、ああなりゃこうなるなんてちゅう事ぐらいなら予測ができそうだ。昔は坊主の妻帯が許されてなかったんだが、浄土真宗が出て来てそれが許されちまった。そして、極楽行きも簡単なもんだったんで随分多くのもんが真宗に改宗したんだね。昔から、天台公家、真言武家、浄土町人、禅百姓、って言い習わされていたんだが、こんな言い回しにも拘らず、百姓の村でも真宗に改宗しちまったのが結構一杯有ったそうだ。んで宮本常一に言わせると、民俗学的な情報収集のためにいろんな村を足で歩いたんだが、真宗の村と聴くと避けて通ったそうだ。真宗じゃあ、あんまりに俗な坊主が入り込んでしまい、村の古い仕来りがズタズタにされちまって重要な資料が皆散逸しちまっている。だからその村をいくら調べたって日本の昔の連中の生活様式を再現出来ないんだそうだ。 まあ、出家が俗世間に口出しすることを「それでもいいじゃん」なんて言ってるような世の中になると、聖俗のけじめが付かなくなっちまって、我々の親やその親達が作り上げて来た良風も一緒に霧散しちまう事ぐらいは予言出来るね。 んで、かの有名な新明解国語辞典第四版で「俗人」ってえのを引いてみたんだ。面白いことが書いてあるよ。曰く、 「高遠なる理想を持たず、すべての人を金持ちと貧乏人、知名人とそうでない人とに分け、自分は何とかして前者になりたいと、そればかりを人生の目標にして・暮らす(努力する)人。」 あたしゃ、これってアメリカ人の定義じゃんかと思ったね。アメリカにゃあ「聖」なる概念が存在しとらん。日本人もアメリカに憧れ、限りなくアメリカに近づこうと努力してるみたいだから、いよいよ聖俗のけじめがつかなくなっちゃって、出家もボランチアを、なんてえスローガンが飛び出す世の中になって来てるんじゃあないんかな。ボランチアだよ。これは立派な日本語だからボランティアなんて何語だか解んない発音しちゃ駄目だよ。 あたしの業界にはまだ、物理学とは役に立っちゃあおしめえだ。霞み食って生きてろ、なんてえ聖人もいらっしゃるんだが、んにゃ、科学技術って文科省ちゅうお偉いお役所様もそう呼んでるように、科学は技術の役立たなくちゃならん、だから、物理でナノなんかやって金持ちになることを考えなきゃだめナノだ、なんて言う俗人も一杯居るようだ。あんたの業界じゃ聖人はまだ居るんかね。
お礼
>出家が俗世間に口出しすることを「それでもいいじゃん」なんて言ってるような世の中になると、聖俗のけじめが付かなくなっちまって、、、、、 そうでしょう? この哲学のカテで回答してくれる人って、自分の頭で考えて答えを出す人だと信じているんですけどね、そういう人々の中にも「それでもいいじゃん」なんて言う人が少なからず居るようですね。 子供の時にね、托鉢している坊主を始めて見たとき、奇妙な出で立ちで、ちょっと恐ろしくて、母に聞いたことがある「あの人なにしているの?」って。そのとき「あの人は、偉い人で、自分の欲を捨てて修行しているのよ」とかなんとか教えてもらって以来、俗世間を捨てて修行する人に対して一目置いてきた。 出家の意味がわかってからは、一切の世俗の欲望を絶って仏門に身をささげるする人に対しては、特別の畏敬の念をもっていたんだ。 現在は、出家するってのも、職業の選択くらいの軽い気持ちでやるようになったんかね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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あぁそのことですか。 仰せのとおり、出家は出家で専念するんでしょう。 その専念の内容として、或いは契機として、そして新発心でも大行者の阿闍梨耶でも、時には世の実務に携わることはあるんでしょう。 釈迦もそして多くの発心者も、子どもや連れ合いに連れなくして出て行きましたね。 そりゃ出家も誰もそうでしょう。 一面、在家も必死に為っちゃいけないだろうが、専心求道するんでしょう。 出家と在家は形での区別もあり、自己の気持ちとしての出家もありますからね。 世俗、市井にあって、完全に出家している人もおり、山中や古刹に修行していて、在家以上に世俗的な人もおりましてね。 あまり意味性のないご質問とはしません、つまり時には、そんなことを考えることもいいかもしれませんよ。
お礼
はい。考えるヒントにはなりました。 あの方は、形は出家をとっているけれど、俗世間に興味があって、自ら俗世間の復興計画に影響力を行使しようという方であり、そういう方もいる、そういう出家もあってよいということでしょうか。 私は、出家と在家は同じ信者でも明確区別された役割だと思っておりました。
- hekiyu
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宗教てのは人間を救うためのツールでしょう。 世俗だから関わらない、なんてのは さぼっているだけだ、としか思えませんね。 徳川時代、仏教はキリスト教を封じ込めるため 檀家制度を導入しました。 その結果、競争原理が働かなくなり、仏教は 葬式産業に堕落してしまいました。 そもそも何の為に修行するのか、考えたことが あるのでしょうか。 己を救い、世俗の人間を救う為なのでは ないのですか。 世俗に関知しない、なんてのは世迷い言としか 思えませんな。
お礼
在家信者と出家信者の区別は不要との御意見、たまわりました。 すると、在家は出家を養う必要もないという結論になりましょうか?
- Y Y(@yy8yy8az)
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この質問は、出家者は俗世間とかかわりを持つ必要はない、と言う考えから発っしられているような印象ですが、そう受け止めてみて思いました。 布教活動と言うのは、俗世間とのかかわりの度合いは低い、とみての事かと思います。 だからそのことは置いといて、 昨今は、世間とのかかわりが低い仏教のお坊さんの姿勢が、キリスト教の世間とのかかわり具合の活発な事と比較され、批判的な目で見られているせいか、若いお坊さんたちの活発な活動がしばしば報道されています。 またブログなどを見ても世間とのかかわりを積極的に行っている様子が見てとれます。 このことを批判するような風潮は今のところ見られないので、世間は受け入れているようです。 たぶん好感をもたれて。 Mokuzoさんもこのことを否定しようというのではないですよね。 でも修行者なら修行に専念すべきだという。 これはお坊さんは、死ぬまで修行の身である、と言う受け止め方からの疑問かと思います。 果たしてお坊さんは総て“修行の身”であるといえるでしょうか。 学僧という時期ならいざ知らず、これを卒業して俗世間に“寺”を構えたらこの時点で世間とのかかわりを持ちます、という事になっているのではないでしょうか。
お礼
>Mokuzoさんもこのことを否定しようというのではないですよね。 いいえ、半ば否定したい気持ちですが。 ブログなど世間とのかかわりを積極的に行っていたいのであれば、なぜ出家したのですか? なぜ在家信者ではいかんのですか? これが愚拙の疑問です。
- bgm38489
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仏門に入っても、人間社会のしがらみと縁を断ってはいけないと思います。むしろ、そのしがらみをどう解決するか、を考えるのが、宗教家の使命ではないでしょうか。 ただ与えられた仏門の修行をするよりも、復興ボランティアに携わり、他人とのかかわりの中で修行していった方が、いいと思います。
お礼
出家はいけない。すべからく在家信者でいるべきだとの御意見と理解しました。 でも、彼は出家しているのです。 彼は、出家を取りやめ(そんなことできたかな?)人間社会に戻るべきだとのお考えでしょうか?
- 雪中庵(@psytex)
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死後の世界が実在し、我々が造物主の作であるなら、 宗教マターもリアルな必要です。 トイレに行くのは用便のためですが、誰しもカミを 用意して入るようなもので。
お礼
psytex先生、かいとうありがとうございます。 何時になく、分かりやす回答で、感謝します。 先生に会っちゃあ、覚悟の出家をしたものもトイレに入るほどの気安さにされてしまう(笑)。 私は、労働や、納税や、恋愛や、セックスなど、俗世間の活動のすべてを放棄して出家するということは、トイレに行くよりもずっと覚悟のいる事だと思うんです。 その覚悟をして出家した人間が、労働や納税に関する議論に参画するなんてのが理解できないんです。
お礼
ありがとうございます。 仙術の喩え話と同様、出家すること自体、極めて非人間的なことだと思います。 親を捨て、妻をめとらずに、俗世間の一切を割愛して修行に没頭するなんてのは、極めて非人間的なことです。 そこまで非人間的な選択をしてでも、悟りを開きたい、今生のうちに悟りの境地に至りたいと言う一心で出家という大英断をされるわけです。 ですから、俗世間の復興構想などにかまけることなく初心貫徹して欲しいですね。