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明石藩の中の薩摩藩の飛び地
明石藩の中に薩摩藩の飛び地があったと聞いた事があります。それは事実でしょうか?またあったとすれば、現在の明石市のどのあたりになるのでしょうか?
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江戸時代より前の豊臣政権下のことなので、 薩摩藩の飛び地というより、島津家の化粧領地ということですが、ありました。 豊臣政権下で姫路城には豊臣一門の木下家定が入り、姫路周辺には太閤蔵入地と称される、伏見の秀吉直轄領の村が多数ありました。 文禄の役の最中に秀吉は島津領の検地」を石田三成・細川幽斎を派遣して実行します。朝鮮にある島津義弘に対して秀吉は「虎狩り」を行なって後、伏見に赴くように命令しています。 この文禄4年(1595)に伏見に於いて朱印状を与えられ島津大守の地位を保証されていますが、この時に秀吉は、姫路の太閤蔵入地のうちから庄屋井上惣兵衛茂一の管理する一郷村百町歩千石を島津義弘に与えたと伝えられます。伏見に置かれている島津家の京都人質(1587年の島津征伐後より、義久三女亀寿以下、北郷・伊集院・新納の実子など)の生活費用として使用するように秀吉が与えたものではないかと言われています。 残念ながら大坂城陥落の際の火事で、多くの古文書が失われ、現在のどこかは、定かではないですが、関が原までは伏見の島津屋敷に年貢が、納められていたようです。なお井上惣兵衛茂一は、善政をしき伏見の島津家中にも親切に尽くしたので、義弘より、島津姓・家紋旗指し・脇差を、与えられたそうで、その子孫が島津製作所創設者・島津源蔵氏です。
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- Pinhole-09
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三木市内の元井上村あたりでしょうか。 元太閤蔵入地で元和三年明石藩領となるとありますが。?
お礼
調べていただき感謝いたします。 領地の関係はかなの入り組んでいるのですね。参考になりました、有難うございました。
お礼
有難うございました。こんなに早くしかも詳しく教えていただけるとは思ってもいませんでした。本当に感謝いたします。