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文法と東洋思想

「時制の一致」に拘りますと、 どうして、「混沌」を受け入れ難くなるのでしょうか。

みんなの回答

回答No.8

階層的な秩序は混沌を壊し…

  • _AXIS_
  • ベストアンサー率11% (2/17)
回答No.7

>高い自由度に起因する意外な展開(混沌)への順応が妨げられ得るのではないか、と考えています。  西洋の文法など難しいことは知りませんが、そういうものなんですか。  しかし意外な展開 と 混沌 は同じではないと、なんとなく思うんですけど。

WhoAreNotYou
質問者

補足

返事を頂きまして嬉しく思います。 ばらばらの動作主達の行為を主語無しで直列させられる表現は、時制の一致が介在していますと、難しくならないか、と思っていました。

  • _AXIS_
  • ベストアンサー率11% (2/17)
回答No.6

尊敬、感謝などの念は自然と湧き上がるものですね。 まあ、そうなる人がいたとしてもなんとも思いません。 人は神に感謝するが神は人に感謝しない いや、感謝尊敬などの念から抜け出ているのではないでしょうかね。

回答No.5

 ま、理屈などどうでも良いことですね。  確かに体感しているとかえって理屈が分からないという事もあるでしょうね。  確かに教祖や宗教組織への忠誠からの話は、教わる事はあまり、というより全くないでしょうね。  それは論理演繹の操作や概念の算数操作で何かが得られると信じているのも同じですね。  そういう知性はどちらかというと、結論を跡付けして論証していくのには機能しますね。  物象事項の五感や経験などの次元でさ迷いあるくことも空しいときがあるようですね。まぁ自然科学や知的科学は別でしょうが。  教祖様からも決して教わることにはならないですね。その宗派で精進して行こうとしている人は有益だとおもうでしょうが。  そんなもので、どの何何教に入信するなんて、まぁいろんな動機と経緯(いきさつ)、契機がありますね。  まぁそれもみないいのではないかと存じます。でも何かそこから自分も得たいということは無理でしょう。  あぁ多様だな、正に世界は万華鏡だな、でいいでしょうね。そして尊敬し、感謝し、祝福して差し上げている。  そんなものでしょうね。

WhoAreNotYou
質問者

補足

日本語の文章だけでなく、ハングル語の文章の中にも省略が見られますが、ハングル語の場合には、日本語による表現と違い、直列繋ぎによる複雑化が余り認められ難い、と思われますので、共通性を考えてみたいですね。

  • _AXIS_
  • ベストアンサー率11% (2/17)
回答No.4

ま、理屈などどうでも良いことです。体感して分かっていればかえって理屈は分からないと言うこともあります。 少なくとも宗教組織に所属している人から教わることは一切ありません。教祖様は教える立場であるからそれは別として。

回答No.3

 ANo.2  西洋的知認世界では時空の観念的世界を構築することでしょうが、それは一つの自己の世界でしょう。  カオス・混沌は受け入れるのではなく、入り、超越経験する世界です。  混沌とか・カオスというとまぜこぜや混乱、めちゃくちゃのようですが、一切のあげつらいや波風がない世界ですので、人間とその世界という枠つくりのなかではむりでしょう。  私は中国的東洋、南アジア的東洋のことなども二十歳代では少し本格的にアプローチしてすこしは勉強させてもらったが、大きな収穫はインド、ヒンドゥでしょう。  これは30代から40年ちょいとかかっています。  Self-Realization Fellowshipでのバガヴァッド・ギータや英語レッスンは有効でした。

回答No.2

 人がその能力と意識で知認経験し、認識するということは、人の知認経験の能力と意識での世界の事柄であり、その原理と法則そしたカテゴリなる介在用具によるのでしょう。  それは人の能力と意識にとって明白性を求めることなのでしょう。  混沌ないしはカオスとはその以前の存在であり、人と人の世界を含んだ世界でしょう。  自制は人の概念が創出している観念であり、カテゴリなのでしょう。  ならばカオスや混沌を時制の中で整理つける事は無理なのでしょう。  もとももとがカオス・混沌はそういう存在・世界を指示したい思いから人がことば表現しているのでしょう。  人の能力も意識も、知的把握の世界では全く存在すら前提にできないのでしょう。  東洋思想と仰せだが、東洋思想というのも多様で、その中のヒンドゥ思想も多様以上に一つです。  中国やその他の東洋思想も、理論文明が有価値性を認めていなくても、厳として存在するものです。  一把一絡(いっぱひとからげ)での表示はいかがなものかと存じます。  文法の論理性は西洋的ですが、東洋では認識はあくまでも為る。天の認識は天になるということでいきます。  創造が創造を認識し創造するためには創造に為るというのと同じです。

  • _AXIS
  • ベストアンサー率5% (2/40)
回答No.1

よく分かりません(T_T)

WhoAreNotYou
質問者

補足

すいません。 言語生成の多様性の原因についての疑問を、 このページでお尋ねしたつもりでいました。 西洋的な時制の秩序に囚われた状態で、 言語が出来上がっていきますと、 間接話法の様な階層構造からの脱却が難しくなって、 高い自由度に起因する意外な展開(混沌)への順応が妨げられ得るのではないか、と考えています。