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N.ルーマンの「意味」概念の意味についての質問です
N.ルーマンの「意味」概念の意味が、よく分かりません。 ルーマンは「複雑性の縮減」という概念を、「意味の連関による、縮減である」と説明しましたが、 その際の「意味」の意味、すなわち「意味」の役割がよく分かりませんでした。 私の持っているテキストの解説では、 「さまざまな選択可能性(複雑性)に開かれた人々の相互行為は、『意味』の連関によってより確かな状態に近づく。」と説明されており、 「意味」は、「適切orありえない」を区別する基準の役割を果たすとされていました。 この具体例として、 夫婦二者間の朝の挨拶のやりとりがあげられていました。 夫が朝起きてきてから、妻に「おはよう。」と言った後、 妻の答えが「おはよう」、「朝ごはんよ」、無視などの場合は、「ありうる(適切な)」了解可能の答えとされ、 一方で、「両生類」と答えた場合は、「ありえない」了解不可能な答えとされるそうですが、 なぜ「両生類」と答えることが、「ありえない」了解不可能な答えとされるのかが分かりません。 確かに常識的に考えれば、朝の挨拶に「両生類」という言葉が出てくるなど、 余りにもバカバカしくて考えられないことではありますが、 もし、この夫婦が「両生類」という言葉に朝の挨拶代わりとなる何らかの別の意味を付与していた場合、 妻の「両生類」という返答は、「ありうる」了解可能な答えとなるのではないかと考えられます。 このように考えるうちに、「意味」のもつ「適切orありえない」の選別機能の意味がよく分からなくなりました。 相互行為のうちで、ある行為に対する応答の行為の選択肢が縮減される際の基準とされる「意味」の役割とは、 一体どのようなものなのでしょうか? すなわち、「意味」が選択肢を縮減するときの「適切orありえない」を選別する基準とは一体何なのでしょうか? 客観的・普遍的・論理的なご説明が可能な方が、ございましたら お教え下さいますよう、宜しくお願い致します。
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- ghostbuster
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> 相互行為のうちで、ある行為に対する応答の行為の選択肢が縮減される際の基準とされる「意味」の役割とは、一体どのようなものなのでしょうか? わたしたちを取り巻く世界において、ものごとのなりゆきや、人びとの行為は、現実となりうるよりもはるかに多様な――ほとんど無限ともいえるほどの――可能性がつねに存在しています。どのような人も、このような世界の極度の複雑性と、無媒介的に対峙することはできないでしょう。 ルーマンのいう「複雑性」というのは、単に世界が複雑であるということではなく、わたしたちに選択を迫る体験や行為の可能性が無数に存在する、ということです。 世界はコントロールの及ばない複雑性へと拡げられており、わたしたちは各々の任意の時点に、様々な行為を選択しなければなりません。けれども選択をなそうとすれば、体験や行為の無数の可能性を秩序化していく必要があります。そうして、意志決定によってひとつのものを選び、それ以外のものを排除します。それが「複雑性の縮減」ということです。 この秩序化がどうして可能になるのか。その秩序化の前提となるのが「意味」です。 わたしたちが環境や他者、自分の体験や行為を意味づけ、秩序化することで、わたしたちのつぎの選択が可能になります。そうして一定の戦略にもとづいて、多くの可能性のなかから限られたものを選び出し、ほかのものは否定することによって「複雑性」を縮減します。 おそらく > 「意味」は、「適切orありえない」を区別する基準の役割を果たすとされていました。 というのは、このあたりのことを言っているのだろうと思います。少し縮減されすぎていて(笑)、かえってわかりにくくなっているような気もしますが。 一方で、この「意味」には「複雑性の維持」という、逆の機能もあります。 一度選択した行為の結果が期待はずれに終わった場合、わたしたちは「別のこともできたはずだ、つぎはそうやってみよう」と考えます。つまり、ここで、以前「否定」された可能性は、完全に消去されてしまったわけではなく、カッコに入れられたにすぎません。そうして、別の選択肢のよりどころとなっていきます。 けれども、このような選択は無数に重ねられ続け、わたしたちの意識は、それをすべて保持しておくことはできません。そのとき、わたしたちは体験や行為の可能性を意味づけ、維持することによって、選択の助けとしていくのです。
こんばんは。 たとえ両生類という言葉が朝の挨拶に出たとしても、意味の連関を特殊に求めることは可能でしょう。夫婦仲が冷たいとか、登場人物が、自宅と勤め先で極端な生活のギャップを持っていたり、仮面を使い分けている場合に、日頃それを気にしている妻という前提を特殊に見て、両生類と喩えて発話することは、あり得ないことではありません。ただ、意味の連関を、特殊な条件を除いて、とするなら、まさしくそれを除いたことによって、縮減が行われるでしょう。ですからこの場合の意味とは、通常の意味連関ということであるのでしょう。特殊な事例を求めない場合は、それで複雑性の縮減が行われるからです。