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ウィトゲンシュタインと価値命題
私たちは「~すべきだ」と言う価値命題を使いますが、ウィトゲンシュタインはどのように「価値命題は使えない」と言う結論に至ったのですか?教えて下さい。
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そうですねえ。どう回答するか。 「~すべきだ」という当為の表現は、制度のなかで見つかりますよね。 この制度に因んだ言説に対して、彼はこんなふうに言います。人間は「私的に」規則に従うことはできないと。ウィトゲンシュタインのこの批判をヒュームと比較して論じたのはクリプキですが、ここではクリプキに倣って回答してみます。 まず、どうして「人間は私的に規則に従うことはできない」と言えるのでしょうか。ウィトゲンシュタインは因果律について考えた人です。因果律とは、例えばボールを手に持っており、その手を放せば、ボールは落ちる。「手を放す」という原因から「ボールは落ちる」という結果が導かれる。 これを演繹と言いますが(他に帰納ってのもありますよね)、古来から使われてきた論証のための推論方法(演繹や帰納)は、実は論理学的な意味での「方法」ではないと批判したんですね。 演繹や帰納は要するに習慣のひとつであって、真に論理的ではないと言ったのです。 では「人間は私的に規則に従うことはできない」に戻りましょう。人間は規則に従うとき、それは必ず「公的」でなければならないと彼は言いました。言い換えてみるとこうです。物事に因果律があると認めることは、絶対に「私的」には行えない。 なぜなら、自分ひとりが「ある」と言って、もし自分以外の人々が誰ひとりとしてそれを認めなければ、そこに因果律があるとは言えないからです。 因果律は習慣的に決定されるのです。 では、価値命題とは何でしょうか。それは、物事の評価(つまり、ある物事はどうある「べきか」という当為)に関わる命題ではないでしょうか。だとすれば、それは必ず公的にしか決められないものなのです。 その命題が使えないとしたら、それは「私的」に使う場合でしょうね。