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意識と行為
定義の問題ではなく、 (1)人の行為には必ず、行為というものにはいずれかのレベルの意識や心が伴うものなのであろうか? (2)人以外の、例えば哺乳類などの生物にはどんなレベルの意識や心も伴わないものであろうか。意識や心ということの定義を抜きにして、日常の普通のことばとして。法解釈では、人とか、行為とか、故意とか、きちんと定義されているが、それは法律の一貫性と、体系のためであるに過ぎない。つまり便宜的定義でしか過ぎない。 (3)仮に人においてどんな性格、どんなレベルの意識や心の伴わない行為がありえたとして(無論、宗教的無の境地ということではなく)、(3)-aそういう事実行為はその行為者の意識は心にどんな影響があるだろうか?或は残すだろうか? (3)-bそういう事実行為に対して、向上と堕落という面からの評価がやはりありうるものか? 責任という側面を除外して。 (3)-向上と堕落というのは、意識と心に対していうのであろうか? 何か含みが内心にあるような助けて、質問ですが、解脱(新宗教ではありません)の行為の性格を読書中なのですが(インドの聖典で)そういう読書プロセスで、一体人の行為って何なのだろう、考え込んでしまっております。
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こんにちは。 質問者さんがヒンヅーの文化を研究しておられるとは露知らず、何時ものように以下のような回答を作ってしまいました。ですけど、デタラメは書いてありませんから、何らかの参考にして頂ければ有難く思います。 「行為」とは、「主体が行動を選択すること」であります。そして、我々動物の「行動」とは、入力情報に対して「利益・不利益の価値判断」が行われることによって選択されるものです。 動物の身体内外に発生した環境の変化は知覚情報として中枢神経系に入力されます。それぞれの中枢神経には生後の「学習結果」や遺伝的にプログラムされた「生得的反応」といった「入力情報に対する判定基準」が設けられており、動物の行動や生体反応といいますものは全てがこれに基づいて選択されています。これにより、我々動物は与えられた状況の変化に対応した適切な行動を選択することができます。そして、この行動選択のプロセス、及び結果が「行為」であります。 >定義の問題ではなく、 (1)人の行為には必ず、行為というものにはいずれかのレベルの意識や心が伴うものなのであろうか? 我々高等動物の脳内には行動選択に関わる中枢系が三系統あり、「意識」と「心」では発生する場所が異なります。従いまして、我々の「意識」や「心の動き」、及びそれに基づいて選択される行動といいますのは、このような解剖学的構造に基づいて以下のように分類することができます。 「生命中枢:無条件反射:本能行動:無意識行動(本能行動)」 「大脳辺縁系:情動反応:情動行動:無意識行動(学習行動)」 「大脳皮質:認知・思考:計画行動:意識行動(学習行動)」 このうち、「意識」というものが発生するのは大脳皮質の系統だけです。これに対しまして、我々の脳内で「心の動き」を司っていますのは「大脳辺縁系の情動反応」であり、大脳皮質には「心」というものはありません。そして、生命中枢の本能行動は無条件反射という無意識行動であり、主体の学習体験や人格・性格などによる「心の動き」というものは一切発生しません。 「行為」とは何らかの意識や心が伴うのかというご質問ですが、我々の脳内では、行動選択といいますのはそのプロセスにおいて、 「意識を伴うもの」 「心の動きに従うもの」 「どちらとも無関係で遺伝的なプログラムに無条件で従うもの」 このように三種類にはっきりと分かれています。 ですから、我々の行為といいますのは全てが意識や心の動きの伴うものではありません。では、解剖学的構造の違いを問わず、我々が行動の選択を行なうために必ずや存在しなければならないのは、それは意識や心ではなく、行動選択の動機、即ち「意志」であります。 但し、上記のうち本能行動の選択基準とは生得的に定められたものであるため、これは自分の意志ではなく、「生命の意志」ということになります。定義というものを行ないますと質問者さんに注意されるかも知れませんが、ここで「意志」とは「滅びに逆行する結果選択」であります。 我々の宇宙には必然的な結果のみに従うならば「形あるものは全て滅びる(エントロピーの法則)」という大原則があります。ですから、これに逆行するためには何らかの別な結果が選択されなければならないわけでありまして、これが「その系の意思」であります。このためには、代償としてそれなりのエネルギーの消費が必要であり、このエネルギー循環の可能な開放系を「散逸構造」といい、これによって「滅びの原則」に逆行し、自らのシステムが維持・再生されることを「自己組織化」といいます。 ですから、宇宙が滅びないのは「宇宙の意志」、地球システムの自己組織化は「地球の意志」であり、生態系は「自然界の意志」であります。そして、我々が知的目的を持つのが「自分の意志」であり、本能行動は「生命の意志」ですね。このように、自己組織化現象に必ずしも意識や心は必要ありません。では、何らかの結果選択に必ずや存在するのは、それは「意識」でも「心」でもなく、「意志」であると捉える必要があると思います。 >(2)人以外の、例えば哺乳類などの生物にはどんなレベルの意識や心も伴わないものであろうか。意識や心ということの定義を抜きにして、日常の普通のことばとして。 上記の中枢系のうち、「大脳皮質」と「大脳辺縁系」といいますのは我々哺乳類と鳥類がその祖先である爬虫類から進化をする過程で、それまでの生命中枢を土台に発達させた「新皮質」であります。従いまして動物界といいますのは、この脳の解剖学的違いを基に、哺乳類及び鳥類を「高等動物」、それ以外を「下等動物」とし、現存の爬虫類を境に真っ二つに分断されます。 只今述べました通り、この二つの新皮質は意識行動と情動反応という学習行動を司る中枢であります。従いまして、哺乳類と鳥類における「意識」と情動」といいますのは、我々人類とその構造が全く同じです。 ですから、イヌ・ネコにも感情はあり、スズメにも計画行動・理性行動が可能です。そして、それは三系統の中枢のうち、どの反応であったかによって「本能行動」「情動行動」「計画行動」に分類されます。 これに対しまして、爬虫類以下の下等動物といいますのは脳の構造が全く違いますので、少なくとも我々と同様の意識や情動が発生しているということは考えられません。ですが、現在では爬虫類以下、昆虫類までが何らかの学習能力を持つことが広く受け入れられています。では、これを基に行動選択の違いを比較しますならば、高等動物ではその機能が三系統であるのに対しまして、下等動物ではそれが以下の二系統に分かれるということです。 「無条件反射:本能行動:無意識行動」 「条件反射:学習行動:無意識行動」 やや強引ではありますが、これでゆきますと、下等動物にはどうしても意識というものは発生しないことになってしまいます。また、「条件反射」といいますのは我々高等動物にも存在する学習様式でありますが、これは「無意識な学習行動」という点では、性質上としては情動行動に分類が可能です。そして、下等動物の方に異なる点とは、この条件反射において情動反応を発生させる機能が脳内に存在しないということですね。 では、条件反射がその性質上、高等動物の情動行動とたいへん良く似ているということは、解剖学上は下等動物に情動というものはありませんが、外見的にははっきりと判別ができないということにもなります。実際には「恐怖といった感情」が発生するわけではありませんが、学習能力があるということは、苦痛という反応を学習するならば、自分からそれに近付くことはないということです。 昆虫には意識も感情もありません。それが分かっていても、いじめられて逃げ回る姿を見れば可哀相と思いますよね。これは、我々高等動物には情動というものがあり、更に人間には、その発生を「感情」として意識の中に自覚することができるからです。このため、「心の動きとは大脳辺縁系の情動反応である」というのが生理学的な定義であるにも拘わらず、それとは別に、「一分の虫にも五部の魂」という、一般的には全ての生命を愛しむ論理が存在します。質問者さんの仰る「定義というものを抜きにして」というのは、このようなことではないでしょうか。 だとしますならば、それは情動というものを自分の意識の中に自覚することのできる我々人間の能力が積み重ねてきた認識であるということになります。我々人間はこれにより、目で見ることのできない他人の意識や他の動物の情動を頭の中にシミュレーションすることができます。これがどういうことかと申しますと、我々はその意識の中で「自分の行為」と「他人の行為」を比較することができるということです。では、その先には当然のことながら「道徳」や「法律」というものが発生してくるわけですね。 >法解釈では、人とか、行為とか、故意とか、きちんと定義されているが、それは法律の一貫性と、体系のためであるに過ぎない。つまり便宜的定義でしか過ぎない。 これまでご説明致しました通り、我々の行動といいますのは、 「本能行動」 「情動行動」 「学習行動」 に分類され、その定義に収まります。 ですが法律では、それが何らかの形で他者の利益を侵害するものであるならば、この如何なる定義に基づく行為であろうとも、分け隔てなくそれは「業務上過失」ということになります。「過失」といいますのは読んで字の如く、それが意識であるか無意識であるかというのは一切関係がないということですね。 このように、生物学的にはたいへん明確な定義があるにも拘わらず、法律ではそれがそのまま運用されているわけではありません。例えば、「強姦」といいますのは生得的欲求に基づく「本能行動」であり、それは当人の自覚の及ばない無意識行動であります。ですから、生物学的にはそれは「故意」ではありません。ですが、法律が定めるのは、それが意識行動であり、故意であったかではなく、そのひとに通常の判断能力が備わっているかどうかです。果たして、それは判断能力の高い低いではなく、法的には二十歳を過ぎるならば判断能力は備わっていると定められています。そして、通常の判断能力が認められない場合は精神鑑定ということですよね。 では、「故意」であるかどうかといいますのは、その状況や動機・計画性によって評価されるものであり、過失・違法である限りそれは有罪・無罪ではなく、罪の重さに関わるものであるはずです。先に申し上げました通り、行選択には必ずや動機、即ち「意志」が存在します。そして、我々の「行為」とは、すべからく肉体的・精神的利益の獲得であります。では、これが他者の利益を侵害するならば、法律はそれを無罪とは認めません。 >(3)仮に人においてどんな性格、どんなレベルの意識や心の伴わない行為がありえたとして(無論、宗教的無の境地ということではなく)、 先にご説明致しました通り、「意識も情動も伴わない行為」とは、「本能行動」がそれに当たります。 我々の行動といいますのは知覚入力に対する価値判断に基づいて選択されるものですが、本能行動を司る生命中枢の判断規準といいますのは、遺伝的に定められたプログラムに従う無条件反射であります。ですから、このプログラムを自分の意志によって変更することはできませんし、反応の結果は何時如何なるときにも同じです。そして、それは全人類に共通の反応規準であるため、遺伝的な体質はあっても、そこに人格や性格というものは一切介在しません。 >(3)-aそういう事実行為はその行為者の意識は心にどんな影響があるだろうか?或は残すだろうか? その行為の結果が積み重ねられ、全人類に共通の本能行動ではなく、一個人の意識現象や多彩な心の動きとして反映されるものが学習行動であり、それが即ち我々の「個性・人格」であります。 我々の「学習」といいますのは、選択された行動の結果に対して行なわれるものです。この体験結果が次の行動の判断規準となり、その積み重ねが我々の人格や性格というもの形作ります。ですから、この基となる個人体験といいますのはひとそれぞれでありますから、性格といいますのは生後環境によって様々です。全人類に共通の本能行動とは異なり、何に対してどのような行動や反応を示すかは千差万別であり、それが個人差であり個性ということになります。 このように、学習といいますのは行動選択の結果に対して行なわれるものであり、人格とはこれによって形成されるものです。では、生まれたばかりのときは学習記憶が白紙状態でありますから、行動選択の基準となる体験はありません。ならば、最初の学習といいますのは本能行動の結果に対して行なわれることになります。そして、この結果が利益と学習されますならば、次からは自分の本能行動をより効率良く実現することができます。 これが学習であり、このため、学習行動といいますのは、基本的には本能行動とは異なる結果を獲得することができるわけですが、その「利益・不利益の価値判断」といいますのは、やはり我々に動物として定められた「生命活動の実現」という目的に必然的に従うことになります。ですから、学習結果といいますのは人それぞれではありますが、少なくとも苦痛や死といったものを自分の利益と学習してしまうことは、まず間違っても起こらないわけです。 「意識」とは大脳皮質の認知情報を扱うものであり、情動反応として発生する「心の動き」とは、大脳辺縁系における学習結果が反映したものです。そしてこれらは、意識も情動も伴わない本能行動の規準に従って知らず知らずのうちに形作られてゆきます。 >(3)-bそういう事実行為に対して、向上と堕落という面からの評価がやはりありうるものか? >責任という側面を除外して。(3)-向上と堕落というのは、意識と心に対していうのであろうか? 「向上する意識」「堕落した心」、このような判定を下すためには、行動選択の結果に対する「判定基準」というものを何処かに設ける必要があります。通常、このような判定は「個人の利益」や「社会の道徳観」といった流動的な価値観による主観的なものであり、客観性というものが何処にもありません。では、絶対的な価値観とはいったい何かといいますならば、それは意識でも心でもなく、我々が動物として定められた「生物学的利益の獲得」ということになります。 本能行動の選択基準といいますのは遺伝的に定められたものであり、この結果を変更することは絶対にできません。従いまして、これに対して良い・悪いなど、如何なる評価も存在し得ません。唯一これを判定することができるのは、進化か絶滅かの自然選択だけです。 では、学習行動が本能行動よりもより柔軟で価値の高い結果を獲得するためのものであるならば、本能行動に対する学習行動の比率の高さを「向上」と評価することは可能です。ですが、その結果は飽くまで生物学的利益の獲得に結び付くものでなければならず、人類の独善的な価値観によってこれを怠るならばそれは「堕落」であり、進化存続の道を絶たれても文句は言えないということになります。
その他の回答 (2)
1)自由な心と、そうでないものによる行為があるのが認められます。 自由な心とは想いの束縛を受けていないことであり、そうでないものとは、想いの束縛を受けていることを指します。 意識とは、想いからなるものであり、想いは、意識と言う「海」のような生態系を形成している、様々な海中の生物達のようだとイメージしてもいいでしょうか。それは、個々の生物達(それぞれの想い達)や、その集合(群れや、小さな生態系)、などが入り組んで、一つの大きな海(意識)と言う生態系を形作っている様に似ています。 2)例えば、小さな生命体、例えば小エビのような生き物でも、沢山の細胞からなっており、その生命活動のシステムは、小さな世界を形成するほど、様々なレベルで、ある一定の法則性のようなものによって動いているように見えます。小エビならば小エビに相当する世界が、亀なら亀に相当する世界があることでしょう。しかし、この(2)の問で使われている「意識」とは、先に述べた海の生態系ほどの大きさを持つ人の意識です。それに、心と言うものは、先ほど言ったように、想いの束縛を受けることのない自由を顕すことができるものですので、海の生態系よりも更に広大で、かつ、海下が生き物同士の闘争や、海の災害などに満ちていたとしても、海上には、その闘争や災いが及ばないように、自由な心は、意識と言う想いの全てから脱した、静かな、闘争や災いのない、意識の海面を離れた所で体現されると言ってよいものです。 ですので、何者かが、海の生態系のような広い意識を持っており、かつ、それを越え、海の水平線の彼方まで見渡すような広い心、自由な心を持ち合わせているとするならば、それが何であろうと、彼は「人である」といってよいと思います。 3)a)どんな性格も、どんなレベルの意識をも離れて、それらからの影響を何一つ受けないでおり、(レベル、階層の違い、大小、順逆、遅速などの虚構による考え方を離れた)自由な心でそれを成すならば、それは、かつて様々な意識によって誘発されてきた行為や、及び、それらの意識とは何の関わりもなく、かつ、それらに何の影響(害悪)を与えることもなく、また、これから起きる、そのような意識にまつわる事柄に対しても、何の(悪しき)影響ももたらさず、かつ受けない、純粋なる行為として現れることでしょう。 3)b)この、自由なる心の行為を成すことにおいて、堕落はもちろん在りませんが、向上と呼ぶものも、それを成すこと自体においてはありません。と言うのも、向上、堕落と言う考えが、意識上に設置された、「階層」、乃至「順逆」「優劣」などと言う虚構の思考パターンの一種類に従っているに過ぎないものであり、自由な心とは何の関係性も、(本来的には)認められないものだからです。しかし、自由な心による純粋なる行為を成して、その徳高いことを覚えて、更にそれに専念するならば、人は、その歩みが向上するものでも、堕落するものでもなく、平らかなものであるとさとるでしょう。何にも従属せず、タイミングを越えていて、常に完璧な形で成されるその行為を覚え、その行為のみを成すに留まるに至ったなら、彼は(海を平らかにわたり終えて彼方の岸に到達した人であり、)この世(意識の支配する世界)から解脱したのです。 人はこの、自由な心による行為にこの上ない(意識上にはない、世を越える)楽しみのあることを覚えてそれに専念し、無上の智慧を備えて苦しみの世から解脱します。
お礼
03:03とは私が起床して、戸外で体操をしている頃です。今貴殿は多分お休みかも知れません。ありがとう御座いました。どうやって貴殿の意識と同じ世界での、読解ができるか、読書百遍ということで試みます。ありがとう御座いました。
補足
透徹した思索の跡の残る、ご講述です。自由なこころというフレーズに始まり、波、平らなる超越の解脱状態に言及する、このご回答は違うジャンルで、方法と原則が、言語的差異がある私にも非常に示唆に富むものを含んでおります。自分の語感での受け取りではなく、もっと自分を白紙にして、お気持ちから理解できるようにしていきたいと存じます。同じ日本語、同じ単語と文法とはいえ、一語一語、そして行の運びの間に、私の中のタームとしてではなく、受け取れるように更に熟読させていただきます。ありがとう御座いました。
- nisekant
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回答ではありません。 詩人ポール?ヴァレリー 「心の仕事とは未来を想像することである」 意識の役割 情報は予測不能性、無秩序、混乱、混沌、驚嘆、記述不能性、意外性、他者性の尺度であり、秩序はその反対の尺度である。 意識はさほど多くの情報を含んではおらず、自らを秩序あるものを見なす。情報を捨て去ることによって、周りの無秩序や混迷のいっさいを、現象の起源を示す単純で予測可能な法則に還元できることを誇っている。 文明は、私達の生活から取り除く社会体系や技術体系から成る。文明は、進むにつれ、意識が世界から退くのを可能にしていった。 こうして、世界の有り様を解釈したものが世界そのものであるという世界観が生まれた。その中では、地図は地形と同一視され、〈私〉は〈自分〉の存在を否定する。神の摂理という形以外の他者性はいっさい排除される。人は、他者性もまた良いと信じないことには生きていけない。 しかし、意識も平静の時代を迎えた。人とその意識について意識的な研究がなされ、人は意識を遥かにしのぐ存在であることが明らかになった。人は意識が知っているより遥かに多くを知覚したり行なったりしついることがわかった。私達は周囲の世界のシミュレーションを行い、それが世界そのものであるかのように経験し、信じているが、そのシミュレーションは、錯覚と還元の産物だ。それは、私達の外側の世界に満ちている予測不可能な他者性の大半を捨て去ることで得られる。系統だった錯覚と還元によってのみ可能となる。 意識ある〈私〉は、自分の周りにある世界を説明できないことを悟らねばならない。世界について私達が与えることのできる形式的で紛れのない記述では、その世界を余すところなく予測することはおろか、記述することさえおぼつかない。人間の意識のように狭い帯域幅の意識に取り込みうる、単純化された形式的記述では、私達の外側にある異質なものの豊かさを記述するには、決して十分でないのだ。 私達の内側、言わば意識を持ち歩く人間の中で起こる認知プロセスや心的プロセスは、意識が知ったり記述したりできるよりも遥かに豊かなものだ。私達の肉体は、口から入って反対の端から出ていく周りの世界との協力関係を持っているが、それが意識に上がることはない。肉体は、強大な生命系の一部であり、その生命系が、生命を帯びた惑星地球を全面的に形成し管理している。 意識ある〈私〉は、外なる世界も内なる世界も説明できない。従って、これらの二つの世界の間のつながりを説明することもかなわない。 1930年、クルト?ゲーデルは、形式的体系には限界があり、完全かつ無矛盾たりえないことを記述した。有限の記述では無限の世界を絶対に記述できないというのだ。 意識は、自分の内側と外側、いずれの世界も記述することはできない。内側にいる人間も、外側にある世界も、意識が知りうる以上に豊かなのだ。どちらも図に描いたり記述したりはできるが、余すところなく知ることはできない深みだ。そして、両者の間には意識の知りえない繋がりがある。内側と外側の深みは、二つ合わせて「ゲーデルの深み」と呼べるし、意識はゲーデルの深みに浮かんでいる、と言える。 ゲーデルの定理は、嘘つきのパラドックスの現代版を踏襲している。嘘つきのパラドックスは、意識が産声を上げた古代ギリシアで発見された。 意識は人間に嘘をつく能力を与えた。真実ではないことを述べる能力、言ったことと意味したこととの間にずれをもたせる能力を与えたのだ。 このパラドックスの現代版とも言えるゲーデルの定理は、ポーランド哲学者アルフレッド?タルスキーの手にかかると、ある命題が自らについてその真偽を証明することはできないという知識、というふうに定式化される。 従って、「私は嘘つきだ」という命題の特徴は、このパラドックスに名を残している「私」という言葉であり、話し手が自分の話に言及しているという事実だ。 この自己言及のせいで問題が起きる。肉体は嘘をつけない。肉体は帯域幅が広すぎて嘘をつけない。だが、〈私〉にはそれができる。いや、〈私〉にはそれしかできない。〈私〉はあたかも〈自分〉であるかのような顔をする。だが、事実は違う。〈私〉は〈自分〉であること、〈自分〉を支配していることのシミュレーションをする。しかし、〈私〉は〈自分〉の地図にすぎない。地図は嘘をつくことができる。地形にはできない。「私は嘘つきだ」は嘘つきのパラドックスではない。意識についての真実だ。 意識は、地球上の生物の進化によってもたらされた、素晴らしい産物だ。不断の自覚、大胆な解釈、活気をみなぎらせる手段だ。しかし意識は、世界を支配してはいないと認めることによって、そしてまた、世界の単純な法則や予測不可能の原理を理解しても、世界が一体どういうものなのか推測できないと認めることによって、今まさに平静を保とうとしている。 意識はそれほど古いものではないが、人の生活を支配するようになってからの数千年間に、私達の世界を変えてきた。その変化が余りにも大きかったため、自らを生み出したメカニズムの餌食になりつつある。意識は、自らの経験している世界シミュレーションが世界の本当の感覚であり、人が意識の上で経験しているものこそが、実際に知覚されているものであり、人が知覚しているものこそが世界そのものである、というふりをしている。 従って、意識は、それ自身にとって危険な存在になってしまった。自身がただの意識であり、本当の世界の有り様ではないと意識していないからだ。人間は周りに起こる急速な変化を感知して、それに気づくことができる。そもそも意識は、私達が周りで起きる特定の変化に気づくために発達したものだ。意識は急速な変化、明滅する明かり、既知の危険を見出そうとする。 しかし、意識が生み出した文明は、今や完全に新しい形の変化をもたらしつつある。それは、緩やかな変化、潜行性の変化、地球規模の変化、すなわち、種の絶滅と地球環境の劣化。環境危機によって私達がさらされている危険や難題は、人間の注意が自動的に向くようなものではない。人間も一つの種として、周囲の様々な事柄に気づくことを学んだが、そうした要素はもはや真の脅威ではなくなった。
お礼
ありがとう御座います。肉体、これは意識の上で何なのでしょう。この世界、この世界とは、単に意識を超えた世界ということでは何も表現していないことになるのではないかと、愚考しております。寧ろこの意識がどこからどうきて、一体何ものなのだ、ということ。そして肉体と肉体がその一環、一部だという、この世界。これは一体何なのだ。それらが確かに意識を超えた存在である、ということはわかる話ですが、その意識というのは肉体とそれが存在している世界の何なのか。肉体とその存在する世界は意識を含み、それを越えるものという、ご講述は、その肉体と世界の考究のことは不可知である。せいぜいが分科科学が断片的に見出すようなものの域は出られない。ということになるのでしょうか。そういうふうに、ご講述を理解することは多分許されないのでしょうね。私の中途半端な理解ですね。そういう理解だと自らの自己放棄にもつながり、世界とその創造たる人間を、創造と存在を冒涜していくことになりますね。なんとかこれに対して歯止めが欲しく何度も読み直しております。勉強が足りないのでしょう。すみません。ありがとう御座いました。
補足
私が読みなれている、お行儀の定まった記述とは少し違って、反芻の時間を要求されてはおります。正直を申しあげれば、私は徹底することに恐怖を覚え、ヒンドゥ的考え方に敢て進み、勉強しております。つまり、お記述の視角については、私も非常に恐れを抱きながら垣間覗いてきました。私がおののき避けてきたことが語られていると存じます。いずれにしろこれを覗き込んで、出来れば出て、今のヒンドゥの勉強を継続したいと存じます。そういうsympathicを自らに感じながら、ヒンドゥの神学の教説においては不十分なところも感じているというのが実感であります。教説で説得する立場ではありませんので、それを披瀝し、議論に入っていかないように、用心したいと存じます。質問というものはありません。一定の考えではこういう見方も、思いも可能だと思えますので。ただ貴殿のご論述で、注意をひときわ引くのが、肉体と意識の対比の部分などであります。これはもっと考えていく必要があると、自分に思いました。もう一つが、意識している内容は、出来る内容は決して対象とされているものの、実体でもなく、また大きさや内容でもないというご趣旨であります。その場合の意識ということば示しておられるものと、意識一般とのズレがないのだろうか、という思いに悩んでしまいました。キーワード的には、肉体というもの、この世界というもの、そして意識ということばが示している未確認なるもの。これらのことを西欧的考究ではない視角で、統一的に見ていこうとするのが、ヒンドゥのサンキャなどなのでしょうが、そのいうところを承認するならば、西欧的考究は一応ナンセンスとなるものでしょう。貴殿のご論説は私達の、地上でも、理屈で理解していける、当然の論説でありますので、公開のおはなしとなる性格、いわば討議のないようとなりえましょう。私が勉強しているヒンドゥの類は、貴殿と私が共有している、意識を越えた宇宙の意識を起点としているので、また公開の言葉にに乗せることのできる範囲の外のようでして、ご紹介申しあげられない非力をお詫びいたします。
お礼
どのような感謝のことばがあろうか!貴殿とこのページに。クリスチャンではない私は聖書ではない聖典があり、その聖典に次いでの手元におくバイブルとなります。もちろん信仰の宗教聖典は、この第二のバイブルが科学と、事実界の、創造界の詳細、丁寧、整理され、行き届いた説明につきておりますのに対して、一応宗教書ですから、この創造界が来る前、そして行く所、という具合に物証界をはみ出した部分を基本として含み、当為意志を最高価値としている中で、その内容を伝えてきております。従い、ご記述のことは全く何の疑義や反論は勿論ないが、それは事実界の事柄であり、当為意志と価値理念の要請である内容とは、範域が異なるものである、という切り替えをしながら(一部についてですが)読んでおります。正に五時から今七時半。もう直ぐ朝食。私は二時半起床でして。ご記述されている事は、実は私が長い間、捜し求め、欲しかった知識です。勿論たくさんの本もございますでしょう。現実に何冊も手にしてきました。でも先ず量がこのご記述の数十倍。素人(私は法解釈など)の私が、何年かかっても理解のできないものです。でもいっぱいコピーなどもし、たくわえ、大脳の構造なども、一生懸命勉強しました。その印刷した図をもう一度引き出して、図で確認しながら、後数日掛けて勉強させていただきます。たくさんのキーワードというか、やさしく判る言葉も拾い集めさせていただきました。A4三枚になりました。間を開け、字を12にしましたので。ありがとう御座いました。これで、大脳や意識、意志、情動(私達は心とかいうのです。まぁマナスという用語で、Sanskritですが)に関する、科学での勉強は段落がいただけるでしょう。 余計ですが、転換ミスが一箇所ありました。五分の魂です。部と転換してありました。ありがとう御座いました。
補足
何でも独学できておりますので、ともかくも戴いたものを一生懸命咀嚼し、そして、整合的に取り込んでまいります。貴重な基本書です。無料で。感謝です。そして、何日かの勉強の後、貴殿に気づいてもらえるように、もしあれば、再度の“聞きたい”を投稿することになるかもしれませんが、どうかお許し下さい。