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責任の概念
責任とは何でしょうか?また「責任を取る」とはどのような行為または状態を言うのでしょうか? 法律学をかじったことがありますが、そこでは責任とは、自己の行為の結果を弁識し、行為を制御しうる状態と定義されていました。 これは自由主義イデオロギーからくるもので、無過失責任を認めないという趣旨の定義です。 ですが、社会では責任概念はもっと広くかつ曖昧な意味で使われていますし、無過失責任を取らざるを得ないこともしばしばです。 一体、この捉えどころのない概念で成り立っている我々の社会とは何なのか、毎日首を捻りながら暮らしてます。 皆が口にする責任とは、何なのでしょうか?切り口は様々でしょうが、どうか思うところをおっしゃって下さい。
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- hamakkotarou
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次には同じことが起こらないように自分を成長させておくことではないかと思います。
- ENERGEIA
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信頼を確立するまでの方便として法や責任などの概念を使うと言うのは間違ってますね。 むしろ 法や責任などの概念を用いることにより不信感が増すと考えられます。 いずれにせよ 現代社会は 契約関係で成り立っている のは言うまでもありません。
人間社会はお互いに信頼しあうことで成立しています。信頼という言葉は他者を認めて信じるということです。肉親関係では大抵これらは無条件で成立しますが、付き合いの無い人間同士の信頼関係はすぐには成立しません。そこで社会契約としてお互いに責任を取り合うという形で信頼関係を作ります。責任というのは信頼の裏返し、人工的な信頼のつくり方のひとつとして考えられたいわば強制的な”くびき”なのでしょう。人工的ですからもろく、破綻もあり、嘘や裏切りも発生するのは成り行きです。そのために責任をより強固にするための倫理的なきまりをつくり、更には法律などで補強してきたというのが人間の歴史だったのだろうと思います。無過失責任もその過程で生まれた理不尽だと考えれば納得が行くのではないでしょうか。 ご参考まで。
- ENERGEIA
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訂正: 誤:日常でも、「無過失責任」を取ることは現実問題としても、理論上でも ない が答えとなります。 正:日常においても 「無過失責任」を取ることは、現実的にも、理論上でも ない が答えとなります。
- ENERGEIA
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http://dictionary.infoseek.co.jp/?sc=1&se=on&lp=0&gr=kj&sv=KJ&qt=%C0%D5&qty=&qtb=&qtk=0 http://kotobank.jp/word/%E8%B2%AC http://dictionary.infoseek.co.jp/?sc=1&se=on&lp=0&gr=kj&sv=KJ&qt=%C7%A4&qty=&qtb=&qtk=0 http://kotobank.jp/word/%E4%BB%BB 本来は、これ以上も これ以下の意味も 無いでしょう。 責任がある と自分や他者に対して言うなら、その人に、起こったことの原因が確実にある と考えなければなりません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%A4%B1 (引用)日常用語としての過失(かしつ)とは、誤りや失敗のこと。 法律用語としての過失とは、ある事実を認識・予見することができたにもかかわらず、注意を怠って認識・予見しなかった心理状態、あるいは結果の回避が可能だったにもかかわらず、回避するための行為を怠ったことをいう。(引用終わり) http://kotobank.jp/word/%E9%81%8E%E5%A4%B1 過失責任はありえますが、無過失責任は、言葉の意味からして矛盾しています。日常でも、「無過失責任」を取ることは現実問題としても、理論上でも ない が答えとなります。 U:無過失責任を取らざるを得ないこともしばしばです。 これは、認識の誤りでしょう。
- tumaritou1
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参加させていただきます。責任という概念を持ち出すまでもなく、自分の人生には今も、昨日も、明日も、或いは何年後であっても自分の姿が自分の考えたり、行動した結果です。否応もなくしたことの結果が全て自分に振りかかってきます。 そうした場合、暮らし向きであっても、自由さであっても、ストレスをためたり、貯めないということでも、全て自分が決めていることになります。そういうお互い様?言い方を変えたなら、お互いに全て自由に自身で決定して行動できる範囲の自由の中でも、かなりの個人差が出ていると感じます。 その差がどこから来るのかを考えた場合、能力は確かに皆が違っていますが、能力を超えた能力が関係するような気がいたします。それは世の中の原理原則がわかるかわからないかで違ってくると思います。 世の中を働かせている原理原則のことです。或いは人間一人ひとりを働かせている原理原則といっても同じことですが、それは私なりの答えですが、あてにしないで努力をするという感じがします。何をしても期待しない心のことです。何をしても何にもならない、ということです。 何にもならない人生を、期待をしないで、夢を持って楽しく生き抜く。或いは命を惜しんで、命を大事にしながら、命を惜しまない(執着しないの意味)。言いたいことは矛盾したことを矛盾したまま受け取るということです。 お金は欲しがらないで、ただ働く時に手に出来る。或いは地位や名誉は欲しがらないで、やるべきことをやってゆく。そうして欲しがらない時に「本当に欲しいものが手に入る」という矛盾をした生き方の意味が分かる事が。無病息災に生きるということになるかと思います。 自分の責任が全て自分にあると思えることが、人間としての自覚と思います。良い事でも、悪い事でも、逃げることを考えないようになるという意味になります。全てをありがたく頂くという意味になります。
- 雪中庵(@psytex)
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物体に本質的な目的(価値性)はありませんが、それゆえエントロピー増大=淘汰として、常に生物の目的を「生きること」に収斂させます。 それは、個人の意識において、「意志の達成=充足の追及」となります。 つまり、「人生を通算した精神的充足量の最大化」のみが、本質的目的です。 ところが社会生命たる人類において、個人の生は組織性に依存するので、肉体に付属した感覚器官に基づくので自己中心性を持ちがちな意識とは、以下のような点で齟齬を生じがちです。(しかし社会生命的自覚(愛)において「自己の充足」と「社会の繁栄」は一致する); 1.「人生を通算した充足量」を構成する関数は、欲求の強さや達成率だけでなく、それを感受する上で「認識の深さ」が大きな要因であり、麻薬的な感覚的快感とは反対の方向性を持つ。(意味的深さ) 2.「人生を通算した充足量」を目指す上においても、「認識の深さ」によって人生全体を見通し、短絡的衝動をコントロールする必要がある。(時間的長さ) 3.分業化や組織化において人が社会性をもつにつれ、自己の生存の成立に、社会全体の活動が必須となり、真に「利己的」であるには、社会全体の自己の肉体と同等の自覚化(他我化=愛)が必要となる。(空間的広がり) こうした「自己の肉体の外における『人生を通算した充足量の最大化』の要因=社会行動」を自覚的に行なわずに、政治(法規)や経済(お金)、宗教(善悪)、慣習(正義)、など、他律的に行なう時、そこに先入的価値(責任、義務)が生じるのです。 社会性の発達において、他律的方法論をとったという事は、自発的な意思によって生きていない=「精神的充足量の最大化」という真の目的において、人類は退化しているという事です。 いわば善悪や正義といった既成概念そのものが、「自律的生存=社会生命的自覚化」を省略して自己チューなまま安易に社会化する社会システムのための、必要悪です。
法律も哲学もまともに学んだ事は無い者ですが。。。 >責任とは何でしょうか? >また「責任を取る」とはどのような行為または状態を言うのでしょうか? ある行為(1)を自分が行ったとします。 その行為の結果、何らかの「変化」が起きます。 その変化に対しての「対応行為(2)」を行う事。 これが「責任を取る」かしら?と私は思います。 >無過失責任を取らざるを得ないこともしばしばです。 こちらの場合も、 自分に「過失は無い」けれど、過失の有無に関係無く「変化」は起きている筈です。 その変化に関わって「今迄と違う行動(3)」を迫られる人が必ず居ます。 その行動(3)に伴うその人の労力に対しての「心遣い」と言う意味で「責任」と言う言葉を使っている、かな。 こちらは具体的な行動/行為を伴わない事もある、かな。 心遣い、の方が遥かに曖昧で定義し辛く、ビジネスの場等にはそぐわないから、と言う理由での「責任」ではないかしら。。。と考えてみました。 自信の無い投稿をお許し下さい。。。