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やっぱし無意識の概念は要らないのではないか?
(α) 《意識にのぼっていない記憶野における情報》もしくは《潜在意識》と言えばじゅうぶんではないか? (β) これは 無意識という概念ないし領域を想定する必要すらないと言おうとするものです。 (γ) 《アーラヤ識》も 同じくふつうの《記憶》ないし《潜在意識》という用語で足りるのではないか? (δ) 第七識のマナ識は もし仮りに《意志》と言うならそういう精神のひとつの行為能力である。《自我執着心》と言う場合には その種の意志の発動となっている。自我つまり私に執着しない〔で《わたし》たちを生かそうとする〕ふつうの心としての意志もある。 このような(α)から(δ)までの問い求めは つぎのヰキぺの説明内容をさらに深めつつ明らかにしたいという趣旨のもとにあります。 ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98 フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、 20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 思想や芸術への影響のうち要らない部分・まちがいの部分を明らかにし 捨てるべきは捨てたいという趣旨です。 (ε) さらにヰキぺの記事のうち つぎのチョムスキーの生成文法仮説〔そのうちの用語法のほう〕にもうたがいを持ちたいという魂胆です。 ▲ (ヰキぺ:同上) ~~~~~~~~~~~~~~~ ノーム・チョムスキーの生成文法は、人間の大脳に、先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっていることを主張している。 子供は成長過程で、有限数の単語を記憶する。単語は、単語が現われる文章文脈と共に記憶される。しかし、子供の言語生成能力は、それまで聞いたことのない文章、従って、記憶には存在しない文章を言葉として話すというところにある。「記憶したことのない文章」を子供が話すということは、それは記憶ではないのであり、それではどこからこのような文章が湧出するのか。 それは「意識でない領域」、または「無意識」から湧出するのだと言える。チョムスキーの考えた普遍文法の構造は、無意識の領域に存在する整序構造である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《記憶という行為能力は みづからの領野としてそれじたいに秩序作用とその構造を持つ》と考えます。《おぼえる》とは《その知識や情報じたいをととのえる》ことだと考えます。 おぼえたものを想起しそれらの知識要素を筋道立てて推論に用い最終の判断のための材料を用意するのは 《知解》というもうひとつの精神の行為能力だと見ます。これに判断をくだすのは 《意志》という能力行為です。 精神(ないし心)は《記憶・知解・意志》の三つの行為能力から成るという見立てです。社会形態における役割になぞらえれば 順に《司法・立法・行政》に当たるという見方です。 ここでも《無意識》という領域を単独分立させる意義はないと見ますが どうでしょうか?
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なるほど、よく整理されていますね。 (α‐1)に関してはbragelonneさんは無意識という言葉は潜在意識に言い換えよう!というご提案かと思います。これは、定義の問題にすぎませんので、そういう先進的(?)、身勝手(?)な表現は嫌だ、といわれたら、その人とはそれで議論終了です。 無意識という言葉は良く使われるので、私的には、どちらを使ってもいいというのが融通が利いていいと思います。また、「やっぱし無意識の概念は要らないのではないか?」に関してもおかしい。無意識の「概念」は要らないのではなく、潜在意識の概念に置き換えても、必要ということではないかと思います。 (α‐2)イエス。大脳新皮質が記憶を司り、性欲などは旧皮質ですから、記憶野だけでは、無意識を全部カバーできません。 (γ‐1) >>>《ふつうの記憶》は むろん《意識化された情報》を含みます。そして《意識されていない情報》をも含みます。>>> (α‐2)へのコメント参照。 (δ‐1)自我つまり私に執着しない、、、というところが単に一般的ではないとおもいます。これは定義の問題なのですが、私は、「私に執着する潜在意識」が第七識のマナ識であるというのが一般的だと思います。 私は長い議論は避けたいので、よほどのことがない限り3度目のお答えはありません。
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オコリザルです。 そう言えばこんなコメントを何度かしましたね。 哲学で心や感性の話を題材とする時は「我は第六感をもって霊験を成しうるか」このような問いになる。 これは明らかに問題です。 これ自体は仏教観念の専門家が多い日本の哲学の特徴なのですが、今のところ後進性ですよ。 さらに言うならば、心を題材に扱うと心理学から話をもってくるのも問題でしょう。 無意識と題材を象徴化しないで、アラーヤ識とか、イデアとか、普通の言葉で以心伝心とか、非思考の内側としての信仰心とか、哲学分野に還元しての問いかけは確かに望ましいでしょう。 どんな言葉を使っても問いかけの内容に関しては自身の内面からの探究ですから、質問にする時はマル投げ姿勢では無く、「私は自らをこうとらえる」とした前提が無いと他者の内面を伺い知ろうとする情動が生じて話がもつれるでしょう。好き好んで情動のもつれを誘発する痴漢常習者が跋扈する事となります。例の誰かさんとはそろそろ縁が切れそうですが。
補足
オコリザルさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。たとえば。 ▲ (ヰキぺ:阿頼耶識) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98 ある人の阿頼耶識は、蔵している種子から対象世界の諸現象〔 現行(げんぎょう)法 〕を生じる。またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象〔 熏習(くんじゅう) 〕を与えて種子を形成し、刹那に生滅しつつ持続(相続)する。 この識は個人存在の中心として多様な機能を具えている・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということですが そしてまた《第六感》もこの《種子》のはたらきに対してきっかけと成るというのですが けっきょくこれは精神の行為能力であり 特には記憶の領野と見てよいのではないかと単純に考えます。 《種子(しゅうじ)》というのも 現象やひとの行為のきっかけとなるというのだとすれば これも 《身体=精神》の存在全体で相手との関係やその情況との接触関係が やはりきっかけになると捉えて不都合はないように考えます。 つまり アーラヤ識という特別の領域やはたらきを想定する必要がないのではないかというものです。 もしかの《仏性》が このアーラヤ識に宿るのだとすれば そんな言い方をしなくても 人間存在の全体――生命にしても 身体にしても精神にしても その全部としてまとめた存在――に宿ると言えばむつかしいことはないと思います。 ですから もしそうだとすれば 《さとり》にしても 別にアーラヤ識においてどうのこうのと言う必要もなく ひととして全存在で得たと言えばいいぢゃないですか? 意識しているかしていないか それはふたつに一つでしょう。しかもそのふたつの場合をまとめたものが 精神の現象でしょうし 《わたし》の動態過程だと思われます。なぜここで《無意識》という領域を設定してそこが特別の役割をになうというふうに見なければならないのか。 無意識がそれとしてはたらいたとしても 意識していたものがはたらいたとしても どちらにしても《わたし》の思惟や判断や行動の問題です。すべて――事後的にでも――これらをわたしの《意志》が引き受けます。(むろん 意志行為としておこなったことは その時点ですでに引き受けています)。 だったらこの《意志行為》としての成り立ちのほうに問うべき課題があると言うべきでしょうし 《意志》がすべてを引き受けるという見方に立ってこそ――ただし何も引き受けたから そのすべてを果たせというものではないわけですから 出来ないものは出来ないと認めるしかないのですから―― 問題のありかやその解決の仕方も明らかになってくるのではないかと考えます。 もともとそういう哲学的課題とその解法のためにわざわざ アーラヤ識などなどを想定したのでしょうから。 少々一方的でしたが。
オコリザルです。 A3.4のお礼に返事です。 もうそれぞれの学識なり検証能力なりの基づいて、それぞれに考えていい筈で見解の整合性に関しては何も問いません。 無意識に関する話についてはおバカさんを納得させるほどの証明がなされていないと言う現実を踏まえてまだ論議の余地があるでしょう。
お礼
分かりました。 たぶん フロイトやユングの出たのは――つまり 《無意識》が《発見》されたのは―― やはりデカルトのコギトからだと思っています。つまりそういう視点も有効なのではないかというものです。 ただしこれは まだ思いつきに毛が生えた程度です。 デカルト自身においてかあるいはその後の解釈においてか 《われ考える》は片寄ってしまった。理性が突出してしまった。 感性をも含めた人格ないし境地の問題が背景にしりぞいてしまっているように思います。 だから 自我や超自我あるいはふつうは潜在しているはずの無意識までもが 前面に出てきてしまった。しかも それぞれが 単独分立してしまっている。どれもこれもみな《わたし》というまとまった存在とその能力の部分部分でしかないと言うのにです。
またまたオコリザルです。 多分?だけど各種自我論との対比で無意識が引っぱり出されることが多いのではないでしょうか。 最先端の専門家はたぶんそんなことはしないでしょう。 公開された質問の場で悩みを打ち明けるよりも、いっそ医者に相談した方がいい様な質問もあります。 私は霊媒師体験経験者ですが、精神科医はその同類です。 心の内情を見据えた上で正しく分析してくれます。 治療には保険が効くし、重症なら障害者年金ももらえる。 最先端の心理学で分析可能な事柄なら医者に相談するのも選択肢なんです。それ以前の霊を前提にする問題外なら霊媒師の活躍です。霊のせいにしたら人間失格ですよ。保険も保証もない。そんな病人の意思が私に助けを求める限り私は霊媒師でした。お金にならないのでこりごりです。
お礼
★ 多分?だけど各種自我論との対比で無意識が引っぱり出されることが多いのではないでしょうか。 ☆ といった趣旨で 直前(No.3)でのお応えを書きました。 ★ 公開された質問の場で悩みを打ち明けるよりも、いっそ医者に相談した方がいい様な質問もあります。 ☆ 医者に相談する場合というのは――わたしの考えですが―― 精神的にも身体的にも一たん休みを取る必要があるときだと思っています。そこまででないならば 哲学で相当程度まで回復することができるとも考えています。哲学によっても 癒されることはありうると考えます。 ★ それ以前の霊を前提にする問題外なら霊媒師の活躍です。 ☆ たぶん哲学の用語を用いないだけで 精神あるいはつまりこころの中をととのえるということではないかと思います。記憶行為というのは その情報などをみづから秩序づけておぼえるものなのだと思います。この整理がうまく行っていないときに ひと(他人)もその交通整理のきっかけを提供しようとつとめることがある。そういう役目であり位置づけになるように思いますが どうでしょう?
オコリザルです。 確固として私が私である事を了解したそれ以降の哲学において無意識の話は必要が無いでしょう。 そこに至るまでは、無意識論の無用を証明するためかもしれませんが検証材料にはなります。 個人が各々において無意識たる内面をもち合わせているのか? これはたぶん違うでしょう。 それなら涅槃やイデアの現代語であるのか? 哲学の原点ともかかわる問題で検証はまだ完結していないでしょう。 煩悩を含めて、知性が暴走する現象を唯識的なアプローチで解明しようとした私は、無意識とは個体に垣根を越えてつながりのある広大な無意識野の事を指して、それはイデア界などと変わらないとする見解をもっています。 精神の所在については心理学的研究より哲学の方が先輩かもしれませんね。 それでも心理学の最先端は見るべきものがあります。 心理学はそもそも何を探求する学問なのか? これがはっきりしないで、病人の面倒ばかり見ているかもしれません。 どうでしょうか
補足
オコリザルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ここ何日かのあいだは おたまさんとか言うひとが走っていますね。 ひまでした。 ★ 煩悩を含めて、知性が暴走する現象を唯識的なアプローチで解明しようとした私は、無意識とは個体に垣根を越えてつながりのある広大な無意識野の事を指して、それはイデア界などと変わらないとする見解をもっています。 ☆ イデアと言えば プラトンですよね? わたしは疎いので どうなんでしょう? 或る種の仕方で《気の世界》 といったところなのでしょうか? ★ 個体に垣根を越えてつながりのある広大な〔エーテルの流れる世界〕 ☆ そういうふうに見ていたのでしょうか? この古代人の見方を どうなんでしょう 現代人の言葉に翻訳するとどうなりましょうか? エーテルとか気とかは無いと言うでしょうけれど 概念としてひとの存在は 孤独であってそれは独立していると言える反面で 同じ生命存在として・もしくは良心および信教の自由を与えられた存在として 社会的な関係性を持つ。――こう捉えるでしょうか? そう表現するでしょうか? イデアは むしろこの関係性ですね。わたしの用語では。 もしこれでよいと考えるとすれば そのあとどうなりましょうか? まづ 《イデア》は 言葉やその概念のこととして単純に捉えればよいのかも知れません。 もしさらにそれでよいとすれば この言葉を知ったり使ったりおぼえたりするのは 精神そしてその行為能力である記憶や知解という領野でしょうから この場合には 《無意識野》を取り分けてひとり立てることも必要なくなるかも知れません。記憶の領野でじゅうぶんであるかも知れません。この点 どうでしょう? と言いますか わたしはこれでよいのではないかという考えで 問うていますが どうなんでしょう? 心理学は まづ例の《われ考えるゆえにわれあり》のコギトを持ち出してからは やはり《自我》という核か何か知りませんが わざわざ《わたし》に代えて立てましたね。もしくは 《わたし》の中核となる一部分としてでしょうか? でも これもわたしは わざわざそうする必要はなかったのではないか。こう思っています。《わたし》の一部に 何か執着心のような自我を据えたので これを高い位置から指導し管理するような《超自我》をさらに立てなければならなくなりました。そうして おそらくそれらからはみ出る部分は 《エス=イド(それ とか あれ という意味ですよね?)》に当てて ぜんぶで三頭立てとしたのですよね。 でも それらはすべて《わたし》です。自我も超自我も 特には《意志》という能力行為であるでしょうし わけのわからない分野としてのエスは 無意識でもあって けれどもやはり記憶という領野だと捉えてじゅうぶん間に合うと考えられます。 つまり このような意味での心理学ないし精神分析は 特別にそのように単独分立する必要がないようにわたしには思えます。 こういう問い求めになっていますが どうでしょうか? ★ 涅槃 ☆ は存在の全体 人格の全体にかかわる境地でありそういう人間現象なのだと思います。特に《イデア界》だけだとも思えません。また《意識・無意識》の全体を含めた《精神=身体》プラス《非思考という心の志向性》といったところではないでしょうか? 《わたし》の動態のすべてです。
- ga111
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>(α) 《意識にのぼっていない記憶野における情報》《潜在意識》と言えばじゅうぶんではないか? 《潜在意識》は言い換えに過ぎないと思いますが?記憶野における情報だけが無意識とは限らないので、これは厳密さを欠くかと。 >(γ) 《アーラヤ識》も 同じくふつうの《記憶》ないし《潜在意識》という用語で足りるのではないか? ふつうの《記憶》ではないですよね、それは意識化されたものを含むので。《潜在意識》はまた、言い換えに過ぎないか、また、言葉の定義の問題なので、その言葉を使う人たちの間での了承が得られるかどうかの話でしょう。 >(δ) 第七識のマナ識は 、、、ふつうの心としての意志もある。 意識化された食欲、性欲と意識化されていない食欲、性欲ではやはり違いがあると思いますけど。
お礼
ご投稿をありがとうございます。すべてを補足欄に書きましたので よろしくお願いいたします。
補足
ga111 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 全体としてどこかわたしの承知しているところと違っているので 照らし合わせていきたいと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >(α) 《意識にのぼっていない記憶野における情報》《潜在意識》と言えばじゅうぶんではないか? (α‐1) 《潜在意識》は言い換えに過ぎないと思いますが? (α‐2) 記憶野における情報だけが無意識とは限らないので、これは厳密さを欠くかと。 >(γ) 《アーラヤ識》も 同じくふつうの《記憶》ないし《潜在意識》という用語で足りるのではないか? (γ‐1) ふつうの《記憶》ではないですよね、それは意識化されたものを含むので。《潜在意識》はまた、言い換えに過ぎないか、また、言葉の定義の問題なので、その言葉を使う人たちの間での了承が得られるかどうかの話でしょう。 >(δ) 第七識のマナ識は 、、、ふつうの心としての意志もある。 (δ‐1) 意識化された食欲、性欲と意識化されていない食欲、性欲ではやはり違いがあると思いますけど。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (α‐1)は そのとおりなのですが? つまり こちらの観点に立ってみれば 《無意識の領域》を立てる見解のほうが わざわざ《記憶》からその部分領域を取り立て特定して《無意識》だと《言い換えたにすぎない》と思われます。これを 元に戻したいと言っているに過ぎません。 (α‐2)は おっしゃっていることが分かりづらいです。《記憶野における情報》以外に《無意識》ってあるのですか? (γ‐1) 《ふつうの記憶》は むろん《意識化された情報》を含みます。そして《意識されていない情報》をも含みます。つまりはこの意識されていないほうの部分を アーラヤ識は 《無意識の領域》の想定のばあいと同じように 取り立てて取り出したのではないでしょうか? わたしにしてみれば わざわざということになります。 《言い換えに過ぎない》という問題は すでに(α‐1)についての評言で述べました。先に精神分析やブディズムの側が勝手に しなくてもよいものを《言い換えた》という物言いです。 記憶の一部分の単独分立というかたちになってしまいました。 (δ‐1)は だからどういう問題があるのかがよく分かりません。欲望で《意識されたもの》と《意識されていないもの》とに違いはありますが だからマナ識にかんしてどうなのでしょう? わたしは このマナ識を広く《意志》ととったのですが 意識していない欲求や欲望でも 意識したものと同じように一たんは おのれの意志行為のもとに置かれます。 その処置を意志の欲するままに出来るわけではありませんが――つまり おのれのことを何事にも優先させているならその意志のもとで ものごとが思うようにうまく行くとは限りませんが―― 意識していようといまいと 事前に察知していようと事後に察知してこれをおのれの意志行為として認知することになろうと それが《わたし》の表現行為であることに変わりはありません。ということではないでしょうか? つまり欲求や欲望について《意識している・していない》には違いがある。この違いをなぜ ここで取り上げておられるのかが分かりません。
補足
ga111 さん ご回答をありがとうございます。 おおむね賛同をいただいたようですので 細かい点について述べることになると思います。 ★ 無意識の「概念」は要らないのではなく、潜在意識の概念に置き換えても、必要ということではないかと思います。 ☆ 大きく《記憶》の領野にあって潜在意識と呼びうる部分 これは《意識していない》わけですから《無意識》とも呼べる。こういう整理になると思います。 無意識という言葉を使っても何ら問題はないと同時に この無意識という言葉をひとつの独立した概念として扱う必要はない。ともなりますよ。 過去の意志行為の未実現(未達成)の結果が 《無意識》というあたかも別個の領域に蓄積されてさらにその結果 そのひとに思わず反動の力のごとくして衝動を起こさせる。このように記憶野の一部分が 単独分立して独自のはたらきをするという意味合いでの概念化は 要りません。 これは 簡単に言えば 《わたし》の意志行為の未整理によって その過去の時間が幾重にも複合してしまい 錯雑となっている(つまり いわゆる《コンプレックス》となっている)ところから 時には思わぬ行動に出ることがある。こういうことだと考えます。《無意識》を・つまり無意識だけを 特別の犯人と見る必要はどこにもない。こう考えます。 ★ (α‐2)イエス。大脳新皮質が記憶を司り、性欲などは旧皮質ですから、記憶野だけでは、無意識を全部カバーできません。 ☆ 《旧皮質》は 記憶野に入れるわけにはいかないのですか? 自分で調べますが。というより 《おぼえる》という記憶行為は 情報を秩序をもってととのえることだと捉えられますから 欲求にしても《おぼえ》ておけばよいわけです。その欲求を自分の意志によって扱いきることができなくても その手に負えないものとしておぼえておけばよいわけです。 その意味では《記憶》は ひとの身も心も そして世界のすべてをも さらにそして記憶じたいをも 記憶の対象とするはずです。問題はないでしょう。→(γ‐1)についても同じくになります。 ★ (δ‐1)・・・これは定義の問題なのですが、私は、「私に執着する潜在意識」が第七識のマナ識であるというのが一般的だと思います。 ☆ おそらく〔解釈について〕おっしゃるとおりだと思います。わたしは ☆☆ (No.1補足欄) わたしは このマナ識を広く《意志》ととったのですが ☆ というように言っています。これは そのように広く採ったほうが一般的な理論になるのではないかという――ブッディズムを無視した勝手な――解釈です。 ▲ (中村元ほか編:仏教辞典:末那識) ~~~~~~~~~~ 唯識派が説く 深層に働く自我執着心のこと。 末那は サンスクリット manas の音訳。原義は《考えること》。《思量》と意訳される。 この場合の思量とは《恒審思量》といわれ ・ 恒(つね)に すなわち睡眠中でも覚醒の時でも 広くは生死輪廻するかぎり 深層において絶えることなく働きつづけ さらに ・ 審(つまびら)かに すなわち根源的な心である阿頼耶識を対象として それを自分であると考えて執拗に執着しつづける心をいう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづ一般に《自我執着心》として受け取られていることを確認できます。 つぎに 《考える》とありますが 《執着する》という意味を帯びるのならそれは《思う》の意味合いが強く しかもその思いは何かにつけて思惟や行動に現われることになるとすれば 意志行為に限りなく近い。こう思われます。ただし これはブッディズムに好意的に解釈したものですから このマナ識もアーラヤ識も 不必要だという見解のほうが一般的であり得ます。おっしゃるとおり ★ これは定義の問題なのですが。 ご投稿をありがとうございました。