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【教えて下さい】以下の文章について解釈願います、特に後半部。
エクリチュールがパロールや現前の根源性よりも根源的であることを証明することができる。その形式的性格として、あるマークの非本来的な文脈中での、あるいは無意味な反復の可能性、分割可能性、あらゆる意味で死を含む遺言の構造、等を挙げることができる。これらの性格は音声言語も本質的に共有するものであり、またこれらの条件なくしては音声言語も意味も論理も可能ではない。〈中略〉差異の痕跡が織り成すテクストの効果だと考えなくてはならない。パロールはエクリチュールである。従って、両者は対立関係にはない。エクリチュールは、起源・同一性・一者・現前を効果として可能にしつつ、その根源的支配を根源的に不可能にする。同一性の透明な全きの現前とは、自らの足枷となる差異と、差異に捕らわれているがゆえの遅れ(差延)を跳びこえようとする目的論的な自己肯定にほかならない。// 宜しくお願い致します。
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こんにちは。 ディフェランスと言えば ふつうは《差異》を表わすということですが そこにもともとの《遅れ・遅延》の意味を織り込みたいということで 《エクリチュール》として《 differ a nce 》と書くのだそうですね。 でもこうは考えられませんか? ディフェランスと発言したあと その綴りを エール・ウ・エンではなく エール・ア・エンだとことわっておけば何の差し支えもないのだと。ゆえに――この限りで―― ▲ パロールはエクリチュールである。従って、両者は対立関係にはない。 ☆ ただし 文字資料は ふつうでも薄れがちな記憶をおぎなう有用性がありますが。 ▲ エクリチュールは、起源・同一性・一者・現前を効果として可能にしつつ、その根源的支配を根源的に不可能にする。 ☆ このエクリチュールをパロールと同じとして読むと 《ことばは》という主語になるということですが ここでは どうもこのエクリチュールはすでにディフェランスしかも《差延》の意味のほうのそれを指し示しているようです。 しかも おそらく言葉をとおしてその差延の作用ははたらくのだと思われます。 どういうことか? 存在者の《起源》は 如何様のあり方なのか? 《わたし》の《同一性》とは どのように保障されているのか? 相対的な存在である人間の《起源や同一性》を明らかにするには どうしても《何ものにも媒介されない〈一者〉》を媒介させる必要があると考えられるが いまそれでは《エクリチュール=差延》をもととして捉えるなら どうなのか? わたしの自己同一性そのものが《現前》するのか? それとも何ものか一者を媒介しておのれを代理する別の何ものかにおいて現前するのか? ▲ エクリチュールは、起源・同一性・一者・現前を効果として可能にしつつ、その根源的支配を根源的に不可能にする。 ☆ 《効果として可能にしつつ》とはどういうことか? 《その根源的支配》とは何か? 《その根源的支配を根源的に不可能にする》とはどういうことか? わたしの解釈では こうです。 デリダはソシュールの《言語記号の恣意性》説にもとづき《すべては――世界のすべての存在ないし現象は―― 差異の体系である》と見てのごとく・ただしそこに《時間》の要素を含めつつ 通俗的に言って 《すべては〈ずれ〉として成っている》と言おうとしているのではないか? 存在の起源は 存在の片や自然性と片や言葉を使用する文化性とのずれである。 わたしの同一性とは それを問うわたしと 同定する対象としてのわたしとのずれであり そのずれなる差異を埋める差延のはたらきそのものとしてのごとき時間動態であると。 《一者》は要らない。 《現前》は これも《ずれ》としての過程的な現象そのものであると。 このような存在のあり方は 《根源的》なものであり そこでは《エクリチュール=ないし差延》が《根源的に支配している》。しかも同時に この《根源的な支配》は 時間過程として成り立つからには 《絶えずその静態的な支配形態というようなものをみづから不可能にしつつすすむ》。 ただしここで ▲ 同一性の透明な全きの現前とは、自らの足枷となる差異と、差異に捕らわれているがゆえの遅れ(差延)を跳びこえようとする目的論的な自己肯定にほかならない。 ☆ という見方は どうなのか? 差延作用を跳び越えることは出来るのか? 言いかえると 言わば《ずれ》のない自己同一性とは 実現可能なのか? ここからはわたくしの評言のみになりますが デリダは間違っていると考えます。 たとえてみれば人間を《自己到来におけるずれの過程をあゆむ当体》だと仮りに言ってみるとき この《当体》とは何を言うかを考えることになります。 ▲ 差異の痕跡が織り成すテクストの効果だと考えなくてはならない。 ☆ と言う場合には この人間としての当体も 《テクスト(言葉のいとなみ)とテクストとの関係》としてのみ存在すると見ています。テクストの当体としてのわたしの中にもずれがあるが 人間としてのテクストどうしの間にもずれがある。このずれの関係で世界は成っているし その関係以外は世界に何もないとなります。 そうではないだろうと見ます。 《当体》には わづかに自由意志がある。モノの関係世界そのものの中に 時間的なずれのほかにも わづかにわたしの志向性がある。《こころ》と呼ぶ現象であり 元にもどって意志行為です。 たぶんこの自由意志の自由性や如何にという問いも出るはずです。モノとコトの世界関係にわづかに 窓がついている。ここから――差延を跳び越えるがごとく――外へ出かけるわけには行かないが それでも窓なのであり 窓だけとしてでも こころにはそのなぞがある。 という見方によって 批判したいと考えています。 そうすれば《ずれ》は どうでもよいと捉えることができるからです。過去や未来のわたしとのずれも どうでもよいと見ることができるからです。いま・ここなるわたしのほかの かの時かの場所のわたしは 窓にまかせておけばよいわけです。そうすることで 現在のわたしに集中することができ その意味で自己同一性に到ることができます。 永遠の現在というわけです。 また わたしとは 《わたしは》と名乗るその当体のことを言うと規定しておけばよいはずです。その中に 世界のすべて・時空間のすべてを押し込んでおいてもかまわないと思います。矛盾をも容れておいてよいのではないでしょうか? そしてそのほうが 《ずれ》はないのです。《マーク》をわざわざ取りだす必要はないだろうという意味です。 これなら 《わたし》たちは 互いに話し合うことができると思うからです。《マーク》を取り上げてうんぬんし出すと もうそこからは茶の木畑に入ってしまいますから。現代哲学は デカルトからでしょうか 要素ごとの分析が三度の飯よりも好きなようです。 * 先行するご回答との照らし合わせは 割愛しました。あしからずご了承いただければさいわいです。
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- heartmind
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書き言葉と話し言葉は限りなく近づくよってことです。 古代から人間は何かを生産しようとした時に、ただ眼前のものをがむしゃらに生産しているのではなくて、頭で設計図を作ってからやっているよね。設計の技法は、他の多くに伝えるためにいろいろ工夫されてきた歴史があるよね。 話し言葉にこだわって書き言葉に反抗することはそれは裏を返せば、ある意味それを理解しようとしていることだよね、だからどっちもどっちってことだよねってことです。
- amaguappa
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No.1さんはいしいひさいちに勝るとも劣らぬ!? 参考になります。面白かったです。背景には付け加えることはないのですが、、、 エクリチュールは刻み込まれた書字として、メソポタミアの石板よろしく空間占有的にありつつ、被利用体、被参照体として、そのつど言語の現前に時間的なはたらきかけをおこなう。その意味で、支配的な静態はパロールに仕えることによる動態において存在している。 エクリチュールという刻印運動が、わたしたち存在者にたいしてそれそのものとして、モノリスよろしく自立的に明証性をもってあらわれるとすれば、空間的認識にたよらざるをえない性質と、動態への巻き込まれによって何時でも〈いまここ〉であらんとする性質とを、すでにあらわれたモノリスであるという視点の側から都合良く認知したにすぎない。 経験的に言ってよろしければざっとこのような解釈でよろしいのでは。
訂正 wedern X werden O
デリダかな? 解釈 第1部 フランス人と日本人に共通の問題は、理性が希薄であるということ。 書き言葉にコンプレックスをもっていること。 性にだらしがない(pervers)ということ。 反省が出来ないということ。 性格は、ある意味誤訳です。Character は、哲学用語であり、一義的には、文字も意味しています。ここでは、エリクチュールを原型とする、メタキャラクタを含む範疇的限度類型=「固着・蒸着に成功した結果」としての「論理言語キャラクタ」です。 この4つの事項・前提条件を背景に解釈するとすると。 エリクチュールは、既存家父長的権威とそれを正当化するフォーマットのこと。 伝統的に説明すると、フォルマ=質料的考察を考慮に入れるとすれば、無意味な反復の可能性、 分割可能性、 あらゆる意味で死を含む遺言の構造 は、形式的キャラクター=諸所のGenusと範疇化することが可能であり、 ゆえに、書き言葉に関し「伝統の本性」を潜在的選択肢として、内在していることになる。 注 対案としては 口語論的におじじの「のび/なぎ」を参照すること。 神話的解釈をすると、書き言葉=象徴的印章=マークが、「神話構成要素の骨子」をなすスペクトラム(可能帯域=デュナミス)を構成することになる。 神聖=神性を神話の根源的自由=ポテンシャルを解釈するとしたとき、書き言葉は、時空を超えうるという観点から、話し言葉(ホライゾン・ポリティクス)より根源的であるということが出来る。 以上中略まで 第2部 差異の痕跡が織り成すテクストの効果 こちらは解釈によってとり方が変わってくる。 フランス人と日本人は、口語が大事という癖があるので、それなりの歪を考慮に入れてください。 普通、象牙の塔だけで通じる屁理屈では決してない「学的意見」として解釈すると、 差異の痕跡は選択的に決定されるというべきところをあえて、恣意的であるという含みを持って叙述しています。 「なくてはならない!」とモディファイしているところが味噌ww パロールというのは、政治的スローガンの意味も含むフランス語で、フーコーの口にする「ことば遊び」です。パロールは、心理学的視点から現前・前衛的であるという意味において計測+記録可能なエリクチュールの一種であるという「主張」です。アリストテレス的解釈をするとすると、パロール=人的行動と関連付けられた「口語中心主義的言葉」こそ、リアルな「実語(エネルゲイアー=実現としての言語)」ということになる。 さらに、権力関係=支配連関を逃れることが出来ない。つまり自由はないという学派に対し、反論する意味合いで「反フーコー論」が「主張」されています。 過去性の言語=フーコーの述べる「学的考古の体系的発掘」と現在性の言語=若者言葉を含む「生きた言葉」は対立関係にはないとしゅちょうすることで、フーコーに反論できた気になっている。 エクリチュールは、起源・同一性・一者・現前を効果として可能にしつつ、その根源的支配を根源的に不可能にする。これは過去生徒現代船の対立の中で、常に現代が存在しているということを主知・主張したいところでしょう。 しかし、現代は、意識の業により、過去から逃れることは出来ない。神話は、語り継がれるからです。 同一性の透明な全きの現前 アイデンティティーの「存在(ザイン)=esse」が、「有用性(interesse)] という範疇に存在するのではないということをトランスパレンツ+トータリティーという言葉を混ぜ込んで説明しようとしていますが、根拠がありません。主張です。 当然結論として、 「自らの足枷となる差異と、差異に捕らわれているがゆえの遅れ(差延)を跳びこえようとする目的論的な自己肯定にほかならない。」と主張してきますが、 書き言葉・権威が嫌いなだけ。とにかく従いたくないという権威主義です。団塊のたわごと。団塊はデモ他人を従わせたくて仕方がない。 学的には・・・ 存在の現前つまり、 現在性・前衛性は、心理学的にみて、人体の限定性「Corpus」を例に出すまでもなく、生物的に「形式化された運命」によって決定づけられています。 同一性の透明なまたき現前は、如来です。「Thus kome one」。キリスト教の神ではないし、天才的超人でもない。 現前的には、「wedern」生起=「かくたる者に至るべし」という未来性なのですから。 目的論的な自己肯定は、フランス人と団塊世代日本人だけに納得の行く論理展開でしょう。アイデンティティについてはJudith Buttlerを参照してください。
お礼
ありがとうございます